3
その矢は、傷ではなく穴を創る。創傷、その言葉が相応しいほどに派手に粘着した血を出さんとして穴を開けた。
貫通、しているが傷口がそのまま奥の景色が見えるほどではない。しかし確実に、そして矛盾して刳り貫く。傷口から、皮膚でもない分厚い赤が盛り上がっている。それを血肉だと遅く了知してすぐに、
「人質って、傷一つないことが前提だからな」
理解が追い付かない。彼にはこの義手の特性を見たはずだ、四肢不全の自分でさえ神体を破壊したことを聞いているはずだ。これは義肢で痛覚は都合よく取り除かれていて、更に自分が余裕気に腕を上げたはずだ。それが何を示すかを分からないと言うのだろうか。肉体が傷をついて玉の汗をかくほどには正常に痛がっているくせして。呼吸の粗さを隠せないくせして。
「喫茶店の時、どうして俺を庇った?」
「え」
間抜けた声が出てしまう、抑えられないほどに動揺している。
――喫茶店
初日の、まだ自分が騙されていた時だろう。それまで子供っぽく振る舞っていたユメから異変が皮膚下から覗かれて、思い切りだ。
それへの理由、本能的に危機感を感じて死なせそうになると思ったのみだ。加えて彼女は――後にそれが血肉を形成するアイデンティティではあったが――碧眼である自分を対象に絞ったのなら、ターゲットは自分へ固定される。だとしたら庇うも何も、自分で対処し得るタスクに他ならない。
「危ないって思っただけ」
いや、それでは不十分だ。仲介屋は自分の行動を「庇う」と表現して聞いている。つまり彼は「ヒラサカにとって仲介屋は仲間」という誤解をしながら聞いていることに等しい。それは、正さなければならない。それ故に自分を人質に出来ると考えているのなら尚更だ。そんな淡いもので、彼を裏切ることは自分だってしたくはない。
「……邪魔だったしね、にしてもこんなことになるくらいなら、トンっと殺しちゃえば」
言い終わる前に、矢が一本仲介屋の眼前に。その鏃が眼球を映し、あるいは掠めようと風を裂く。
その間際、割入って弾いた。痛みはないが、鈍く鏃は歪む、それも石でもない鉄製。だがそれは、盾になろうとした時に分かっていた。その衝撃はどう来るかも吟味する準備も、傍にいた男もそれを見ていなかった訳がない。
地に転がった矢達を見るが、矢柄から先にかけて均一に仕上がっている。鏃は平根型、地に転がっていた仲介屋を傷付けたそれらにも返り血が付く。表面が照る、所々に薄っすらと何かを付けていれば息を粗さを明確に示す。
そして本来と異なり、軌道補正として必要なはずの羽根の部分が欠けている。つまり脆弱な槍として乱暴に投げられ、可能にしているのが外部の力によるもの。それが誰かによって、自分達を俯瞰して襲いかからんとしている。
血が、凍っているはずの何かが巡っている。だが冷静な思考回路ではないのだろう。自覚している。この熱さは、殺意とよく似ている。もしくは、衝動だ。まず誰を優先するかを先に、頭に血が昇って上手く回らない。
目の前に一つ、射出される。その束の間のひずみと渦を確認した。時空の歪みであり、これが干渉部、ということなのだろう。矢は、これも弾き返せる、だがその前にだ。その前に、根源を引きずり出さなければならない。
もう誰かは見当はついている。
ついているからこそだ。捕まえる代償に眼球を一つ奪われても、彼の戦闘能力なら後に支障はない。目一つで支障になるというのなら自分は盾ではない。
「隠れろ」
――機能はしなかった。機能は止められた、目の前の腕によって、また。鏃がぼうっと、貫いた腕から突き出て、目の前で止まる。多少の酩酊さはあるが、怪我ではない。視覚的な、錯覚的な問題で脳が揺らいでいる。ただ飾ったのは返り血、その程度のみだった。
言葉が出ない。急速に回転していた思考回路が、前触れなく停まっている。出ない、何もかも、吃音未満の声にならない息しか吐き出せない。
その状態を良いことに、自分の体を仲介屋は持ち上げる。左手を自分の大腿に、右手を背に沈ませた姿勢。
――降ろせ
自分の体重は50あるかないかだ。その体勢は、今の状態には負担が大きすぎている。腕が、手が濡れて傷も塞がっていない。なのにさも健常を言わんばかりに自分を胸に抱く、深く。
空いた足は駆ける為のもの。だがそれも射程範囲に変わったらしい。走ろうとした直前にバランスを崩す。しかし自分が放り出されることはない。それだけはせまいと抱き留めたまま、背を丸くした。
「……戻る気はないか?」
彼の鼓動が、背中の刺し傷と混淆する。痛みは常人の想像を絶している。それでも腕の力だけは解かない。いや、もう筋力は落ちているくせして、自分が動かない。動くことができないのだ。
「戻るって? どこに?」
戻る、過去にだろうか。具体的な居場所をどうして言わないのか。だが返答はない。頷きもしない。彼は、今の問いに聞こえているのだろうか。
「僕が?」
それも答えてくれない。激しい音のみがして、黙る。激しさがなくなってしまった時はどうなるか。どうなるか、分かっていてもどうしようもない。
「……ワンと呼んでいるくせに、何を言っているんだよ」
一瞬、彼の顔が見えた。逆光、そういえばここは不穏の昼下がり。そのせいか彼の顔が逆光で暈されている。目は何を語るか分からない、物も呟かぬ黒い影が占めている。
「利用出来るから付いてきたんだろ……早く使えよ……」
ただ一つ、口元を除いて。それは笑んでいた。
それは数文字だ、二文字か、もしかすると三文字かの小さな、呟きだ。奇しくもそれを聞き取ることは出来なかった。読唇術等という今は頼りない術を使って凌ぐのみでしかならない。
――それは
分かっている、それは忘れてはならない名前か、自分の名前だ。
だが何故それをワンに言う。問うのではなく、語りかけるのだ。傲慢だ、答えという儀式、確認作業を必要としない。どうして後に裏切る人間にそう弄ぶというのか、この男は。
だが、だ。裏切るくせにどうしてそんなことをするかと、言うとしよう。だがきっと彼は答えない。
答える前に、とうに矢は命を貫くからだ。または答える前に、彼はずっと前から応えていたかもしれないのだ。ここに来てからずっと、ワンではない何かとして自分に接した。ワンではない、四肢を奪われた人間として、協力者として。
だからワンとしての言葉に返事をする意味もない。部外者が聞いた無駄な時間として、命が消費されていくだけなのだと、暗に言っている。
やることは決まっている。彼を助けるべきだと、この肉体二つはそう言う。
――でもだ
皮肉だが、戻ってしまったら助けられないのが現実だ。彼は無力だ、何も出来ずにボロボロになって朽ちていった。
だとしたら、本当はその意味合いかもしれない。自分はその為のみで生きていると、高度に遠回りな作戦として。彼は教え込んでいるかもしれない。
――ああ、いいさ
だとしたら思いっ切り殴り付けてから、人質だろうが何でもなってやる。
刹那。束の間の一夢、世界は静止する。
止まることは、死ぬことと同じだ。囁きを忘れた葉の擦れはなく、仲介屋の荒い鼓動を止める。
いくばくかの、腐葉土を踏みしだく根も葉も微動だにしない。呼吸、息をするものは、一つ、一人、じぶん。鼓動も、ようやく一つ。だが温もりだけは、まだ背に残っている。あたたかい、守ろうと制するだけの手が、不可思議にここで生きている。一人なのに独りぼっちではない、そう教えるがためか、熱を残す。外部環境の刺激は鈍い、嗅覚と味覚、聴覚に 伝う生の要素。それらはもう、沈んでしまっているらしい。
『本当に油断ならないな』
世界は彼の箱庭に成り代わっている。
極たまに、彼は夢世界に引きずり込まずにこういった芸当を仕込む。実際、こうしてしゃしゃり出てくるなら、彼の所望と対象者への希望を叶える為に夢で攫う。
低い澄声が木々から鳴る。だが響かない、生きた為にいる精霊はここには宿ることはない。
だから耳に真に直に、真っ直ぐ耳に届いてくれる。部長は、昔からそういった男だ。何時になく、ちょっぴり機嫌を損ねた口振りだが、彼が舞台を用意する意図は決まっている。
これが言わば、自分の渇望か、希望か、欠望だと見えたらしい。
『望みは?』
「出力は40%ぐらいまでで。僕の仕業だと思われたくないからエフェクト付けて」
『君の強さを見せれば、人質には選ばれないと思うが』
影、今や黒塗りの奥行。それから、手が伸びていく。触手とも似ているが、粘液もない無機質。徒然に落ちようとしていた葉を飲み込みながら自分の方へ真向に向かっていくことがよく分かる。
恐れはない。はいはずだ、彼は仲介屋を殺すことさえないのだが、何気なく傍にいてくれた仲介屋の腕を頬擦る。
「よく、わかんないや」
叱責の代替、黒い指は埋めた顔に沿って、自分の顔へ滑らせて持ち上げていく。触手が、指へと輪郭を彫るらしい。目の前に影が広がっている、最早闇として近い。まだ部長の姿かたちは見えないが、指から体温が宿り始めていた。それは不均等にひえてあつい。混ぜ込んだ化物の塊が人間ふうに撫でつけてくる。その擽ったさに、ほんの少し頸を捩った。
「その責任を追うのは君らであってペットじゃないからね」
『それはまあ、いい迷惑だ』
「だよねえ、ざまあないよ」
口が塞がれる。平時、くちづけには慣れているはずだが、妙な心地になる。息を止め、だが苦しくはない。親鳥が雛鳥に餌を口で与えるように、生き方を、吐き方を染み込ませる。舌は、入れられていない。ならこれは、珍しい。彼がいつもやる形式ばったものではない。もっと軽くて没個性だが、誰よりも深い。
――蓮君には
彼には一度も出来ないくせに、自分には出来る、臆病なそれが離される。長いが呼吸を自分で激しく求めない。安定して胸部が動く。ただ面妖な心地よさだけが、時間を置いて骨にまで及んでいた。
『逃げないのか?』
漆黒が青に映す。最後まで顔は見えないが、鏡として自分の顔を見せる。虹彩が青い、自分の物ではない、塗りつぶされたそのもの。
似たようなことを聞くのだなと、苦笑した。腹立たしいが、部長も感じ取ってはいたのだろう。そうでなければ、暗闇に導くはずなのだ。この世界をこのままにして出てくることはない。戻りたいか、と言われたら人間なら誰だって答えてしまうのだろう。自分のすべての行動に後悔しない人間はそういない。そう言われてしまったら、我が儘に頷いてしまうだろうに。
ここでも意地の悪い男だ、選択さえしなかった自分にわざと聞いてくるのだから。
――だけど
蓮には出来ない臆病を等しく向けられているのなら、それも面白い。
「
そう抱いているとは思えないが、胎底に押し留めた。自分も彼と同じ、臆病者としての義理だ。
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