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 白い手が、奥へ。興味本位に資料に向けてSは手を浅くかけていたが、次第に視線は濃く注がれて持つ手は深くなる。表情には苦くも驚愕も浮かばない。ただ一擲とはしないようだ、それを自身の一滴、網膜に焼き付けようと見入る。軽口を叩くくちびるには動きが見られない。是正か、否定か、それを案ずることのみにしたただの男がそこに立っていた。

 平素ではないのか、ヒヨが様子を伺おうと顔を動かす。その拍子に長めの銀髪がハーブを薫らせる。ラベンダー、自分と同じ洗髪料の香り。それがより長く傍に寄るものでは、と期待をわずかながら抱くと同時にヨウが静かに頷いた。あの話、らしい。長く秘密にしていたあの話だと、軽い手振りでヨウが示す。


「……不全者として生まれた協会の人間は、総じて不当な扱いを受けやすい」

『イブも?』


 頷く。エダ・リストハーンとしてこの世界において自分と準ずる団体についてはある程度パターンは掴んでいる。選ばれた人間のみで構成され「神」との関係を一族ごと硬結されているのだが、機械的だ。「神」という絶対的な存在を前に、人間が井然とした状態で神と接する。これには人間が団体として「神と接する上で適切な環境を保つ」ことが原則。だからこそ陋習と仕来りによって互いの関係を密接にさせては保ち続けなければならない。

 これが典型的で理想のあり方だが、人間は完璧ではないので必ずしも理想的な人間が排出されるとは限らない。不全者とは、協会から産まれた言葉で彼らにとっては障害者には他ならない。だからそこから産まれた人間は全うな扱いを受けることはなく、九割がた食肉として生涯を遂げる。

 その一割は、食肉としての人間を必要としない家では教育者としての教育か実験台として。だがその家は往々にして自然と外れ者を寄せ集めた「機関」に集まる。機関は勝手に協会に足を突っ込んでは倫理にもとるだの口を挟むから、戸籍を得たものは頻出した。だが変わったことはそれだけだ。相変わらず肉を欲する神には肉を与え、賢い家は密かに不全者のストックを増やす。


「何も知らないで死ぬ奴は俺たちじゃ山ほどいる。それは不幸だけど、何かを知って生きたいと感じてしまうのは俺たちでは悲惨だ」

『それを、守るの?』

「社会復帰支援みたいなものだけど」


 協会の神の何割かは異世界に寄るものだというのは判明されつつある。だがそれだから協会の彼らは認めるかといえば違う。それを認めるには今までの幸福を災厄として周囲の憎悪を一身に背負わなければならない。だから引き続きなお体裁を守ろうとする協会から縛られた人間を対象としている。

 それ以外はありふれた、少し金のかかる社会復帰支援だ。不全者に対してジュリップへの雇用機会を設けると共に、奨学金の貸与など学業の奨励を図る。


「佐藤君達は操られることはないから交渉に向いている……だがそれは、教会や魔法使いの考えた効率的な利用方法。本来はそう考えてはならない、普通の人として幸せになるべきだ」


 ヨウが付け加えるが、下っ端の口出しには咎めることはなかった。彼にとっての本心の働きかけなのだろう。ヨウ・イルディアドは魔法としては若き才人としていたにせよ、彼は大成を望まなかった。本社の幹部と彼は内通し、そのツテで組織改革の一つとして試行を許されている立場である。彼は表ではまだ平社員としての扱いだが、別荘を与えられ秘書を傍に置いているのはその為だ。


 魔法使いとしては、その考えにたどり着くことさえ珍しい。だからその思考のすべてを理解することはできないのだが、彼は異世界人を住まわせた。大切にしているはずの植物を使い、瀕死だった猫を植物へと蘇らせた。


 ――あまつさえ


 この自分を救った。右眼窩の花はヨウからの処置だが、流儀としては自分のものとは遠く慣れない。だが自分ので、エダがそれに手を加えることはない。嘘で固めていると分かるであろう自分に対して、名前を尋ねられた。自分はその佐藤イブとして生きる資格を彼に与えられた以上は生きるしかないのだ。

 だから、もしも佐藤イブとしてではなくエダとしてもう一度生きるなら、戻らないことを意味している。そして自分はその覚悟を目の前の男たちに対して忍ばせていることも、自覚している。


「エイジの側にいたら分かるだろうけれど、急ぐのはらしくないんじゃないかな」


 資料を読み終えたSが顔を上げる。出会った頃と同じく、フォルムだけの柔和さは変わらないが、瞳の中が蜷局を巻いて青は青を飲み込む。中で波打ち、飲み込んで咀嚼する。陽の光が彼にも平等に差すと言うのに、異様に屈折するか奥の奥までその色は暗い。


「……ハンティングは寡占状態にある、そして行動的な人間が多い」


 諫言に留めた。露骨な是非はないが、機関とも松山との傍に付いている以上は今はそれが妥当か。不全者の社会復帰は慈善事業だが、イブがいることにより彼らの処置はある程度行える希望はある。

 余計なことさえしなければ、機関としてのメリットが入る方を優先した。だがその次は、ヨウ自身の危機管理を問いたいのだろう。


「エージとの関係が知られるなら尚更、君が身を守れるかは不安かな」

『ここにいる』


 間髪も入れずにヒヨが口を挟んだ。その弾みで先ほど握ってくれた手が強く握られる。痛い、痛いくらいに手に意志が込められている。軽い痺れが、良く物語る。


 ――痛い


 だが閉口する。痛いが、それは自分が弱いせいだろう。自分はそれに応えられるくらいの強さはないのだ。

 すぐに自分が誤ったと感じたのだろう。すぐにうっかり握ってしまった手を緩めて、伏目に自分の後ろへ隠れた。背丈は数十も違うというのに、それは臆病者のやることだというのに、柔らかい髪がくすぐったくうなじに触れる。自分はそれに軽く身をよじった。それに際して男二人は声をかけない、ただヨウは朗らかに笑んで。気の悪さは伺えない。


「決まったことだし、サインここに頼むよ」


 ああと、Sが軽く答える。これにも上司の立場としても賛成らしく、爪先をヒヨに向けることはなかった。胸元からモンブランのボールペンを手に取り資料にまた視線を向ける。


「しかし、Yは有形資産タンジブルなんだ」


 略称。そう言われても意味合いが分かってしまう。これはSなりの気遣いではなくて彼の合理なのだと。規則正しいサインの音と同じく、ヒヨの優しさは成り立っていると、そう代弁したげに。

 いや、語りかけることもない、それすらみ必要としない場にヒヨの身はおかれていた。それしか彼は、機関は用意していなかったのだろう。


「君とは長く付き合いたいが……まさか三倍で?」


 いいやと、ヨウが首を横に振って、Sが手にしている資料を軽く掴む。

 そしてまた軽く、ヨウはゆるやかに手から資料を離す。所作が、綺麗だ。うすい指の腹を優しい地面として滑らせて、白く分厚い蝶の羽搏きを見送る。惜しみなくだ。惜しみなく、指から離す。そうして、書類は最後に触れた端から色を変える。

 薄い黄褐色に、均等に細切れた独特の臭気。金だ、それが不意に飛び交い、束にもされないそれは散らばり続けて散漫とする。何枚あるかも図り切れない。死ぬほど数える暇があるならくれてやれる、その程度に、それ程に散る。多くの札が部長の手元から変え、そして離れては四方に飛び交った。風のいたずら、資料として秘めるには狭すぎたキャパへの暴走、何かが故に逃げ出していく。


「三千万」


 そして戻るのだ、誠実な主人の元へ。


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