3
『やだ、手拭いてよ』
三輪から注視された手をそっと後ろに回して拒む。音声からは、抑揚はあるが恐れはない。根掘り葉掘り聞くのが生きがいであろう三輪も、追及することなく小首を傾げた。
ヒヨは男に怯えていない、それは事実だ。そして、三輪の目前にいた自分の身を手で引っ張り距離も離そうとする。ヒヨの右の掌中、無数の疵の段差、いびつな握りタコが硬さとして手を覆う。不必要な程にザラめいた不格好なそれが、凹凸の不安を絡ませる。合致しながら、我が身の方に引き寄せた。
――俺を?
彼は罪人を守っている。自分に課せられていた製薬が膨大であるにも関わらずだ。
彼は、体の数割は機関からの処置によって生かされている。幸い、彼の過去が機密か脳の深部にまで設計者――最悪、瀬谷鶴亀のような男なら人体実験という好機をふんだんに使うのだろう――が関わっている形跡はない。だが彼が機関に所属しているうちは機関の道具だ。外れ者の溜まり場に留まるなら尚更、機械的な強制力は元締めが好む。
だからヒヨは嘘をつくことは出来ない。ヒヨは半生に渡って魔法使いではない。そのため我が身に起こる機構には詳しく語るにも値しない程度には誤解している。エダとして見るなら、脳から喉まで魔法で直接接合した上での意志からの伝達。それだけで嘘を付く幅は大きく狭められているというのに。
『え、っーと、大丈夫かな、イブ?』
この通り、彼は即座に嘘がつけない。エダよりもイブと言う方がこの場では正しいはずだが、それをヒヨ自身が理解しても横流しに伝達要素として送られてしまう。そうなるために脳を壊してからの加工よりも、無理やりにねじ込まれた魔法。その特定者を探したいが、今は違う。無謀のエダになるのではない。ここは、イブだ。
――そうだ
この不躾な男が出てきただけだ。自意識を手放したせいでヨウの行方は掴めていないが、この邸宅には三人以外の男も住んでいる。言わばそれが会社員としてではなく、自分たちを招いた魔術師としてのヨウとの仲ではない。もう一つの側面のために秘書として付かせている。何でも彼はヨウの親戚筋に当たると聞いている。その男が赤の他人に、ここを見せることを許すはずはない。
「……来客には秘書とかいたはずだから、ここに来るはずがないって」
『ほら謝ってよ、部長』
部長。そう彼は正確に言っていた。同じ調子、機嫌と口ぶりを幾度か聞いたことがある。部長、あの男も、目の前でそう言っていたはず。
――部長?
「佐藤君には迷惑かけていないだろう」
『それ子供でも言わないよ』
「Yは言わないのか?」
『僕を最近瀬谷と間違えてるね? どうして?』
「間違えてはない、ただ寂しいだけ」
『やだよやめてよ』
瞠目、だが遅く、心拍。
それらが不気味に混ざり合って嫌に気持ち悪い。不快感が頭蓋の血管を奪い、心臓に押し寄せている。膨張と収縮、暴走、蠕動。複雑怪奇に絡み合って足を容易く折らんとする。太ももから脹脛にかけての筋に力が入らない。足にも、及ばぬ血。失血死していると、四肢がそう錯覚したか錆び付いて重い。
――落ち着け
足は未だに倒れていない。エダの血が、少なからずもうない人の血を懸命に回して繋ぎ止めているのだろう。イブは、臆病だが、エダは、果敢だった。エダなら、自分ならこれは想定しうる問題だったと踏みしめる。じっと立つ体の中が、けたたましい。
後悔はしていない。後悔なぞ、イブなら持っていたのだろうがイブはやっていない。後悔はしていない、血を噴出した瀬谷を見て安堵した。しかし、まだ蠢いた瀬谷を脳味噌ごと吸い上げることも、そう企てもいた。そうしなければ彼は生き続けるのだ。
瀬谷は注視するべき男であって、金髪はそうではない。そこであの男が部下の命のためにと邪魔をした、忌々しいがそれだけのことだ。
――声すらも変えていたか
だが、擬態魔法は珍しくもない。わずかに緩んだ目線を寄越し、三輪と眼を合わせるが、彼は依然として眼を優し気に差す。途端に偽名と判明されてもこの態度だ。ヒヨが漏らしたことを咎めず、訂正する素振りも見せない。
「やあ、秘密兵器だ」
サディストの気すらある。
立ち振る舞いは瀬谷とバレーナと変わりない、ただそこに佇み。身内が最悪な状況に陥った時だけに、気紛れで手を取る。表面だけに
――ああ、思い出した
あの一件を思い出すたびに妙な胸騒ぎが止むことがなかった。あの不安、不快感は実の兄そのものだ。イブは、あの男の様相そっくりだった。顔と器量さえ整っただけで、口先で人を惑わし、人を人と扱えず持て余して捨てていく。
胸が締め付けられていく、兄を思い出すと嫌でも彼女の顔が思い浮かぶ。彼は、あの男どもはいつだって人を奪い物を食らう。
――やめろ
自分は佐藤イブと言い聞かせるが止まらない。視覚情報が、聴覚が追加される怯えが来てしまう。煙火、怨嗟、延々と、また聞くことになる。何度も。悪を倒しきれなかった者の罰が降りかかってしまう。
次いで、悪を見逃してしまう者としても。警告が、警鐘が鳴っていた。
『……秘書さんどうしたの』
「部下の話を聞かせたらうとうと寝てしまってな」
『卒倒なんじゃないの?』
「鶴の話だ」
『じゃあそうだよ』
世間話、談笑に混ざれない。ヒヨの声が遠く聞こえ、Sの声だけがやけに近く触れられる。肉を、ぞっと撫でた。会話の文脈も無視に、波長だけは薄い薄い膜から奥まで染み込ませている。
ヒヨもまた事の重要性を理解していない。リストハーンを知らなければ無理もない。だが三輪も部長が同一人物である限り、そしてそれを自分に明かしたとなれば話が違う。
――エダは、まだ俺とは言っていない
だが絞り込まれているとして、それをヨウの権威の泥掛けにも利用されたら――
「――僕抜きで話を進めないでくれよ」
刹那か、気が付けばドアからヨウの姿が見えた。Sが庭園の中にいることにさして表情も変えずに微笑んでいるが、呼吸が荒いかガラス戸に一点白い靄を立たせる。
「Yを連れて帰りに来た、問題は?」
「他にも言いたそうだね」
いいやと、Sは首を横に振るが小芝居染みた挙動を見せる。暗にはあるのだろう、だがあえて癪に障る態度をとるのがこの人種の特徴だ。今四人がいるこの植物園の稀少性は変わらない。機関には知らされていない未知が詰められた宝物庫でも、ヨウを縛り付ける為の脅迫材料にもなりうる。
この男がTの味方か、機関の味方をするか、どちらにせよ利用される立場だ。最悪の事態、エダ・リストハーンの事実をヨウに伝えられることさえある。それは残酷だ、彼を裏切る人間にはありたくない。だから下手に自分が話すよりは、苦しいが傍観するしかない。佐藤イブは、巻き込まれている。機密情報である庭園に踏み込まれて困惑しているだけの役割だ。罪悪感とやるせなさは、エダのエゴとして鎮めこませた。
――ヨウには
ヨウはいくつかの発言が分岐している。だが機関が接触している以上、有耶無耶にしてやりすごすことは難しい。ましてや自分が下手を打ってしまった手前、Sにはどこまで自分を売るかは見当もつかない。
「……なら良かった、世間話に聞いてくれたら嬉しいな」
だがそれでも有効な方法はある。道具は小脇に抱えられた書類一式と筆記用具だけで良い。緊急事態に小走りをして翠の髪を乱れさせていても、肩を上下させていても。
ハイリスクだが、秘密をより深くか広く提供すること、それがこの場での有効策だった。
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