【エダ・リストハーン/業に燃ゆ、戯児との狂乱】1

 その後はよく覚えていない。過剰な疲労が足を泥濘みに嵌らせて、安堵が胸を押さえつけ困憊は肩を落とす。自分はその場で膝をついて硬い床の痛み、引き摺れば起くる傷みばかりが伝った。胸中の早鐘が恋しい、侘しいとさえ思うほどに心臓は臓器に戻っては脈を打ち続けている。

 正常。静常な呼吸を維持して、自分は汚れていた。傷跡を示す傷みは走らないのだから、それは俗に言う返り血か。正、そうだ、あのあと一歩も自分は動けないまま、うらぶれた守りをしていた。いや、うらぶれた守りは、守りとは言えないのだろう。


『イブ』


 後衛の身に甘んじて、逃げてしまった。

 逃げていない、守っていたのなら肩を揺するヒヨの手は利き腕のはずだ。利き腕から血を出すことも、肉から骨を見るはずもない。目の前にある彼の額から玉の形をした汗が蛾眉を濡らしはしない 。べっとり、涙の替わりに汗が頬から伝っていく。銀の髪と白い肌を持つ男も、やはり汗の色も決まって何も映さないらしい。透明できれいなまま、美しいきずだらけの顔を滑らせる。自分はその彼に何をしたか。何も出来やしなかった。手は憶えている。あの後化物を抜歯させて、いくつか蔦を食いちぎられながら喉内を隙間なく詰めただけのことをした。ただそれだけ、それ以上のことは何も出来なかった。

 温室は、平素漂っていた甘い乱交香は潜めて生臭い。青と赤を交えた血の臭い、赤は彼で青はアレで、それらがぼたぼた死を宿している。脇目に隠された腕が、丁度けばけばしく濡れていた。


「腕、出して」

『大丈夫』

「五分経ってもこれなんでしょ」


 目を逸らすヒヨを肯定と受け取って、食われかけの片腕を掴んだ。淵に張り巡らされる鋸状の牙からの咬創。微細に動かしながらの咬合せんとしたか、服の繊維質が傷口に入り込んでいる。刺激臭はない、毒による皮膚との融合がないと分かればそのまま血濡れた衣服の袖を捲る。患部を曝け出してからまた一度全様を見渡せば、端は緩くも内部の肉から再生しかかっている。ヒヨの頬に手を触れるが息は荒くない。毒は疎癒おろいの阻害に機能しているらしいが、苦痛は出来る限り取り除きたかった。


 ――なら


 憎くも無傷な指の腹を蔦が突き破らせて、ヒヨの創口に押しやる。表情の機微が薄い彼の目がほんの少し揺らいだが、抵抗もなく腕はまかれるがまま受け入れた。うねり、束と波の己がヒヨの傷を血ごと覆う。ほんの少しだけ、癒合されるまでは自らのものは感覚がある。切られれば毛髪の如くそれなりなのだが、こうして治療する時は生暖かい。下に吸い込まれそうなしずくを救おうと、集めて集めて消えまいと抱えようとする。蔦同士を強く擦り合わせて粘液を垂らす。軽い麻酔としてヒヨに聞いたか、無理やり傷に埋め込もうとする段階になっても彼は呻吟ひとつ洩らさない。

 それでもまだ溢れ出そうとするどうしようもない暖かさは、何度も指先で確かめる。それは今までの経験上生であり、零れることを死に他ならなかった。


 ――今


 癒えていく、この時点で神経を侵入することは簡単だ。簡単、だが、能わない。それは敵にするべき所作でしかないのだ。彼には、彼だけはしてはならない。この手はまだ、人を裁いていても殺してはいない。捨てていない、背負いすぎて今にも折れてる華奢だ。


「本当に帰るの?」


 神経を犯す代わりに、そんな独りごちもどきを投げかける。それで罰は下りはしないはずだ。目の前で内側が他人に占められているというのに、ヒヨの手は脱力しきっている。いたずらに、気紛れに力の抜いた手に触れるが、わずかに硬い。そして、厚い。わずかに凹んだ痕を人殺しの証と奥底で名づけ、だが厭えなかった。


『仕事だからね……大丈夫?』


 触りたくっていた手を、ゆっくりヒヨは握って応える。へし折れる腕力の中に自分は掴まれたと言うのに、嫌に暖かく恐れはない。穏やかに吸い込める肺から、がらんどうな胃に気付く。嗚呼、確か少し前に吐いてしまったらしい。それを、心配してくれているのだろうか。自分が作った朝食を惨たらしく吐き出された不埒者のはずなのに。


「……何でもない」


 グロテスクは嫌いなんだと、そういえば言いものの嘘はそれしか言えない。代わりに本当は、その陳腐を包まれた手でヒヨの掌を握り返す。この手は人を傷つけない。今日だけの、優しい手だ。


 ――行くな


 行くなと、そう言えば彼はここで留まるような人間ではない。彼は鬼だ、だが人の心は分かるなら、手で強く握りしめる。それに意味を解さない人物ではないのはよく分かっているからそれに甘んじる。蔦の葉緑はもう見えない、いつもの芯のあるヒヨの腕だ。自分が触っているのはこのか細い手だけだった。


『エダ』


 その声はとても甘い、生き返ってしまうと錯覚さえ覚える唇のふるえ。だがその意味は彼が言うにはとても似つかわしくない。臆病で、卑怯者で、腐敗した男の名前だ、今もこれからも。彼にそれが分かるはずがない。どうしてこんなに離そうとしないのか、友情の惜別としか思っていないのだろう。その名前も、特別な友情の証とだけ。


 ――エダを語ったところで


 どうにでもなるものではない。軽蔑されるのだから、返さずに俯く。


『君は誰なのか、どうなってここに来たか分からない……だけど、今の君は僕を道具として使える』

「俺がそんなやつだって言うの?」

『僕を帰らせたくないって言ったよね、だけど傷の時僕を締めようとしなかった……諦めなくていいよ、僕はいる、負けちゃって弱み見せちゃったしね』


 違う。ヒヨを帰らせたくはない、ではない。綺麗事を抜きで言うのなら、彼を飼い殺す機関から離してしまいたい。最低でも殺したい、最高で抹消させたい。

 殺す覚悟はしている。何も自分はただ暴れ回りたいのではなく、失った人間としての勤めとして果たしたかったのだ。彼が自分の意思を尊重すると同じく、彼の意志に敬意を表する形を取りたい。それだけ、それだけで彼に害意を加えるつもりはないのだ。


 ――だけど


 彼は自分と機関を同じように見ている。それを憤慨することは出来ない、エダ・リストハーンは救いようもない卑怯者なのだから。


「――ああ、エスから聞いてはいたがこれはすごい」


 突然、後方から声に手を緩ませるが、ヒヨはその手を落とすことはなかった。

 ただ異変に一つ。瞳孔から黒髪と青い目の男が映り込んでいたことは容易に見て取れた。

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