4

 渡り廊下を歩く。歩く。ペットベッドで眠りにつくタクモクに気付くかれぬ様に忍び足に通る。静かに。寝息は聞こえない。タクモクは、は生き物というには冒涜で物質というには冷酷な、数奇な物だ。

 車に轢かれたか烏に内臓を唐墨代わりに啄まれた子猫と植物を合成させた。合成という言葉を使うくらいならいっそのこと物質だが、アレには音楽の嗜好を持つ。この個体は皮肉だがクラシック、特にレコンキスタ、パニヒダを好まない。聞かせてあげた時は、まるで生きているようにそのままうたたねをしていた。じっと、ヒヨはペットベッドにいるであろうタクモクに目を遣る。


「気になる?」

『終わったら、帰るんだろうなって』


 呟めく。帰りが近づくことは惜しんでいるらしい。だがそれは友好なのだろう、君がもっと知りたいという小さな欲しがりが仕方なく終わるだけだろう。


「ボスはおかしいし、丁度いいと思うけどね」

『それでもいっぱい知りたかった。やっぱ駄目だね、一日だけじゃ』


 機械は、感情は持たないが乗せることは出来るらしい。デフォルトにフォールトが響く。いつもと同じ、背に少しそぐわない高めの声に、何か。それを帯びさせながら自分の耳元までに届いた。

 人間を理解するには五分で十分だが、人間を納得するには五年を要する。人当たりが良いヒヨが重視するのは後者なのだろう。あまり、無駄足する暇もないくらいなのに、無駄であろうことにやたらかけたがっていた。

 一日、昨日、ヨウとヒヨは夕食の時とは言わず夜分まで話し込んでいた。身体的問題としてロクに話すのはままらなかったが、談笑こそはしていた。氷も解けきった薄味のサワーを注いだコップを握りしめて、時折ノイズが走る声を何とか絞る彼を見ていた。あの時間では、一日もない、数時間でもない。


 ――だけど


 仮に、世界に時間が止まって二人だけの時間が出来ても足りないだろう。量が、時間ではなく、心として。彼は一人になってから死ぬと判断した以上、そこにヨウはいない。自分も居ない、誰もいない。その隔たりを少し埋める慰みを、人は会話というらしい、キスというらしい。それが一緒になると間違えたのが、恋愛だと知った。


 ――それは


 それはとてもむなしい。とても、かなしい。それを辿ってしまわぬ様に、だが彼を離すまいと、彼の暈した後影を踏んだ。

 あさひ、ひざし。

 大きく開かれた窓からは花は見えるが、それは色彩から春は既に散っていた。春は生娘夏は処女、秋に踊り子冬には女優、季節は美貌と険しさを知っている。知りながら、皆もろとも諦めて通り過ぐるものだ。目の前に咲く花は、鮮やかな赤を咲くあの花はいつか散ってしまう。そんな脈絡もない思考がスウィングジャズの顔をして鳴らすから、静かな時間は好きではなかった。


 植物園たる最奥の間。そのドア前にヨウの姿が見えた。

 作業着、地味な青色のツナギでまとった細身が傍目よく見える。らんと輝く双の翡翠と瑞々しさを蓄えた若草たちを頭上高い位置で括っていた。さながら陽の光のみを浴びた恵まれた姿、しかしツナギこそが彼の本意気が所々乾いた泥がまみれている。見目の良い風体を隠すだけではなくて、当たり前に軍手と無骨なガーデンシューズも身につけていた。

 外からの闖入者である小風が服の土を掬い舞わせて、鼻をくすぐらんとする。その前にと、ヨウは大きめの翠眼を向けて、口角を上げた。


「時間通り、作戦とか考えてきた?」

「作戦はですね、ボスはキノコ料理を考える係」

「それだけ?」

「それだけ」


 そもそもヒヨに頼んだ身であるから彼が仕事をすることはないが、趣味としての後追いだろう。ボケてはいないが、契約に厳しい人間でもない。これからのヨウの付き合いを考えると足が重くなるが、ヒヨには好都合だろう。


「ヒヨ君はよく眠れた?」


 整った顔をヒヨに向けるが、直ぐにそっぽを向いてしまう。寡黙だが、色素の薄い肌には赤い耳がよく見えている。実際、過去を聞く限りでは恋愛経験はかなり浅い。


 ――ああ


 ここで空気を読まない人間なら肩を竦めてため息をつきたいが、Yではなくヒヨのためならだ。自分はヨウの側近として、彼も敵視はまだしていないのだから、ここは微妙な関係を保つ。そしてフォローして会話させるしかあるまい。


「ヒヨ寝相が悪いですよ、シーツの真上で寝てて」

「悪口は良くないよ」

「本当ですって、風邪引くったらありゃしない」


 あちらが反撃しやすいように、茶化して話を繋げる。誘導の仕方としてはべタなのだが、恋愛経験のない彼にとっては思惑には敏くない。だがヨウと話す機会を望むなら、食らいつきはするだろう。


 ――そういえば


 自分も不思議だったが、何故彼は真上で寝ていたのだろうか。疲れてそのまま寝たにしては丁重に乾かされた髪が不自然に思える。起きてすぐ、自分は心配から詰ってはしまったが、彼は何故したかをいうことはなかった。あの時は、まるで、自分を抱きしめるかのような寝相だった。抱き枕のように、ではない。そうだとしたら、布団の中で自分を抱き締めるはずだ。そして彼は図体と筋肉量から、物代わりに抱かれるなら絞め技と近い形になって苦しむはずだ。


 ――もしかして


 自身のためではなく、他人の自分のためか――


『……寝てるイブって饅頭みたいで柔らかいから』

「何それ」


 いや、気のせいだろう。だがヒヨの言葉が気になって、頬を少しだけ抓った。

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