2

 唖然。それなりに背の高い男が、目を丸くしてうっかりと手にした握り飯を握で潰している。サランラップから米が溢れて机に着地するワンシーン、それを見届けるが彼はそれに気付かない。

 実際、自分の顔はあまり乱暴な言葉は似合わない顔をしている。彼女からの、良い意味ではおっとり、周りの言葉を借りるならとろい顔立ち。そこから殺すと言われると、こうも単純にその顔になってしまうらしい。当たり前だが、佐藤イブとYは今別の件で話をしているのだからその表情を取られるのは無理はないが。


『……殺しちゃ駄目だよ』

「そういう心意気だって」


 ふいと、目を逸らして落ちた米粒をやっと指につけて食べた。口調は平静する諌めよりも焦燥と似る。ヨウの前ではしないだろうが、身内以上に腹を割っている今は地の性格が出やすいらしい。指に付けた米粒を指ごと口に入れて、引き抜けば唇が細かくふるえる。

 見た目は疵を増やしこわを上乗せするが、空気は和らいでいるのは確かだった。これが彼の素、「Y」でも「ヒヨ」でもない、彼の表現上自分の亡骸なのだろう。


 ――それを


 彼は、自分に見せようと言っていた。それが自分の偽善だとも、偽証だとも。彼はまだ「協会出身の佐藤イブ」という設定図が自分の頭上に浮かんでいる。

 それは紛れもない、都合のいい方便であり嘘だ。あと自分が一言二言言ってしまえば看破されてしまいそうなしょうもないものに、彼は本当を言った。


 ――嘘


 嘘、虚を埋めようとする偽、それは虚偽。機関なら有り得る。死体と称しながら生きて動き回る集団だ。そこに本当はいないし必要ない、悲劇的な過去を用いた彼はその一員でしかない。あの時は空気が悪くなってしまったからの適当な作り話。上司の資料から覗き込んだ一年に十件ほどの寸劇を記憶の片隅から拝借しただけと考えられる。

 普通の役員ならそうだ、だから個人として機関には死んでも頼りたくなかった。ジャンヌの救済は彼らには出来やしない。足跡を踏み躙って更地にするだけ、目の前の男の元締めはそんな人間だ。


 ――だけど


 彼が嘘をついているとは思えない。その場しのぎの嘘として用意したものとは聞こえにくい。リアリティが、悲壮が、と言うよりも彼の人徳によるものが大きい。それに彼は■■■■■■■■■■■■■「ツルギ・セヤが接触した自律型機体■■■■■■■■■を素体に本体に干渉成功■■■■■■■■■■■■言語抽出からYの個人情報を取得」■■■■■■■■■■「第三者の拾得阻害のみ徹しろ。■■■■■■■■■■当人の記憶は放置、私はそのまま基点に戻れ」■■■■■■■■「エスに理性あらんことを」

 朝食を頬に溜めながら、右小指をそっと触れる。この指で約束をしていた。痕も温もりもないが、事実だけが実存している。


「昨日の、ヒヨの話を聞いて考えたんだ」

『聞くだけで良いのに』

「教えてくれたお返しでさ」

『のーせんきゅー』

「……貴方は、機関にいるべきではない」


 Yの口が止まる。

 表情は縫い付けすぎて筋肉が上手く働かないか、無を保っているが行動が変わりに出るらしい。放り込んだ一口を咀嚼、食んで、噛み砕いて嚥下。

 地は色素の薄い肌からよく伺えるものの、話すという素振りは見せない。間髪入れずにまた一口放り込む。昨晩の作り置きで冷めきっているが、釜飯の甘醤油とゴボウと鶏を混ぜ合わせた物で今も美味しい。ただそれを堪能するわけでもなく、神妙な面持ちでこちらを見遣った。

 白い髪から、赤い眼が覗く。雪うさぎと南天、その可愛らしい組み合わせではない。椿の目だ。散り際までは美しく、それより後は雪に埋もれて絶えていく。ただその視線を送るだけで、言葉を返してこない。


「このままじゃ来年生きられるかも分からない」

『いや、確実に無理かも』

「だったら」

『だったら早く実行するまでだよ……その為にここまできた』


 声が変わる。

 機械音の抑揚の少なさは変わらないが、感情を持っている。Yではない誰かだ、瞳にもどこからか夕方と似た翳りを見せた。「彼」なら、そう言うのだろう。長年まで求めていたものがすぐ近くまである。「得られなければ死んでも死にきれない」は、エダが散々背負い続けていた物でもあった。


 ――だから


 死なないで欲しい。というのは昔の兵士を差し置いての贔屓だろうか、自尊への贔屓か分からない。ただ死んでしまう、二度と会えなくなる可能性を常に今日も抱き続けている。それに童心が嫌だと愚図っていた。


「ヨウのこと好きなんでしょ?」


 少し厭な手だが効果ありかそのまま留める。ヨウ自身は分からないが、Yがかなり意識していることは傍目見てもよく分かっていた。昨晩の屋外での抱擁と雑談を含めて、彼は明らかに厚意以上の好意を抱こうとしている。赤虫眼鏡のものとはまるで違う。

 ほぼ日常的に彼が老若男女問わず、浴びられるものと合致している。湯水みたく余命を注ぎ込む従者としては想定外だろう。自分では糸口は見つけられないが、自分の都合で死にきれない理由になる。


『君にはどうすることもできない』

「出来る」


 幼く、語気を強めてしまった。それに荒さを見たか、Yの目がこちらに停まる。


「俺には出来る」


 誰かを治療する、特定の人物を退く、所定の人物の偵察も出来る。瀬谷に対しての攻撃は、元はサポート以外の側面を考えた際に偶然見つけた戦法だった。実際は自分の魔法は人を救うために作り出した。兄とは違う、兄とは。


 ――じゃあ


 どうして全員死んだのだろうか、誰も治せず誰からの脅威を撃退できなかったか。どうして自分が殺さなければならなかったのだろう。どうして。どうしてか分からないまま、エダは死んでしまった。


「……出来るんだよ」

『僕がさせたくないんだ、後でもっと辛くなる』


 まるで、我儘を言っている。いや厳密にはそうなのだろう、自分の言っていることは彼のやることに反している。自分は納得が行かないから、こうして地団駄を踏んでいたが、もう一つ自分に何か語り聞かせている。何か、幼いから分からないのも仕方ないと言われていると類する。似ているものなら例えば、夜鳴きする赤子に泣くなと説くようなもの。どうせ無理だが言ってみないと分からない。だが言うことを聞かなくても仕方ない、そんな上からの視線だ。

 何も分からないはずだ、彼は何も知らないままもっと辛くなるだとか宣う。何も知らないのに、佐藤イブだけ心配だけをしている。目の前の自分ではないのだから、その心配もお門違い甚だしい。

 一体佐藤イブの何を見て憐れみを思ったか。目から生える花で痛ましい実験動物としての過去か、それとも今の物騒な発言で蟲毒と似た非人道的な経歴か。協会の信心と親愛を混交させた歪んだ一族の親交録か。何でもいいどうだっていいそんなものは自分には一切ない。自分は他人からの圧制によって生まれてきていない、自分の為にここまで来ている。Yが心配する謂れは本当はないのだ。


 ――俺は


 エダは、操られる前に種ごと摘んでは燃やしてきた。

 戦火の爆音が昔話と紐付けされてしまったのは厄介だが、それでも日常生活には支障がない。今こうして、偽の名前を与えられた男と共に食事をしている。マウントなんか取れやしないし、幸薄役者の指南書は必要としていない。何が、辛いだ。


 ――なら


 言ってしまっても構わない。自分がこの手でどんな人生を歩んだか、そうして一蹴してしまいたいが、口が動かなかった。喉も、上手く声が出ない。ストレスだろう、あれほど流暢に言えた名前一つも言えずに喉奥が引き攣る。恐怖。それが筋肉を張っている。理解したくはないが解している。


 ――彼に


 恐れてしまっている、機関であるはずの彼に裏切られてしまうのではと。裏切られるのが当たり前の人間に対して、そう抱いている。騙り続けていた方が純粋に慰められる、そんな反吐の出る甘さも合わせて。


「……俺は目的なら何でもやる人間です、それを忘れないで」


 だから、そう、過去を語れはしなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る