二日目/昼

【佐藤イブ/貴方に逢いたくて女々しくて】

 リストハーン村。

 故郷であり、当時新旧国との友好の地でもある「地区」の西端に位置する。怠惰の地であり暴食の行政区画である「県」を用いる渾沌の「地区」の中でも、有数の何かがある訳ででない。

 経済的役得を狙い外部企業が押し並びビジネス街と化した東端とは、比較出来そうにない閑寂。ただ一人、二つほど上の兄が抜きん出て優秀だから、遠く暴食の学校に招かれる以外にない。ただ人間が優秀なら少しは目をつけられる、精霊の寝床だの面白いものはありはしなかった。

 採掘の音、鉱山の嘶きの手綱を握る者達と指名はあっても人は死ぬ。何処かで葡萄酒の芳しさを胃で満たす貴族の裏で、粉塵に肺を満たされ死んでいくのがここだった。


 村は人と鳥と風がいなければ、死にそうな危うさを持っていた。度々結束を目的に祭りは年に一回あるが、遠く畦道を歩けばたけびは山に吸い込んで仕方ない。人ひとりだけでも息を引き取ってしまえば、地の息吹は浅くしそうなほどに弱々しい。

 代わり映えのしない田舎、人の進化が見られないまままだ自然に淘汰されそうな場所だった。盟主の跡継ぎ、という大層な肩書を自分は以てしても、それで雨風を凌げられることはない。

 鳥のさえずりが綺麗でも、彼女らは賛美歌を歌って神に導くわけでもない。花は、綺麗だが、永遠とも言わず自分勝手に死んでゆく。唯一星よりも近くきらきらしていると楽しめるのは、あの忌々しい兄からの手紙だけ。

 彼の手紙には、校章を象った封蝋を剥がせばいつだって魔法を込めた石を同封される。透明な石ころの中央に赤だの青だの色一つを閉じ込めたもの。何でも、国内では安くて手に入りやすい魔法使いの練習に使われるおもちゃらしい。

 夜に手紙を開いて暗いと念じると、幽かに明かりを灯してくれる。中央に青なら青空、赤なら炎、黄色なら母親特性の豆のスープの色を石の周りに靄として現れる。それが力なく消えるまでの一時間、その下に筆で藁半紙に魔法を描くのが小夜の秘事だった。

 それだけが楽しみの、そんな大したこともない村で生まれていた。


『――素敵じゃない、貴方のお兄様もこんなにも素晴らしい村で育ったから立派になったのよ』

『だったら僕もルクェプトゥに行けたはずだ』


 毎日の昼べ、森の奥深くで彼女と会話をしていた。以前までは小人がいたのか、あばら家になった腰までの住宅が散乱している。

 その中央にある木の虚に腰掛けた拍子に木屑が彼女を汚すが、気にせず柔らかいレース生地をくしゃつかせていた。この仕草が何だか、自分が特別な人間に思えて止まなかった。暴食の名前すら言えない落ちこぼれでも、見て貰えていると思い上がってしまう。

 今までは特別な場所だった。森の奥処おくかは、いつだって生命を秘めている。花は色彩を与えて、生を縁取り命を咲かす。彼女はそこへ野暮ったい作業着でもない、人目を引く物を身に着けて鑑賞を楽しむのが日課だった。

 思い出になる日は、白のブラウスを身に着けているからよく覚えている。一つ一つ丁寧に白い花をあしらった刺繍、そして滑らかな生地が、7歳の儀に誂えた真紅のタイを際やかにした。


 その背景に鬱蒼と茂る森林、常緑、若き幽玄。うら青き常葉とこはによって、鋭い火輪かりんは絞り出されて恵みの光へと変わってゆく。それが彼女の白い服へ陽を色付く度に昼、昼にいるのだと浸れるのだ。

 気の利いた飲み物は何もない、年頃には不相応な険しい木陰の中には泥臭いほどの生命ほどしかない。ただ落ち着いてしまう、大人の世界から抜け出した神秘だと、彼女はよく隠れ家にしていた。


『それじゃあ、貴方がこの村を愛してるからかしら』

『僕は東の方が好きだよ』


 今は、秘密の場所だった。

 浮気者さんねと彼女が笑う。くすくすと、小さい笑みで留まりそうなささやかさだったが、羽より軽いブラウスの袖を揺らす。顔は、まだ見れない。見てしまったら今にも逃げてしまいそうだからだ。

 甘酸っぱいものが駆け巡って、どうしようもなく欲しくはなるけれど、手は伸ばせない。貼り付けた記憶を見ようとするだけで、胸が込み上げていた。彼女はカンバシの実の一生、頬は花弁の薄紅を散らし、髪は花に染まった川として優雅を流す。唇は熟れて鋭いが、声はまだ熟さない酸いも甘いも好む若子だ。

 時々、品良く口に手を当てて笑うと磨かれた爪が、日を鈍く照らす。目のやり場がどこにもない、だからいつも下を向いていた。それでも彼女は顔を知りもしない兄の話を上機嫌に聞いて、陰気な男だと言われない心地良さはあったのだが。


『ジャンヌ』


 彼女の名前を呼ぶ。ジャンヌ、どこかの国の姫の名前らしい。鎖を重ね合った響きではあるのだが、彼女の読む絵本の中では美しく優しい昼の騎士であり夜の姫だったという。

 ジャンヌは故郷のふらんすの為に戦い民を癒したが、国すらも追われると身を儚み薔薇の花弁と姿を変えた。ふらんす、とはこの世界のものではない別の世界のもので、ジャンヌはそこで生きていたらしい。それがお伽噺として形を変えて、彼女自身も伝記である絵本を何度も自分に見せていた。

 何度も読まれることで白いドレスは黄ばむが、それでも彼女にはぴかぴかに見えている。ページの端はよろけて、いつも手にしているせいか真っ赤な装丁も傷がいくつも付いていたが気に留めなかった。


『君はこの村好き?』


 ジャンヌは、最初から村の人間ではない。あの絵本の内容はこの世界にはないが別の所にはある、ジャンヌの親がそれを知る仕事に就いていた。

 忙しい両親から貰った大切な一冊、母方の妹夫婦のいる村に修行に来てもそれだけは手放せなかったらしい。自分の両親とはその妹夫婦との親交から彼女と顔合わせしたが、起伏のない背景に爛漫した姿が新鮮だった。


『大好きよ』


 だからより、近づくことが出来ないと感じた彼女がいる。それが何より嬉しかった。もうここにはいない兄の話ばかりする親に嫌気が差して逃げた時も、彼家から逃げたい彼女と出会った。


『……じゃあ僕もこの村が大好き、だから、ジャンヌも、そういうことなんだよ、みたいな』


 つと、彼女は吹き出した。ええ、そうね、私もそんな貴方が大好きよと、彼女は決ってその言葉を言った。

 何か一つ言いたかったが、兄の顔が思い浮かぶ。取り立てて言うところのない冴えない容姿、けれどよく出来た兄。彼の下にはいつも自分がいる。彼は、彼なら迷いもしないで何か上手いことを言ってしまうのだろう。兄が好きな子が出来ただの浮ついた話は聞いたことがないが、悩んでいる先の正解には常に兄が立っていた。

 この頃はジャンヌは兄と出会ってはいない。だが手紙を一緒に読ます度に、彼女は碧眼をきらめかせて彼に会いたいと独りごちていた。


 ――分かってる


 自分よりも彼女のお願いに付き合ってしまったことで、変わってしまった。

 その後は、その後は。


 ――駄目だな


 怨嗟、胃酸と擬態して外から吐き出そうとする。村の話はもう語ろうにも灰燼に化してどこにもない。もう昔の話だが、ここまでよく覚えているとなると、未来のための記憶なんてないかもしれない。

 せめて過去にだけはと、脳が勝手に助けを求めている。もっとも、過去である以上救われないが脳はその余裕はないのだろう。


「――要はさ」


 目の前にいるYからのブリーフィングは聞いた。

 人員も資料も決められていたので、おおよそ理想な戦略も一致していた。流し聞きしながら、Yの顔を一瞥する。腕からの痕跡で嫌な予感はしていたが、顔も同様だ。

 昨日はファンデーションを厚く塗ったか、元からの端正な顔立ちは良く出ていたが今は痛ましい。左目から額にかけての瘡瘢そうはんが薄褐色に、地肌に多くの創傷が走り損なわせていた。その顔を見られるのは流石に恥じらうらしい。目があった直後に、彼はそっぽを向いた。


 ――エダは


 エダは罪を犯した。もうここにはジャンヌはいない、兄もいない。ただエダは佐藤イブとして逃げている。ただ運命的な奇跡が手足となり血肉にされた贖罪が生きている。

 まだ、彼女らを喪ってもやり遂げろの命令のみで生きている。敗因、何故自分はここまで零落して、それでも這い上がるかも分かっていた。


 手にしていた握り飯を握る。米粒が端にはみ出して手を汚した。昨夜か瀬谷から、私用で来るようにと通達があった。彼は致命傷を負っていたから、あの後即座にメールを送ったとしたら彼とは別の身内の人間なのだろう。

 朝から糸が切れる感覚が数体ほど伝わっているなら、もう彼らに狡い真似が使えることはない。遠隔は使えないが、まだ本機は生き残っているからそれを使役してしまえばいい。本体として対峙はしたくなかった。


 ――彼らは


 暴食と兄そのものだ。自らの欲のために手段を選ぶことはない。どんな犠牲を払ってでも、利益さえあれば人を道具と、損をすればそれさえ思わないのだ。

 セヤツルギ、彼の姿をよく覚えている。滅亡を知らない業火、決して手を差し伸べない灼熱の恒星。そして彼の戦い方を嫌でも知っている。


 ――目


 嫌な思い出しかない。目。あの目に人は存在しない。常に瀬戸際だった身にも関わらず、返り討ちしたい敵を映したのではない。彼は逆探知したい対象物として自分を見ていた。平時に出会った淀んだ瞳を思い出せないほどの鮮烈とあの笑み。彼は今、「佐藤イブ」を楽しむ対象としか見ていない。

 Yはその人間と同僚、そして瀬谷を許す組織が存在する。彼は、彼だけは生きてほしい。

 それはエダとしての羨望とイブの希望を兼ねていた。自分の使命は全うする、だからその為の一命はどんなに割いても構わない。


「殺しちゃえばいいんだよね」


 その為にここまで生きてきた、その為に死にに来ているのだ。

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