【Y/世界は慈悲を待っている】
小夜中。佐藤イブは寝室の隅で泣いていた。
変人だが柔和な性格とは聞いていたもの、ヨウ自身本題以外はどうでも良い訳ではなさそうで、余所者にも手厚い。元より自分は風呂に入る、そして寝る発想はなかったのだが、断る毎に彼が首を傾げていた。身体が気持ち悪いから入れ、具合悪いから寝るべきだと、彼は当たり前のことを言っていた。
そこは自分の環境のズレなのだと認めて、根負けして彼に従っている。付き人として、扉の前で待機しなくて良い。そうまでされると逆に不安になるのだが、彼がどうも引き下がらかったので渋々承諾した。
人目に付きたくない傷痕を隠しながら入るべく、深夜に入浴。ヨウの行為に甘んじて浴槽に肩まで浸かり、湯上がりには長い銀髪を丹念に整えてから寝室へ向かった。そこで、既に床に就いていた佐藤の呻きがドアを開けるなり耳に届いた。
ごめんなさいと、彼はしきりに言いながら激しい寝返りを繰り返している。
か細い、消えてしまいそうな圧し殺した声だが、却って針となって皮膚の傷を差す。既視感、既知感と似たざわめきが胸を締め付けている。照明のつかない寝室にて彼は乱れている。彼なら、いつもは恥じらうだろうシーツを惜しみなく引っ掻き回して、白い喉を見せる。一人で顔を涙で散らしながら、目前であられもなく後悔を吐き続けている。
後悔、なのだろうか自責だろうか。寝言は細かく分析するには支離滅裂なのだが、僅かながらも共通することはある。言い方が、正当化するようにも見えない。どうしようもない光景を前にして、暗がりな足元で懺悔のみを零す。そうすると、足元が見えると錯覚する。それは自分でも何度でもやってしまっている。
消して許されないことは分かっていても、謝りさえすれば何もない場所から足元が出来ると思いこめるのだ。ただどこにも逃げることはできない、ただ過去に襲われるのみだから未来まで悔やむ。
次第に彼は、固有名詞らしい名前を呼んでいた。西洋の人間らしくじゃんぬ、と、彼はずっと唱えている。じゃんぬ、彼か、彼女かを佐藤は暗闇の中で呼び続けて、何かに振り切ろうと布団を掻いた。行動が、よく見える程に彼は暴れている。部屋に閉じ込めていた弾みで銀髪はしっとりと闇に紛れてしまったのだが、それだけは分かる。
見ていられずに寝台に乗る。
100Kもある図体、大きくベッドが軋むが彼は夢から醒めない。きっと彼は海にいるのだろう、音を殺して二人を独りと欺く、無音の空の世界。シーツごと、小柄な彼を包まった。初夏の夜だ。暑いわけでもなく、風呂上がりにはほんの肌寒いが羽毛越しからイブの温もりが分かる。血が、
胴体だけを包んでしまったか、敵に捕まったと錯誤した佐藤の手が腕に爪を立てる。泣いて喚いて叫ぶ。彼には力はない、傷をつけようにも朝を迎えれば完治する程度の擦過傷か刺突だ。だがそれでも、甲高い声が内臓を抉る、自分には内臓があると安堵する綯い混ぜた化物の中で、軈て彼は眠った。
そうして、それが良かったと自分でも実感したと同時に、眠ってしまった。
■
早朝、夢から覚めて抱かれていることにまず佐藤は自分を咎めた。次いで、布団もかけずに寝るだなんてだらしないとも。小さい子がいるからと冗談を叩くと、彼は面白くなさ気に眉を釣り上げたが、弟みたいとも言うと彼は押し黙る。弟、というのは佐藤にとっては分の悪い言葉らしい。これを言うと佐藤の良心を刺激するらしく、拠り所のない不機嫌さを仕方ないと一言で隠そうとした。
朝食で、昨晩に作り置きした握り飯を口にしながら世間話をしていた。ブリーフィングするにはまだ時間があるが、彼には緊張感よりは和やかさを必要だと判断したからだ。当初は本番に気もそぞろとしていたが、会話を話すとすぐにでも打ち解けてくれる。束の間の休憩、ブレイクタイムとして、ヨウが起きるまでは憩いとしていた。
「――
『そうだよ、いつも惚気話ばっかり聞いてる』
何故か自分の仕事よりか友人関係の話になっているが、雑談としてご愛嬌だ。裏方、侍従の立場につく身の人間関係は珍しいのか、佐藤も殊更興味深そうに耳を傾けている。蓮と、彼と同い年の女子高校生ぐらいが親友と呼べるものだろうか。松山か瀬谷の後ろに常に就くからか、彼に会う機会はあまりない。
部長が止む終えない諸事につき代理の送迎を頼まれるが、そのタイミングを良い事に蓮の話をしている。露骨に言うと露骨に嫌そうな顔をする瀬谷を除いて、表立って褒めることはないが楽しそうとは見受けられる。目分量が苦手でレシピの適量に頭を悩ませている、学生証をフローリングに落とし二十分間平たい床と格闘した。そんなしどもない話ばかりを聞かされている。蓮からは部長についてあまり聞いていないが、部長自身にはとても幸せなのだろう。
「三輪春彦」として「笠井蓮」の後見人になることを法的に認められた日はひどく上機嫌になっていた。早く会いたいから仕事を早く終わらせたいなと、ワーカーホリックらしからぬ言葉と笑みを浮かべていた。そのことも話すべきか、佐藤の顔を見たが浮かない顔をしている。
はっきりとは顔には現れていないが、雲行きが怪しいかどこかに目を遣るとしても行き場のない表情だ。ああ、そういえば、彼は家族を一旦引き離した状態でここにいる。
『……ごめん』
「いや、あんまり家とか良い思い出なかったなってだけ」
顔から赤い花が見える。今も綺麗に咲いて、赤らんだ宿主の目尻に彩りを与えているが、過去はそれに比例しない。佐藤は美しい過去ばかりではないし、良い思い出はないのだろう。協会から抜け出して彼の住み込み、そして心的外傷を残す身なら尚更だ。不快がるような人物ではないのだが、どうしても過去を見てしまう。
「いつも兄さんと比べられていたから……この名前本当は俺の名前じゃないんだ、兄さんの名前を俺が言ってる」
『本当の名前は?』
「秘密」
佐藤イブはそれを言いまいとわざとらしく口におにぎりを運ぶ。だがそれは初耳だ。自分は振り切れているのだから、過去を言うことには慣れてはいる。だが佐藤のその様子から見ると、どうやらその部分は深い傷ではない。
『でも、イブはすごくても僕が言うたびイブ兄さんがすごいになるじゃないか』
「……すごい?」
『君はすごい、花壇の手入れとか僕は出来ない』
そう言われると、佐藤はたじろぐ。ヨウの花壇は人生の縮図のようなものだから、それを手入れする大変さは一日滞在した身でもよく分かる。それに加えて、境遇の上でも笑みを絶やさない気丈と自分に怖じずに話しかける姿勢。
名前を聞きたいという欲は勿論あるが、褒められないことに傷が残るなら治したい。欲張りだが、それが傷に通ずるのならどんな深浅問わず埋めるのも従者の仕事だった。
『佐藤イブじゃなくて君はすごいんだから、本名で祝わないと勿体無い』
「……一回だけ、一回だけ言うから聞いてて」
『聞く』
真剣だが、勢い余って低く答えてしまったか、彼が吹き出す。そうして、零れた笑みと共に彼は名前を言った。
過去の傷の一つだ。だがそれを見せる彼の表情はさながら、空想上の動物の
希望に満ちている彼の目が、自分には好きで眩しくて仕方なかった。
【二日目/朝編】了
【後書き】
やっと尺として一章の半分までいきました_(:3」∠)_
一ヶ月くらい書き溜め期間に入らせてください!!!慎重に行きます!!_(:3」∠)_
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