3

 まだ正午ではないならと、シュウは近くの回転寿司を提案した。平日に行けば一皿二割引、加えて味覚の概念がない君主からの勅命で食べるように言われていたらしい。彼の主人が本物なら、不定形は元は生存特化の生命体のために味覚を必要としない。

 刺激する毒物でさえも吸収するのだから、必要のない物としての退化だ。怠惰なら人間の擬態は簡単に出来るとしても、五感の機能が悩みどころだろう。そのための極秘偵察であり諜報活動、情報収集、とは言えるがかなり気障った言い方ではある。発言がシュウならば特に。

 ファミリー層を得意とするか、平日回転直後には客はいない。数人はいるが、立地としてリーズナブルな会計で済まそうとするからレーン上のネタは少ない。これも任せてシュウに注文用の電子板を渡したら、サーモン5皿がやってきた。


「恋人は良いぞお……実験動物には、そんなのなかったし」

「またそれですか」


 そして一向に話が進まない、レーンは規則正しいというじょに雑談に逆行し続けていた。目の前に誰がいるか知ってか知らずか、ぬけぬけと平坦な調子で会話を続けようとする。ホテルを出るなり鼻歌を歌っていたから、これが本性に近いのだろう。

 配線をむき出しにしたネオンを過ぎた辺りから、ネタの話題になっていた。最初は、ワサビをどうやって付けるかを話題に挙げていた。レーンから小袋一つ寄越し、新参者かネタにそのまま乗せて口に入れたっきりこれだ。量に反しては驚いた様子もなく、数十咀嚼して、だが数秒口を閉ざしてからこうなった。

 特殊派遣員、特別珍しい異世界諜報員でもないのだが、怠惰国では話が別だ。驚異の進化を遂げた新興国元首。新たな進化を周囲が援助という障阻を与えているなら、ここに渡ること自体は極秘なはずだ。


 ――とすると


 これは「三輪春彦」の命令ではなく、「部長」の命令だろう。首都は、「腫瘍」には相応の依頼しか持ち込まない。「三輪春彦」はそれに従事するが、「部長」は言い難い。現時点で夢魔の習性を情報収集に活動するなら、こういった隠し事も少なくない。

 だが場所を変えてまで有益だとは思い難かった。ついぞの部長に向けてのものとは変わって使いどころがない。彼は種族としては人間だが、興国前は改革派の魔の手により実験動物として非人道的扱いを受けた。なるほど、だが異世界人の尺度はこことは違う、そして決まって冗談めかして言うものだから本気にも出来ない。

 だが一応は自覚はあるらしく、毒味として先にシュウが一貫食べてから余りを食べることが許されている。曰く、非人道的な投薬により大抵の毒は効かないらしいが、今死なれても困るからそれは本当だとした。

 2.5貫目を口にする。他愛ない、下らない会話をしていた。ガッコウとは一体何をするんだ? と元モルモットふうに問うシュウに対して適当に答えたらクラスメイトの話だ。彼は、是非問わず一度でも寝食共に屋根の下で暮せばそれは恋人と考えるらしい。

 存外、大人な見た目をして無邪気に聞くものだから目を逸らすが、視界の端でもじっとシュウは自分を捉える。黒い目、初対面では墨色と感じたが、正しくはそう、磨りたてた墨の鮮やかさと芳しさだ。


「何です?」

「雑談も立派な処世術だと思うけど、その子の名前は?」


 及川薫、もしくは及川香。彼に話すべきではない、話してはならない響きがていねいな名前だ。


「……綺麗な名前」

「綺麗さんね、出会いは?」

「高一の入学式で、桜の花が欲しかった」

「どうして?」

「三月に雨が降って、隣の家の梅の花が綺麗に見えなかった」


 ぼんやりと浮かぶ、一生涯で何度も出会いそうな重く擡げた厚い雲、分厚く虚しくする灰空。その下で隣の垣根からよく除いていた梅の花が散っていた。梅だから、きっと3月。

 呼ばれていない訪れと涙するそらの下で、花びらが沈んでいる。可憐をぬいた、白くてやわい粒がアスファルトに付いては染まり、通りすがりの車に拐われを繰り返していた。

 3月だから、きっと別れの季節。梅が咲きほころぶ姿を飽いたと抱く程に、春過ごしてしばらく。その頃には中学の卒業式を終えていただろうが、より深く別れだと彼女らが示していた。鬱蒼を抜けた後の清々しさを、旅立ちを別れとは言わない。雨音。旅立ちの時の旋律を一つ一つ罰点をなぞっては、違うと耳に深く塗り潰す。それが緩慢に、鈍く地を鳴らしていた。


 ーーだから


 時系列的には、母がまだ生きていた頃の話だ。中学受験間際の冬にあの人は亡くなった。だとすればこれは、人となりが煩わしく感じるだろう中学二年の春のことだ。ただ春と聞けば、それが浮かんでしまう。結果的に運命的に言うならその梅の最期は「前哨」とも取れるから、すっかりと固定されてしまった。

 そうして、母親は受験期とのストレスとのショックとやらでほとんど失って、高校の4月までに先回る。その後は面白いくらいに何も覚えていない、更新もされない、季節の不快だけを記憶に閉じ込めていた。母親の顔すらも分からない、彼女は自分をどう呼んでいたかとすら覚束ないでいる。ただ仏壇は置くなと必死に吐いたのは自分だった、あの家に迎えらせたくない。そのちっぽけな自我と幸せが棄てられたまま、早すぎる成人の儀を終えてしまった。


「花を見るとそれを思い浮かんで、本当はどんな物かって気になった」


 空っぽ。その一言に尽きている。その一言で概略を終える、安価な人間だった。だからこそか、四月に咲くそれに目を留めてしまったかもしれない。散る梅を見ているにも関わらず、自分もそうなるにも関わらず相変わらず咲き誇る、綻びを知らない物。いつの間にか気紛れに手を伸ばして、掴もうとしていた。その頃は三輪春彦はいない。彼は常時多忙だからか、門前で父親顔で二人して記念に撮られたきり、入学式には姿を消した。

 終わったらすぐに呼べだと言われたが、携帯より前に頭上が目を奪っていた。桜吹雪でもない、ただ歓迎の無垢を表す小さな白い膚。周りの同年代の声が遠ざけて、確かに攫っていった。

 さらわれた視界の中で空に浮かぶそれらを追っていた。伸ばした手が同年代よりも華奢に、同年代の声が相対して幼く聞こえる真昼の下で慌てふためく。傍目滑稽に見えるだろうの羞恥も忘れ、不乱に乱れた。掌から惜しくも過ぎる純白一つに焦がれて、ひたすらに追う。


「……そしたら、運良く通りすがったアレがいて」


 それは、嘘だ。あの時の自分は、そこまで気を配れる人間ではない。ただの子供が、ひとり欲しがって暴れていたのだ。幸運にも頭上を掠めて通ってくれるものには驚いて、目をつい閉じてしまう子供に還っていた。鋭い快楽で穿った穴を埋めてほしい、花で埋め尽くしてと、そればかりが夢見がちに足と眼をふかつかせた。


「花ごと落ちた桜を拾ってくれました」


 彼は空だった。

 成長と共に見せる大人の骨と子供のにくで包んだ桜の花を一つ、自分に差し伸べていた。光さして照らす白い肌がひだまりの淡い輪郭とよく似る。細める目の奥には、透き通った空を移していた。雲の、陰りのない晴天。青い清さ、空想しか見えない穏やかさを目一杯につめたスケッチを瞬く。長い睫毛、色の気を湛えようとする鼻梁、整った顔立ちだの、色々と言えるだろううつくしいところを差し置いた。

 それだけが、自分をからめ取っていた。気づかぬ内に、彼をじっと見ていた。気がつくと、礼を言うはずの口が固まった。彼はそこにいた、はにかみながらひとつ転がして、綻ぶ。


 ――だから


 気がついても、彼の手を触れられなかった。軽く礼を言って一摘みして帰った、それで一杯だった。彼の手は泥で汚れていても、自分はそれを正しく洗うことを知らない。差し伸べた時、思ってしまったのだ。肌とは違う、特別に色付いたくちびるを重ねたいと。ただそれは義父の愛戯と同じものだと、毒されていた証左だった。

 よく頭が回ってしまった、自分は数時間前まで我を無くして夢の中にて何に耽ったかを思い出してしまった。水音。深海の底で水音、聞こえて、悟ってしまった。次いでこの紫の目がどうしても嫌になった、彼は決して混ざらないいろだからだ。


 この手で触れるべきではない、ああなるべきだった人間に自分はいるはずがない。摘んだ花を手にして逃げるように足を早めて、醒めるまでに時間に頼りきっていた。通話にて、部長に話しかける自分の声の低さに安慮して、だがそれよりもうんと低い部長の声に従った。聲も行動も、それがいつも通りだったと安堵して、その場を立ち去った。


「それ付き合ってないって言う?」


 ただそれは、自分が知る及川の出会いであって、及川自身は分からない。覚えていないのなら、情けないが期末テスト絡みからで、彼自体入学式の頃は覚えていないだろう。

 彼は、喧しいが迷惑になるようなことを他人には決してしない。女子の洗髪料の香りまでも把握して、分からない生徒の顔はなく周りにも気を配れる。誰にでも優しい奴だ。誰にでも優しくて怒ることもないから、彼はきっと忘れている。


「恋人にするかどうかより、あっちがしつこいので」


 運命のようなどうでもいい奇跡で笠井蓮と出会った、これが及川が思う考えだろう。自分はあの時関わってはならないと勘付いた。1年の教室に彼がいないことで、胸を撫で下ろしてしまったのだから、自分からではまず出会うことがなかった。未だに飲み込むことのできない無味のガム、カサイレンを噛み続けているには強すぎる。その後クラスメイトを観察して、彼に合うまでは全校生徒同じ顔に見えるまでぼやけていた。

 恋人、それにしたいかどうかも分からない。

 ただ自分に足りない物が彼には溢れんばかりに持っていた。だがそれを得たいから一緒にいたいとは考えられない。それは自慰だ、それを肉体に沈ませて落ち着かせるところまで追い詰められてはいる。


「君はしたいと思わないの?」

「別に、やっと離れてせいせいしました」


 それを何回言ったか。擦り切れて言いたくないが本望だったが、相手が相手と手綱を放すことはできない。


 ――したい、か


 したいとは、何を。触れることだろうか、愛していると言うことだろうか、手を繋ぐことだろうか。相手の幸せを考えて、相手の都合の良いように動いて好きと言わせることだろうか。相手の性癖に答えることか、それともいつもと違うものが良いとの要望に応えることか。

 薫と呼んでくれ、香と呼んでくれ、そんなものは他愛ない。抱き締めてほしい、簡単にしてあげられる。頬だけにもキスをしてほしい、頬だけじゃないのも出来る、そもそも初対面からしたいと思った。カサイレンなら、きっと及川の願いをなんでも叶えてあげられる。


 ――いや、無理だ


 恋人という味を知ってしまった、恋人としての声の上げ方すら教わった。完璧な、傷一つない役割を覚えた。そうなってしまえば、自分が虚しいと思わない時はもうない。どんな手を使って良くしようが、技術の成果に他ならない。

 それが嫌に、内臓を締め上げてくる。もう子供の振りをするなと、彼はきっと思っている。思いながら自分を子供のままにして、そのまま――考えるのを止めた。平衡感覚を失う、天上は底であり底が天上の夜にいる。それは、いくら手繰り寄せても朝を迎えられない。朝を、知らなければ良かったとさえ思ってしまうのだ。

 当たり前に、それが叶うわけがないと分かっているのに。


「じゃあ俺が助太刀した方が良い? 寝取り、みたいなさ」


 だから、今ここで腰を据え続けていることを解している。シュウの態度は相変わらず変わらない。偶然手に取った甘海老から尻尾を取れると上機嫌になりながら、寝取るだのを吐く。

 甘海老の残り一貫を奪う。彼らは祝福をしない、そういう人種なのは分かりきっていた。


「貴方が異世界について話さえすれば俺が追いかけますよ、ずっと」


 キレるなよと彼は唇を動かさずに苦笑する。

 動かないまま、今しがた耳元に彼の言葉が届いた。平素の、誰かを誘惑するわけではない、陽気に浮浪するこわ。だが口元は微動だにしない。再度注文したサーモンのカルパッチョのネギを、平等に分前してから頬張った。


 ――テレパス


 静かに、シュウが頷く。媒体はシュウの箸からついた唾液だろう。それがわずかでも、自分のシャリかネタに触れてしまえば感染は行える。

 周囲を見渡したいが、それよりも先にネタを摘むんで口に放り投げた。


『君に追いかけられたいけど追われてる』

『誰に?』

『首都のおっさんに、俺無職だからね』


 ネギが確かに箸に触れてわけられた。それでか強くまた、彼の声がした。

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