2

 朝。夜の帳が烏羽に沈む頃に、部長からの連絡が舞い込んだ。

 その時は印象深く、まだ朝餉の焼いた卵の香りすらしない、彼の匂いのなかで起こった。裏返しにさせていたスマートフォンの光が先により強く朝を教えるような午前。青ざめた空を焼きまわす部屋の中で、及川が醒めないまま迎える朝だった。伝達事項そのものを飲み込んでは、もうない幾ばくの一人だけの世界を及川の胸の上を過ごした。

 その後は、あまり覚えていない。ただ酷く長い、秒針が秒を刻まない静寂しじまと、えらく短い男女の喧騒だけ。満員電車にて無理矢理くっついては離れない及川を適当に追い出して、数駅先で降車。そしてその前もその後も無為に過ぎて一人、今は見知らぬ男とホテルにいる。

 人好きはするが飄々とした態度。長口上を終えた後はそのキャラクターで通すつもりか、男がそのまま深くベッドに腰かけた。

 非合法的集団の溜まり場としての側面もあるのか、自分の小さな図体を共にしながら男は一言二言で中に通された。落ち合う前に駅構内にて事前に着替えたが、それでもこの臭いは慣れない。孕むだけ孕ませて産み捨てる篭った性の残骸、学ランに染み付かないが、一層薄着には射される。

 頼りないTシャツから直に雌雄の気配を垂らされている。所在ない手を裾に掛けかけたが、待てとシュウが呟いた。主君の立場ではない、使役される立場だろうに声だけは強い。


「体で払うは駄目な、食傷気味なんだよ」


 黒髪黒目、白いファンデーションにやや色付いている肌。貴族が気まぐれて描いた絵巻物と似た容貌と、所作を見せる男は異世界人と言えど人臭い。瞬く長い睫毛から、照明の光が燦爛して一線を走る。その細やかさは、どこからが艶を呼ぶらしい。

 住所不定だから略してジュウ、だが君主は濁音があるから敬意を称して濁点を抜いてシュウ。出会い頭にそう淀みなく言うだけあって話が早い。食傷気味、少し奇異な見た目と軟派な態度からか、その波に乗るのは容易なのだろう

 シャツを脱ごうとした手を留めて、シュウに目を遣る。値踏みをしてはいない、少し目が細いのが生まれつきデフォルト曰くつきフォルトか変化はない。ただ表情から察するに飽食だと、未成年の交遊を一蹴させんとしている。


 ――松山


 ちょっとだが、彼はまどろっこしい表現をしていた。松山の内の一つのスメルは同じものだと言っていた。


「松山って人としたから?」

「それは秘密」


 松山、彼の名は知っている。紙上の知己でしかない、うすっぺらい関係の人間の一人で、部長の上司。別名義父の情人、インキュバスのライフライン、それから多分、欠けていない自分。シュウと枕を共に出来るならその違いしかないのだろう。

 相手として不足している、それを油断と見てシュウの胸倉を掴んでベッドに飛び乗った。情けなく、気怠い佇まいをしていたシュウの体が寝台に転げる。弾みに大きく舞うみだりの香は奥底の腑を疼かせる。隠微だが、誤魔化すことも叶わない。ここで人を悦ばせて、肌を擦り粘膜毎人を食えと教えんとばかり、薄気味悪い圧迫感に襲われる。肌を赤くして無様に現れない内に、痛いと彼が苦言を呈す前には、両膝で胴体を挟んだ。意外に、脇腹からかける肉は案外硬い。引き攣った顔につられてやや筋が張るが、指先を滑らして汗を流すには悪くない。


 ――これが


 自分とは違う、虚弱さのない人間でも彼を知っている。どこかの寝室で深い口付けを交わして、肉を互いに弄ったあとにはしたなく絶頂を繰り返す。それだけ、自分にこなされていたことをシュウはしている。自分の知らない所で、部長と。


「待て待て待て待て」

「……じゃあ部長としたの?」

「それとはやってないけど!」


 喉が、厚い皮の奥からうごめきが見えるが、彼は何も言わない。至近で見つめられていた目を逸らした。

 自分は、精神的な距離はどうあれ、肉体的には眼球を媒介に部長と接続されている。だがそれを部長自身が周囲に漏らすのは考えがたい。ただシュウが周知の事実として受け入れているのなら、彼も部長にそれ相応の情報を与えている場合がある。怠惰国の特殊派遣員、ここに来た以上は彼は嘘をつけなくとも間抜けではない。左目の発光は占有者の任意によって発現するが、それも極まれだ。どういう訳かは知らないが、彼は自分の身の上を知るなら本物だった。そのくらいの関係であって仲でないのだろう。


「……確か、君と部長とは父親だった?」

「法律的には、多分」


 三輪春彦として、彼は笠井蓮を迎え入れた。夭逝した母からの遺言からの指定、高所得者、三輪春彦に限れば未成年後見人としては不足ない人物だ。三輪と笠井の時点で別姓だから、厳密には養父ではないが親子としては成り立ってはいる。事実三輪として学校公開を見に来ることがあるが、保護者から立ち聞くと三輪さんと笠井君で区別される。そのくらい、その程度は分けられているだけで、他人にはそう家族以外の仲にも見えない。


 ――部長は


 部長は違う。「三輪春彦」が「笠井蓮」を優しく迎えようが、「部長」もまた同じ声色で「笠井蓮」を拒絶する。だがそれを口で明らかにはしない、他人が小さな違和感を口にしてやっと分かるまで彼は隠してしまう。


「君にとっては? そういうの嫌?」


 顔に出てしまっているらしい。頭は振らなかった。さあねと素っ気無く言うが、本当は嫌かもしれない。断定は出来ない。部長の目論見通りに、縋りたくて仕方ない大人にされたかもしれないから。ただ純粋に、三輪春彦からも愛されていないと自覚するには子供だったと気付くかもしれない。確定は出来ない。したところで、自分は酷く浅ましいと拠り所ない場所に蹲るしかない。

 気付く内は、本当は分かっている。普通なら、普通の父親は朝に他人の男と連れ込み宿に行くことを見過ごさない。普通なら、息子は今も漂っている腐臭を「嗅ぎ慣れない」だと言わない。普通なら、普通なら、息子はここから逃げてしまうべきだ、こうも寂しいと思うはずがない。

 変に、なってしまった。まだ松山の内の一つと言っただけで、彼自ら相手をした訳ではないと言っているの。妙に締め付けられる、血液の収縮だけを早める不快を頭で感じる。不安。ルサンチマンは酸素を殺す、如実に心臓を高哭らせて、助けてくれとせがむまで押し潰す。そこから逃げようと、すぐ真下のシュウのシャツに手を掛けようとした。


「仕事には関係ないか」


 シュウが動いた。止まってしまったらしい自分の体から、腕を掴んでベッドのシーツに引きずり込む。ただ強く打ち付けられる前に、彼から全体で抱き込まれる。汗も整髪料の混ざった臭いもしない、近くで響く心臓の音がそれだけの人間性だと却って化物みたく示す。170半ばはあるらしい体格の胸部に、自分が包まれていた。中途はみ出た足を絡まれるが深くまで行かない、すぐに解けられるだけ結わえて、匂いのない匂いを吸わせる。後ろ髪を、彼の指が撫でる。やや強く触られると形が分かるが、意外にも青年の割には細い。


「……悪い大人だからな、不純行為含めて情報提供してやる」


 近くで囁かれようにも、素肌はおろか袖に一切手を触れない。ただホテルの照明を見るなと、それだけは前面に覆って隠している。それに疑念、軽蔑を抱くことが今はどうしても出来ない。始まりの合図が見えないまま、くるまれている。


「さっきの続きだけど、」


 もう少し、もう少しだけその奇妙さを吟味してから難癖を


 

 



 急に、シュウの体が強張る。

 いつの間にか、気付かない内に彼の顔を見ていたらしい。ある種のトリップ、又は魔法にかかったか、時間の移ろいが曖昧だった。彼もまた、模糊とした表情を見せて、互い目を合わせることに恥じらわないが、何故かまたそらした。


「……先に、昼でも食べるか」


 後につられて、彼の腹部が一泊遅く鳴り始めた。

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