2

 我が烏羽のリーベ、銀が神経衰弱を患った了花へと誘われ、そして戻るまで数年経ってしまった。最後に銀の姿を見た時はまだ年端も行かず、若々しさがまだ滲み溢れていた果汁。だが成人を潜り戻ってきた頃には肥えるべき脂が滲み出ていた。


 かつてはねだる時はじれったく太腿に触れていた手は大胆に太く骨張り。時に弓なりに仰け反っては、感嘆を絶頂と滴らせた身体は厚く張りがある。月光代わりに地下牢に佇んでいた白皙はそのままだ。

 太陽に妬かれず星の光だけを吸い込ませた淡さ、そこに人間味を与えて雄として形を得ていた。銀の体が、なんど抱き締めていても未知を与えられる程に、彼は成長している。筋肉がある程度に深いが柔らかい大胸、だらしなく俯いては晒す頚椎の硬さ、幼時を巡らんとする喉のしなり。

 どれもが、自分の知らない銀で出来ている。変わらないことは、今も春を忘れられない唇と雪を閉じ込めた肌、熱帯夜の声、秋の夜長色の髪。それだけは、誰もに染められることなく帰ってきた。

 今だって、彼は上からくる束の間の微風にニプルを掠めると腰を浮かせる。自らの前では恥らうか明らかに見せないが、両膝をすり合わせようとするいじらしさが愛おしく懐かしい。


 たわぶれに再度、一つ一つ、ぜんぶ、惜しげなく強く抱きしめる。想いすがら、肌着がはだけて見えるところには、自分が腐心して刻んだスティグマがない。それはどうしてか、傷を滲ませて変色させた背に手にかけて尋ねたが、彼は啜り泣いた。

 了花の所業らしい。やめろとは抵抗したが、イチカを亡くしたいからと彼を治療したらしい。だが自分のものにするには証が欲しいと宣い、また身奇麗にした銀に一つ深く傷を付けた。右の頸根、彼の幼少に戯れに噛み付いては食らったあの印を、あの女が重ねて疵にした。

 彼は思い返して、それが余程答えたか何度も謝っては嗚咽を漏らす。何度か、自分は何度目か、彼を宥めて縮こまろうとする背中を何度もさすった。

 背中についた指じゅうに、淡黄の膿がこびりつく。しっかり後に手巾ハンカチ代わりに舌で舐め取った、死骸の塩気がした。


 ■


 背中の聖痕で歩くに支障が出てしまう。

 それは縄を解いた際に巨体を支えられずに蹣跚まんさんとしてすぐに分かった。恙無く、銀の腕を首の後ろに回させて、背と膝を持ち上げて屋敷を案内する。道中、それをお姫様抱っこだと、テレビで聞き齧ったらしい銀が赤らめて教えてくれた。

 電子機器の一切は禁じていたが、銀が嬉しそうに言うものだから特別咎めはしなかった。


 すっかり自分の物に香り付けしたが、それでも微細に嗅ぎ慣れない洗髪料が鼓動を早くした。加えて人間の体は弱い、ない揺籃に己を注げば体がすぐに排出を求める。

 だから一旦風呂に入らせることが必要だと、鼻先にいる銀に説く。また手を煩わせたと気落ちしたせいか、言うことを聞かない肉体だと自責したが、それはやんわりと諌めた。変わりなく、銀は心根は優しい。いつでも他人を思いやっては気遣う、とても優しい子に育て上げた。


 ――しかし


 その銀だからこそ愛おしい、銀の為ならどんなことでも厭わないが、大事な会合を予約していた。それも無論銀の為のものの、少し人間に無理強いをさせたせいか看病に当てる時間が長くなる。夜間には臓器移植の手筈をする予定だから朝だけのものと話は付けた。まだ会合には一時間ほど余裕がある。

 銀の体を洗わずして待つことは有り得ないのだが、行き違いを考え予定に間に合うかは不明。何しろ、他の北条には言伝をしていない。大事な客である手前、急かされる身として遅れるという選択はないが考えものだった。


 つと、奥から足音が聞こえる。今自分たちが居るのは浴場で一本道にされている。こんな早朝から用があるとすれば、風呂か自分に向けての業務だろうか。銀の顔を一瞥する。まだ、誰にも目を合わせてほしくないから手巾で目を隠し続けていた。安堵して、廊下を見遣った。


 ――子金君か


 墨染めた髪と瞳、黒い無骨なTシャツから覗かせる刺青の華美、奥には爆ぜた色の紅翠を秘めた青年。彼とは、北条の者には口に出来まい秘密を交わし合っている。銀と自分と先客、これもまた北条の者どもには伝えられない秘事だが、子金ときたら都合が良い。先程息がかかっている使いには子金宛の言伝を命じていたが、それが届いてきたらしい。

 だが少し、いやかなり機嫌が悪い。明らかに眉を顰めて、心なしか足音が大きく聞こえる。感情の起伏が乏しそうなのだが、こうも現れるのは珍しい。


「気は確かか」

「驚かせてしまって悪かった、大丈夫、君の話じゃなくて私達の話だ」

「何故彼らを呼んだ」


 詰問。彼にしては感情を露わにする声色、そのせいか後ろ手から銀の手が震える。それを怖いと口にするのは銀ではない。静かに、口元を軽く結んで黙りこくるが指先から如実に反応する。

 銀の実父からの折檻は、いつだってこのような態度をとっていた。縮こまって、背を丸めてさえいればすぐ終わると怯えきったまま耐え忍ぶ。目を隠す暗闇の中で、あの顔を思い出すのならと不意に手縫いに手をかける。


「……銀が怯えている、やめて」


 否と、非する。

 怯えさせた子金を、銀の世界に入れる訳にはいかない。代わりに掌で多い、布越しに瞼を温める。手の端から、荒息が伝う。苦痛を回想してこちらの胸を締め付けられるが、掌の熱のお陰か、呼吸を穏やかに変える。胸中でゆすり、鼓動を確かめるが脈拍は乱れていない。


「君の約束は守るよ、だがああなった以上、庭三が事を片付けてくれる保証はない」

「だが」

「勝手なことして悪かった、でもアレは必ず滅ぶ、それは変わらない、それを変えることはない」


 念を押す。『ああなった以上』と聞いて子金が眉を動かしたが、それは神体破壊を依頼した庭三だ。ユメもとい、了花が遺した北条の権化、銀の呪縛を破壊する。神体と深く関係するとあの時あの石を持って戸を叩いた子金ともその目的は一致していた。それを覆すことは絶対にない。己の手が誰かの手が汚れようが、北条がある限りアレが生きるのなら根絶やすまでだ。

 名目上、協会の処理として片付けるが、子金は子金の意志として、自分は銀の意思を維持して完遂させる。三輪のように、神秘を神秘として維持することを絶対とする以上は、庭三以外にこの話は口外出来ない。


 子金のことは深く話さない。ヒラサカが石を取り替えたというイレギュラーを発生させようが、外部に助けは求めない。三輪型は庭三を疎んでいる、この先の神体の暴走があって全滅しようが、三輪型としての体裁は崩れない。咎めは食らうだろうが神秘の祟だの、罰が当たっただので済む。今は神体の問題ではない、別だ。


 ――子金君には関係ない


 自分の為なのだが、子金にとっては命懸けでここを着ている。ならば不達は不誠実に見られるかと自省した。少々、銀に浮足立っていたかもしれない。


「遅れはしないからお茶出しでも頼むよ、怪しいなら見てっていいしさ」


 だが、昨日言ってしまえば彼に激しく止められたかもしれない。そう考えると子金に話す選択は選びたくなかった。


 共に銀と体を洗い合い、背の治療を施した後に髪を乾かして梳る。往来、初雪を踏みしめた背徳は抱かないが、銀の背にはよくそれが分かる。光栄の影に潜ませた我儘、それを少しでも滲ませてしまっている私を赦せと、丁重に木櫛で梳く。一本も乱れなく、流れに沿って髪がなめらいた時には乾きり、抱き上げた際にお礼だと項に口付けられる。

 イチカ、この体の顔は、いささか不自由しているが、それでも銀が与えてくれるのなら物怪もっけの幸い他ない。


 客が待つであろう、客まではないもう一つの部屋に向かう。最奥の間、本来神体が置かれていたものよりも奥の部屋。見掛け普通の襖、それらしい札も縄もないのだが、ここは北条の者は誰一人立ち寄れない。

 奥に部屋はあるが、そこに入ることは許されない、その単純な強迫観念を植え付ける魔力を組み入れている。演算装置、式の設定、まるで協会に悖るが神秘に反した技術をここに結集させている。所詮、人為ですら破れないのなら北条なぞたかが知れているのだ。


 ――神も


 北条の神も然り、数百年の努力は比例しない。

 子金は北条にも本家の木央にも寄らない、全く外部の人間だ。北条一果の私生児として自分が認めて置かせている。だが実は神体の血を通わせた神子であり素質のある彼を抜擢させたという設定だが、非血縁だ。共通の目的で繋がっている、それによって子金だけはこの戸を開ける術を教えている。


 襖を開き中を確認する。客人二人と、仏頂面の子金で三人。客人は、話した通り二方。両者とも上質なスーツを誂えてこちらに視線を寄越した。


「お待たせしました、当主代理の一果です」

「ご招待光栄に存じます」


 すぐ手前の人物、黒縁の眼鏡を掛けた男が深く頭を下げる。途中で、自分が抱いている者が銀と気付いたか否や、後方にいるオールバックの青年を置いて近付く。


「北条銀様、初めまして――機関の首都に所属する、三輪春彦と申します」


 彼は恭しく、碧眼の海をうねらせて銀の前に跪きそう言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る