【北条一果/Dst0rv】1

「君は人間。君だけが人間なんだ」

「人間」

「そう……だからあの女は君を誘ったのだろうね」


 やっと、僅かながら銀が口を開いてくれたが、遅咲く桜唇が少し荒れている。面布よりも奥、仮面の中に指を突っ込ませて脳漿を拾った。一粒指の腹に小さく乗せたそれを、銀の唇の端からなぞり合わせる。抵抗はされない、次いで程よく弾力を持った口唇も自分の指を受け入れる。下を端まで塗りつぶせば銀が口を結んだ。そして緩んだその時、唇のツヤが映えて光る。桜が、貝にも見えた。

 内腿に手を這わせる。銀が身にまとう肌襦袢が薄っすら自分の手をかたどって、陰影を描くのだろう。その白に映える影たるや、見るやいなや堪らず半身の己が顔を出すの出すに決まっている。その心配もない、朧気にしかつかめない弱視で良かった。


 朝、夜の名残を消そうとする刻が来るというのに、銀の体は冷たくて湿っている。溶けかけた氷が、甘露と混ざって葉を滑るような湿り。掌を広げるが、よく吸い付いて放さないのが人間らしい。じっと、そのままびちゃびちゃ濡らさずに火照るのだから、こうして触る時は芳醇な果実を思い起こす。一かじりすると、弾けてしまう香りと触感。少しだけ、指を肉へと沈ませてやれば、その弾力は内壁を思い出した。それにつられてまた一興投じるのも悪くはないのだが、銀の身体があまり動かない。傷が、まだ癒えていないのだろう。已む無く使いに扉を閉めるようにの合図を止めた。

 指先に朝、日差しの熱が掠る。闇をぼかす薄暗さにひとつ、梳かれていない黒い髪がよく見えた。手入れはしているらしい、茶の麻縄とは異なって芯の通る光が線に走る。


「だからずっと心配だった……痛かったろう?」

「おじさんは、怒ってない?」

「それよりも、悲しかったかな……何も出来なくて今度あった時に助けなきゃって必死だった」


 地下から出て行ったら、風呂に入れてやって、銀の好きな鮭茶漬けを朝餉にしよう。だが、今差し出すには銀の身体が冷たい。猿轡を外せば深い息がひとつ首筋を撫でてくれたが、それが魂魄を吐くとたがう程に弱々しかった。

 冷えたはずの壁が、銀に触れていたところばかりはぬるい。気色悪い、泥濘んだ体温があの女に似ている。銀はあの女の抱擁を受けたのだろうか。そう考えると、また心音が悪寒に曲がる。

 それを叩き割られる前にと、銀を抱きしめた。全体的に冷たいが、肉が、皮膚の下の銀はまだ温かい。また深く手を後ろ手に回して、顎は肩に乗せる。薄い衣類では容易に心音がよく聞こえる。鼓動が、心悸は落ち着いている。北条了花リョウカ、今は死んでしまった彼の姉、もとい母親の名を聞いて早めることはない。憑き物は取れたと、そう解した。


 ――あの女は


 あの女は、自分はやっと殺した。人を殺すのは良くない、明治以降はそうらしいが時代錯誤の頭をしているから良い事だと脳が占めている。今まで自分が幾度何度も偽装を働いて、自らの功績すべてを銀に明け渡して北条の名を守った。銀は実父との不義の子だと言うのに、いびつな家系図を組み直して正常にしたのは自分だ。追い詰められて近親姦まで及んだ挙句、不全者を生み出してしまうのは悲劇も良いところだった。

 もっとも、魔法に厭われる銀だからこそ終始身を清らかに出来たのは事実だ。あるとすれば加護、自分の血肉ほどしか与えていない。思えば臓器移植の一つや二つも行えていなかったのだから、こんな不覚を取ってしまった。無理矢理にでも、心臓を挿げ替えておくべきだったが手元に戻った今は計画が出来る。誕生日に、誕生日にしてあげよう。不全者ではあるが、切断されていた腕の縫合が出来ている。まだ傷跡が残っているが「出来ない」と「可能性」があるとでは違う。

 彼は、彼女に呪われていた。家に帰った頃はあれほど血相を変えて掴みかかっていたが、死人からの呪いなぞ呆気ない。手探りで、縛っていた縄を解けば腕は戦慄くもすぐに背中に手を回してくれる。中に、すり合わせる互いの胸部の合間に熱が篭った。


「ごめんなさい……あの時逃げてごめんなさい」


 悪魔はもういないと笑む。あの女が銀を連れ去ってしまったのだが、その原因たる親の庇護が途端に消えるとこうなる。それでも銀にはかけがえのない家族なのだが、失った者として心を埋め、取り戻した者として自分がいる。こんなにも成長した彼の身体は頑強だが酷く脆い。自分はそれを指先から丁寧に治していけば良いのだ。顔は使えないが、指先、次は身体を使う。拠り所がなくて震える躰を横たえる用意は出来ている。

 背中を擦るが、銀が震える。拒絶ではなく、傷口のせいだろう。鞭打たれた傷創から粘りが強い、化膿している。浄化作業とは言え、突いてからやってしまったせいでつい加減を狂ってしまったらしい。この様子じゃ、鎮静剤を打とうにも介助は必要だろう。


「悪魔は追い払ったからもう大丈夫……一週間くらいは様子見だから、それまで私がいるけど良いかな?」

「迷惑かけたくない」

「大変じゃないよ、君が戻ってきたから世話を焼きたいから……私の我儘聞いてくれる?」


 目隠しをしたままで銀の表情は読み取れない。少しの嗚咽を耐え忍ぶ呻きだけ、それだけは泣きそうだと精一杯言っている。静かに、是の合図で頷く。それだけで、胸の翳りが澄んで行くのだが、高揚はせまい。まだしかと、計画は覚えている。今は秘密を知られたことで庭三の人間共を拘束、そして肉鞘からのあの化物と住まわせている。まだ、神体の洗浄は終わらないが彼らが命を賭して遂げてくれる。


 ――ヒラサカユウ


 あの肉畜。茶髪碧眼の家畜は、今回憂慮すべき相手だ。彼は犬とは言え嗅覚と勘は人並外れ、まだ人間の意志すらも残している。庭三の奇特な教育方針故だろうが、これ以上子金と神体との関係を探ると計画が崩れる可能性だって出てくる。付けてみれば、庭三の頭目に明らかに好意を寄せている。加えて彼女が子供好きだとしたら、その叛逆にもなるあの神を許すわけには行かないだろう。


 ――だが


 彼は庭三桜子に女として好意を抱いているのなら、都合が良い。それを利用する手立てはいくらでもある。いくらでも考えついてしまう。


「じゃあ最初に、イチカって呼んでほしいな」


 何故なら自分は時に、恋する者でもあるからだ。阻むなら妨害する他ないが、不本意にも共感はしてしまう。自分が銀の前で振る舞うだろう醜態を、彼がしてしまえば良いのだ。

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