3
行き際に、柘榴は何かを唱える。唇をふるわせて、音をつくっているのだから、そしてここがファンタジーなら呪文、みたいなものなのだろう。聞いたことがない、文法としてもよく分からない、聞き取れない言葉を並べながら長い髪を結う。首筋から大きな傷跡が一つ。それを一瞥したことを察せられたか、柘榴がいやあんと情けない言葉を吐いた。
一息数文。気配、という抽象的なものは感じ取りにくいはずだが、周囲の空気が変わる。何か、張られている。檻とも似た、狭まる不安が肺を締め付けた。試しに、壁に手を触れるが問題ない。クリーム色の壁のように、クリームに手の中ですべった。
「バリアってやつやな、錠前が俺なん……お釣りはいらん好きなの
ズボンのポケットから取り出し、それを自分の方へ投げつける。幸運にすぐに手に入れられたが鉄臭い。500円玉だ。
「だからいらないって」
「俺ココアがええなあ、ほなまた」
返答を聞かず、ベランダの窓を開けるとそのまま手すりに飛び乗って上に向かう。彼が何をしているかは分からない、だが真っ先に彼は下よりも上を判断したことになる。下は、彼は敵と言っているのだから、単独では目立つほどには包囲されている。それが妥当か。
――なら
ここは位置が高いのか、空がよく見える。回数の高いマンションなら、正面ドアから向かうよりは屋上に向かった。そして自分が逃げるなら、上からよじ登り、屋根と屋上を土台として駆け回る。直ぐにベランダから周囲下部を覗けば、脇道から数人ほどの男が不審に動いていた。目線は、こちらに合わせている。午前5時の民間人としては、不自然か。
一息吐いてから手摺に手をかけた。ここはフェンスみたいな穴開きではなく壁として作られ、塀の端にだけ隙間がある。ここを掴みながら登れば、屋上に上がりやすい。
上を見れば接着された後を手掛かりにすぐに登れた。調子がいやに良い、当たり前の行動、地面を歩くと同じ余裕で屋上まで手が届く。すこし歪んだ音を立てる建造物、筋肉の縮小、疲労はあるが問題はない。
屋上から先へ。同じ考えをしていたらしい柘榴は既に別の建物に乗り移っている。その先に見える別棟、下に民間人すらいないのなら、推定2mほどの間。起点から末端までの距離は数十m、助走には問題はない。
走る、そして適当に冴えたその時に、飛んだ。
無重力、数秒後の衝撃に飲まれぬように、受け身を取る。前転して衝撃のエネルギーを散らし、一回転させた後には直ぐにでも走れる。緊張状態はない、高場への恐れは、なかった。
――覚えている
染み付いている。
これは、これが自分だ。視線が外的要因で不定せずに動ける。助走が足りないのか、着地点は浅い。だが柘榴と、数人の人影が見える。視覚範囲内、聴覚範囲内では誤差なく五人が彼を囲っていた。
人数としては多いが、襲った人間にしては筋肉量は足りない。推定20代から30代までの男女、恰幅のいい男もいるがどう考えてもカタギとは言い難い。皆柘榴を一点に捉えているが、個人の歩幅が不揃いだ。体幹の安定は身体能力に影響が出る、それを一目で確認できるのは足、もとい歩行だ。追うためだけに足を追っている違和感。
――違う
目の前の女性のシャツの襟元から蔦が。
瀬谷に胸元を引き裂かれた時と、多分同じものだ。それは項垂れてもいる女性の中に戻り、骨折された手折られた腕を矯正する。ぼきりと、嫌な音をしながら女の腕に巻き付く。女には悲鳴がない、ううとだけ、呻いているが苦痛が見えない。
「来るな!」
憔悴だ。柘榴は叫喚を吐く。柘榴に駆ける一人の男は、腕の形そのものが拉げ蔦から骨を見せていた。可動領域は肩ほどしかないそれを、鞭として撓らせて柘榴に振るう。避けるが、彼は一向に攻撃を仕掛けられない。
――瀬谷かな
彼は突如、片腕を失った。呪文、バリアなどは定かではないが、彼は自分によってそこまで感染された、という可能性はある。体内に埋め込まれていた花はない、自我はあるがそれ以降はなかった。とすると、有り得なくもない。
あの集団は、烏合の衆は自分と同じようなものかもしれない。蝕まれて、そのまま操られて自分の意志としていると誤謬する。自分に触れて重症化した主人を柘榴は見ていたなら、攻撃したくても接触はし辛いのだろう。
ファンタジーは、一般の人間よりはよく分からない。だから魔法学校を思い浮かべるが、普通は呪文を使う。呪文を使うなら時間はかかる。それで彼の拮抗が激しさを増しているらしい。そして自分相手に怒号を向ける男だ、自分が介入したところで不安要素を産むだけにならない。
――だったら
そこに行かなければいい。ポケットを弄るが、先ほど与えられた硬化しかない。だがこれで良い。
中距離、微風、風向き左斜め……いや距離32m、風速2m、風向南西。
かすかな、微かな風が頬を撫でている。それは心地が良いが、大きな誤差を招く悪魔だ。神経すらも爪弾かせ、明日に希望を持つ甘さを抱く。それを捨てる。捨て続けた、一握りのひとときの空白を、自分は知っている。忘れていない。自分から捨てる能動を、体は却てていない。
自分そのものは穴と例えよう、そこには埋めようにも埋められない底なしの洞穴として居座っている。そういった人間はどんなことも満たされないのだから、生きる希望もない。すぐに死ぬ。
だが人間だ、まだ自分は人間としての自覚がある。その証明は出来ている、人間を殺すことを恐れない覚悟を所持している。そこはどこから来ている? 自分はどうやってそれを持ち得ている?
――思い出せ
今までの、幼児と青年の凄絶はあっけなく砕かれた。どんなに激しい記憶でも、記憶を紙として破いてしまえば何も残らない。自分は今それだ、それを、空っぽの本棚を抱えて生きている。ならばもう、誰かの手駒でもない自分には何も価値はない。
それでも死の際に追いやられたら喜んで崖から飛び降りはしない。する訳がないと、心臓が応えている。
――思い出すんだ
闘志、怜悧、狡猾を彫れ。
あの黒い眸を持つ松山を、自分は諦めた。あの時確かに松山を手にかけることをやめてしまった。何故か、彼はあの場で最小限の力を以て、逆に指を切断した。切れ味が良いという訳ではない、調理室から適当にくすねたステーキナイフだ。それを避けることもせずに行動のために落とした。自分の薙ぎでは威嚇程度しかならない。だから覚えていなくても、松山を威嚇か牽制程度に見せるつもりだったと推測する。
技能と判断力が表の人間は持つものではない。
自分はあの時で感じ取って逃げてしまったのだ。自分が、逃げなければならないと判断した。そして元の裏口から抜け出そうとしたが、白人男性に捕らえられた。名前は分からない。ここから捕まえる直前まで、あの男に既知感を得ない。
ここまで瀬谷に引き渡されたなら、根を張っていた物にとってはまだ殺されないだけ価値があるということ。根を張る黒幕は自分と白人男性の会話を見逃した。そこにあるかは分からない。
――だけど
反芻する。あの男の仕草、口調。彼は空白の自分を使って黒幕に問いかける真似をしなかった。
ならばこれは有り得るだろう、本来あるはずだった自分自身に彼が囁きかけていた事実を。
『君は、人に戻る気はあるか?』
自然と、不自然なほどに記憶が、幻聴する。
耳から目にその情景を巻き戻すように、触感を甘く帯びていく。哀れみとも嘲りとも呼べる一言だ、言葉遊びの手慰みだからバックも見逃してしまったのだろう。
良い声だ、質良く紡ぐことしか許さない発音から、乗せられる情はあまりにも薄い。沈まないと言いたげな真昼色の髪、それに反して瞳は底の水を湛えている。魚影を塗り潰す髪、海原の眸のみ持つ自分にはどこにも寄れない。日の下に晒せば干上がり、海底では潰れるから彼は両端にいる。そこから彼は問いかけているのだ、人間か否かと。どちらに縋るかを。
腕を伸ばして握った拳、人差し指を空に向けて500円硬化を置く。あの男の声はまだある。ビターチョコのバリトンとよく響いて、癒えたはずの両手首が疼く。それでも気にしない。
――よく聞こえる
もしかすると、自分はあの金髪に道を導かれたのだろうか。自分がどう有りたいかと、こうやって藻掻くことを予測して、そう呼び起こすように施したか。呪文と共に、彼はきっといい顔で気取った台詞を言うだろう。綿菓子みたくかんたんで甘い、気障った言葉を自分に託す。
ならば上等だ。煽った分は返そう、人間かと嘲笑うなら開き直そう。利害の一致という奴だ、この先付き合うかは分からないが、戻ってみせる。以前の処理屋へ、掃除屋を見せてやる。
――
いいや
「
一段と冴える。風が、生きて分かち道を開ける気がした。それと伴って心拍は高鳴る。例えるなら、人間の限界を解除した奇跡。
または誇り示すなら、魔法使いとして生まれ変わる――その高揚と似ていた。
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