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 朝飯の準備。と言われて、ザクロからゴムを渡された。手ですいて、高い位置でポニイテイルを括ると少しだけ引っ張られて痛い。上手くできたが、何気ない動作すらも、いつ出来たかは忘れている。ちいさな痛みもまた、どこかに消えてしまった。

 ほんの少しだけ鼻をかすめる、すりつぶした小麦粉と塩辛い香りを頼りに台所へ向かう。昨日に血で汚れていたはずの廊下は、嫌なシミも匂いも一つ残らず綺麗にされている。

 生臭くない、ただ香をたっぷりと含ませた狐の獣臭さ。天井まで血が届きそうな暴れっぷりだったはずだが、お互い足音を立てないまま歩いていたので黙った。それは自分のあらわれらしい。薄っぺらい紙が一つ、束になろうとまた一つ重なっている気分。それが清々しく心に停まっていた。


 リビングとして広く間取られたこの部屋に、まだ窓は青い。夜の色を濃いめにして、蛍光灯の下で少女が一人何かを捏ねくり回す。ローテーブルとは別に、高さのある家族用のキッチンテーブルにひとり。パンのような白い生地に、木を残した伸ばし棒で同い年ほどの少女が生地を伸ばす。


「パン?」

「俺のお郷の揚げパン、それと彼女の藤娘タンニャン


 彼女、そう言われると同時に少女が静かに首を横に振る。だが手は休まずにゆっくり、鳥の代わりに機敏に手がける。薄く伸ばしたパン生地は、彼女の手によって横長に半分木ベラで一直線に割られ、縦は同じ間隔で七線に割る。それを一つずつ、上下の生地二枚を合わせては軽く押し込む。

 仕上げにその細切れて重ねたそれを、菜箸の柄を使って縦長のあとを付けた。きゅっ、と、静かに聞こえない音を立てて、少女の目の下で下準備される。

 それを見つめている瞳の奥は、インクをこぼして深さすら見えないが朝の照明でつやらぐ。そして夕暮れの影と赤い夕日をそのまま表した、長くて目立つ髪。それをゴムで結び、横顔から大きく見えるくちびるもむすぶ。時々、油で照る生地が小さな手に余るのか、苦戦した様子で口をすこし開く。

 白い歯並び、が、鋭い犬歯との連なりで険しさを見せる。ゆるく、この子もそういった人らしい。


「……アレ油条ヨウティアオってゆうて、朝にはちゅごく風味のリゾットとセットや、よく食べるんよ」


 ちょっと丸めたタンニャンの背中が、話す気はないと拒む。なんでそんなつれないんやろな、とでも言いたげな顔だった。ザクロの言い方は、普通よりも変わっているから、同じイントネーションなのだろう、多分。

 先だって、ザクロがシンクの調理スペースに置かれたラップに包まれた何かを広げる。米、昨日にカレーを食べていたからまだ分かるが、ここの米は水分と粘りが強くてあまり食べ慣れていない。形状もやはり、触ったことのない横ばいの膨らみ。


「キミの仕事はお米さんを見守ること、よくかき混ぜてな」


 米をそのまま、隣で沸かしていた湯を張った鍋に入れて、木べらを差し出される。米が鍋につかないように熱心に、けれど飛び散らないように冷静に。

 そんなあべこべな説法を説いたザクロは調理台に置かれていた食材を取り出しては薄く切る。見た限りだと、赤身の豚肉とピータン。二つ小さく刻んでは一緒にボウルの中に放り込んで、塩と砂糖を加えながら箸で混ぜ込む。

 赤と黒、新鮮な肉と熟され手、くさりかけかもしれない卵。気になって横目で見ていた自分の視線をザクロが捕らえば話しかけたがりがいらない話をしてくる。他にも酢漬けのスァンツァイもあれば、お魚さんを使うこともあるんよと、そう楽しげに言うた。たまにかき混ぜる仕草か、ザクロがジェスチャーを送られる。かき混ぜがいように鈍かったらしいが、米の粘つきが出たのかよく力を加えた。

 それは単調だ、料理は単調を重ねるから食べればいい自分にはあまり合わないはずだ。だが、手を止めないと言うことは嫌ではない、ということらしい。


 ――けど


 重くなる、段々と本領を出してくる米の重みが、これから先の朝の風景を重くする。彼が、セヤがここに来て食べるはずだ。傷付けられたようなはずの自分と、顔を合わせるか息を共に、同じ釜の飯を食う。


「これ終わったら帰っていいかな」

「飯は安うないで、皿洗いもしてもらわんと」

「……ザクロの主人に怪我させた、顔を合わせにくい」

「構へん、鶴坊おっちょこちょいやもん」


 おっちょこちょい、アレをおっちょこちょいで済むらしい。自分の仕事がなくなってちょっと俺暇になっとうなと続けざまに笑うだけの、その程度らしい。ただ違うと言っても、舌を動かすために余計なことだけを言うために話すだけ。

 半日ほど、意識が覚醒している時は数日ほどだが、ザクロの気性は穏やかだ。言わないと、飄々と交わされて次になってしまう。

 不安だ、不安の合図がまた内臓に。特に心音が一オクターブ高くなる。ザクロは、穏やかだ。穏やかで優しい、だからその設定を、今は何もない自分の前では覆さないでほしい。そうでもない、セヤを合わせるための策略だと、裏切らせないでほしい。


 ――これは


 この不安は、空白だからだけではない。それだけではなくて、自分の何かが何処かへ行くべきだと言っている。本能的な危険だ。もしも柘榴が、自分を瀬谷と会わせるのが目論見で内臓をぐちゃぐちゃにされんばかりの策略。それを、抱いているだろうそれを、呑気さで圧倒されなければならない。それすらもない、天然だけど狡賢い、そんな大人らしい雰囲気をまとられては正気を持ってしまう。

 会ってはいけない、ここから逃げなければ。そのために木べらを握り締める。どんな人間かは定かではないが、キッチンは宝庫だ。如何様にも周りの人間を組み伏せられる。

 その準備は出来ている。粥からへらを出して柘榴を見遣る。柘榴は目を合わせて、目の前でへらっと笑って手を振った。


 ――馬鹿か


 ……馬鹿かもしれない。

 そのままそっぽを向いて、火を更に弱火にかけてヘラで掻き混ぜる。ザクロにぶつけるにしては火力は足りないが、仕方ない。


「ここに置いていいほど、自分は価値のある人間だと思わない。使い捨てられるから利用されている、それは俺でも分かってるよ」


 そう、そう正直に言っても大丈夫だったのだ。

 経験の攻撃的が身体について行っても、何故か対応出来かねる。度胸や覚悟すら、自分は奪われてしまったのだろうか。

 ええとザクロは不満げにこぼす。だが彼とセヤは違う。セヤは、あの眼差しは頭にこびりついている。両腕を縛り付けられていた時、逃げた方が良いと無茶苦茶な本能がそれを教えていた。

 黄色は、精神としては人の根幹をよく表している。蜂蜜の透明感は人を包容させるが、琥珀は閉じ込めた濃密、その中でもセヤは煌めいていた。目ではない、眼差しが、眼光が違う。それは軽食店で出会った男と同じものだ。


 彼らは皆、。肉体はどこで裂け、生命活動はどこで途絶えるかの術以外を必要としない。だからそのニュアンスは、自分の感性は正しいと疑わなかった。

 あの目は、経験上どの人間も似通った深淵だが底すら見えない。言うなれば奈落だ、波旬だ、涅槃の死骸だ。指を裂いた彼もそう、柔らかい力で捕まえる金髪碧眼の男もそう、瀬谷も例外ではなかった。

 記憶では、彼らは自分と敵となるような行動をしていた。松山はあの黒髪の男は幹部らしい。幹部の男を攻撃する敵、それは自分だった。だがそれは怒りにさえ、彼らに繋がらない。激情が彼らに伝わらないまま、緩慢に事がなされた。

 一絡げに、不気味だ。

 敵を敵だと思わないどころか、資源としか考えていない。まるで自分の状況を、彼らも同じように教え込もうと再現するように。


 ――いや


 これは比喩ではなく事実だ。状況は異常だ、だが進行が普通のように通常的に淡々と行われている。それを抱いたまま、瀬谷と会ったとして、だが気にはしないのだからすぐに開放される。その一方的に行われる異質で、虚無を埋める、それを看過出来ない。看過出来ないのが自分であって、人間だ。


「先方さんはそうやない? 捨てられる後の価値なんか考えてくれないと思うけんど……鶴坊なんて酷いで、人は眼中にない、興味ないってやつさね」


 どうやらそれは柘榴でも分かっているらしい。感受は元から排除されて、個性のない自分でも読み取れる瀬谷だ。それを付き添いは分かるのは当たり前だろう。


「俺は違うで?自分みたいな可愛い子だーいすき」


 近くまで寄ってこられ、腰に手を回して軽く抱く。鼻歌を交えながら木べらを掴んだ手を重ね協力して混ぜようとする。

 前言撤回だ。何も分かってない。


「真面目に話しているんだけど」

「嬉しいと思わん?」

「そこまで」


 何かしらが引っかかったか、気まぐれか柘榴の身体がさらに密着する。獣の香り。その匂いは彼から来ていたらしいが、構わず木べらを手ごと捕まえたまま撹乱する。いつの間にか具材を入れたか、色を加えられたそれは、乳白の柔軟に当てられた。不意に視線を感じて前方を見遣る。仕事を終えたタンニャンがじっとこちらを見ていた。返事に、柘榴の足を踏みつける。


 ――可愛い、か


 それを言われるのは、恐らくマスキュリンの本能で不本意だ。だが――本当に不本意だが――柘榴が思うように、ない自分を無価値だと思わないものは、多分いると言っている。これは本能とかではなく、そう有りたいの願望に近いかもしれない。


「そういう、可愛い人間とかじゃないから」

「なら何なん?」

「……俺も分からない」


 誠に真に不愉快だが、可愛く有りたいわけではない、その否定的なものも含めてだろう。何もない粥から救ってやると、熱せられた肉や卵の切れ端が見える。それと同じように、自分は何かがあるらしい。瀬谷たちはそれを利用しないから見過ごしている、そう言うべきか。いつ自分がしっかり手に入れられるかは、分からないが。


 急に、柘榴が舌打つ。

 口癖ではなく嫌気か、近い距離で顔を一瞥する。笑みを失って、口元を下げ露骨に眉をひそめる。見たことも想像できない顔をしていたが、見られていると気付くとすぐに笑みに変えたが、身体を離す。ヘラを掴んでいた手に、まだ体温が残っていたが、ほんの一時の握は分かっていた。アレは、ストレスだ。


「敵さんや、お天道様来る前にやらなあかん」


 へらっと、笑いながらリビングから出ようとする。タンニャンは柘榴の後を付いていこうとするも、柘榴は頭を降る。粥につけられたコンロを消した。


「俺も行く」

「無理言わんとき」

「……俺は行く、どこにいるの?」


 一息ついて、吐くように言う。コトダマとやらを帯びて明確にさせるために。そうすると、人はふざけて流すものでも聞いてくれる。


「……ま、人手足らんしねえ」


 これは経験からではない、柘榴からの見方を覆せる自信。それがより強かった。

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