第二章【ミスター・シンカー 下】

二日目/朝

【バレーナ/Welcome to dobutu forest at midnight】1

 午前五時、そしてちょうど。

 いつもはこの時間で寝ていた気がするが、今日は起きてしまった。チュウヤギャクテン、とも言うかもしれない。いつもよりあかるい時間におきて、そしていつもより少し位置の高いところで起きた。窓からは空がよく見える、ビル群から削りとられずに、今日だけの新鮮な風をこさえている。

 涼しくて、良い香りがした。良くは分からないが、何かを燃やして捨てる臭いではない。燻ったヤニではない、遠くの生活の匂い。風呂に入っていない独特のいやらしさとは程遠い、風もこの香りが好きで運んでいった。そんな香りだ、言葉には出来ない、具体的に言えるほど何もないが、嫌ではない。


 ――何もない


 今日も変わらず、自分は何も覚えていない。唐揚げの肉とくっつけられてしまったから、自分はおかしな立場であることは分かっている。名前はバレーナ、それは何かの言葉で鯨を表している、というのは知っている。手にナイフを握りしめていることをイメージしてみたら、直ぐにスナップを利かせて掌の中で回し遊ぶ。そういった経験?とやらは体からしみついていた。ただそれだけが自分にまとわりついて、それだけで自分は動かされていた。

 まだ起き上がるつもりになれなくて寝返りを打つが、真正面に見知らぬ男が眠っていた。顔立ちは少し丸みを帯びていて同年代に見えるが、髪は赤い。赤い髪が、男の寝息ごとにゆらりと動いてうねっては、主人を起こす炎にはならない。目立つ髪だと、上体を後ろに少し反らした。多分、今まで見たことないほどに鮮やかな髪色。例えるとしても、これ以上は醜くなる薔薇の絶頂、焚き木を知らないわがままな炎、そんな神聖を思い浮かべてしまう。

 ふと、少しはね気味髪をすくい出すと、運よく一本が抜け毛だったようで軽くつまみ出す。赤い髪の男、人間臭さ帯びた海外の遺伝よりも目に付いて、焼きやすい。まだ日の出ない青い空にそれをかざすが、光が一線と閃く。淡い日光に当てられて、縁にぼんやりと黄金を帯び出す。カラスの羽、それを唐突に思い出した。昨日まで住んでいた世界の中で毎日見られる綺麗な色はそれだった。薄汚れてドドメ色の中で、いろどりを見せる物。空が海の深海に焦がれるとは逆だ、自分が黒から紺碧に移ろうってしまう。そのほんのちょっとの揺れ動きと似ていた。不意に、瞼に閉ざされている彼の虹彩が見たくてたまらない。あの色は、生きて数日でもある自分にはよく覚えている。


 ――ただ


 もうここにいる意味はない。

 いつの間にか、この男、恐らくセヤツルギという何かと寝かされていたから昼からの記憶がない。昼までの話は、やたら刺激に満ちていた、ところまでは覚えている。その一部でもあった腹部をさするが、なだらかだ。健康良好。かなり酷い目にあったはずの手首はいつの間にか感知されていて縛りつけるものもない。意識を失う前、セヤは自分から何かを引きずり出して、自分はその拍子に意識を失った。そういったところだろう。


 ――変な人たち


 というのは分かるが、興味も湧かない。足枷もない、自分を痛めつけた本人は寝ている。そこにいる意味は探しようがなかった。

 帰ろうと思った。アテは、何もないのだが、こんな状態ならきっとその前も使い捨てるに適した身分だろう。からっぽだが、メランコリイにならないだけまだマシだ。

 だがセヤは気性の荒い男とは知っているので、静かに。ベッドを弾ませていやな音を立てないように、慎重に。ああ、だけど何故ベッドも買えないようなドヤのアパート住み覚えているのか、という疑問は置いておこう。どうせ解き明かす気もないのだから。


「どこ行くん?」


 気づかない内に、黒い髪の男が部屋の前で待ち構えていた。名前は確か、ザクロだ。閉じたドアの前でたたずんでいるが、顔には怒っているとも思えない。この国の言葉にしては、少々変わった喋り方ではあるがそれだけだ。


「別の所、これ以上迷惑かけていられないから」


 ふうんと鼻で返事をしたザクロがこちらに向かう。身構える自分を刷りぬいて、寝台を鳴らぬように縁から身を乗り出す。思い切り、彼はセヤの頬を引っ張って見せつけるが、起きる気配はない。セヤは、昼に右腕を破裂させていたはずだが元に戻ってうっとうしげにザクロの手を払う。夢でも、何か茶化されたかそのまま彼は寝続けた。一向に目を覚ましそうにはないが、寝起きとその息が聞こえるほどにはまだ生きているらしい。


「んなら、昼飯の借りは返せなあかんね、ぶれっくふぁうすと、じぶん作れる?」


 黄色いひとみを細めて尋ねられる。貸し借りというより、式でもなさそうな気まぐれそうな聞き方だ。きいろはどこか、いたずらっぽくて親しみやすい。ホットミルクに入れる大さじ一杯のハチミツ程度の秘密と、双子の目玉焼きの幸せほど。ザクロとセヤの目を見比べたことはないが、どこか違う。彼はより、あかるいよりも眩しい。だから、セヤよりも多少自分が聞き分けが良くなったりしただろうか。


「ファウストは多分、悪魔」

「……悪魔的美味い飯や、にしてもあんさん物知りな」


 思い出はないが、どこかで聞いたことがあると、そう答えた。

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