一日目/深夜

【対人統合編成人格「三輪春彦」他/Traumgekrönt】

 それは白菊の日であつた。

 私はその重々しい華美さが恐ろしい位だつた。

 その時、あなたが私の魂をとりに来た。

 夜ふけに。


 私は恐ろしかつた。あなたはやさしく静に来た。

 丁度私は夢であなたを思つてゐた。

 あなたは来た。童話の歌のやうに静に

 夜が鳴響いた……。


《ライナー・マリア・リルケ》


 ■



 歯切れの良い、だが脆そうな詠唱の口付けにエスとして応じた。

 同じ作品でも訳者と読み手により解釈が多く分かれる、抽象性の高いリンケの詩。口に出そうも思い描くもそれはまた血肉、だから自身を持って紡いで詠んでくれ。そう互いに決めていたのだが、既存の著書の暗唱とは彼らしい。


「――予定通り、次期当主が遺した本体は無事破壊され、緊急招集に再度招かれた君を当主に据える。本家の木央とはまたひと悶着はあるが、神性の虚偽として機関との関係を求めることも可能。逼迫したといえどそう深刻でもない」


 挨拶はないが、それで急に出てきた自分を怯えるタチでもない。わずかに首を震わせて、声を立てたこちらへ向く。目は、手拭いで閉ざされているがこちらに向けたきりぴたりと動かない。いたずらに、もつれた黒髪だけがそよいだ。

 座敷牢。木枠から括りつけて過剰に縛った麻縄。掴まれて所々ひずんだ長い黒髪。肌襦袢に意義を与えず白めくはだえ。これをやけに体格の良い成人男性に塗り込ませ、静かな息も付かせぬようにと大腿に残滓を垂らす。要素としても性的倒錯の体現、副次的に支配欲と考えた限りの報復だ。

 これが、甥に対する北条一果イチカの表れなのだから思いやられる。本来継承されるは先代の直系にあたる長男のギンだった。だが、彼は先天性の不全者を理由に姉に継承権を譲渡。しかし姉が神体を創った直後に変死したことで、姉弟の叔父である一果が務めている。というのが北条家の現状だった。


 姪が遺した造物の管理を任された一果は、延命と鎮静に要する薬物を原因に庭三に依頼。無事平穏に庭三のダークドックが始末した為、口実に銀を召集させて、こうした。彼の左腕、肘との境に赤い傷が残されている。擦過傷よりは熱烈な、刺創よりは耽溺と見るか。それを指で軽く掻くと彼の腰が震えた。びくりと、それだけを生の響きとして、だが地下牢に木霊するほどでもなかった。


 北条一果は、甥である銀を教育する立場にあった。彼は生まれながらに望まれないのだから、もう一つの使い道に足を進ませるように一果を選んだ。これは本当だが、であり綺麗な説明だ。兄でもある銀の父親との後継争いに破れ、厄介事を押し付けられたといった考えが正しい。

 その腹いせに教育と折檻違えて、銀に与え続けた。仮に三輪を偽っている家としても、魔法を至上を扱う以上は銀の立場はない。神と対峙して失った左腕を犠牲に、姉を追いかけるまではここで青年期を生きた。これは、傷すらもならなかった痕跡だ。だからこの傷は、一果としても北条としても誇示を示している。


 神体の破壊から経過して11時間、彼が北条に到着して6時間後にこの有様だ。

 手慣れているのか、緊縛は数時間おきには変えているが、肌に線の痕を簡単に見つけられる。肌襦袢は、そのままか湿った肌に張り付いて所々色付いた。これでは一果にロクな説明も与えていないどころか、彼の思うままの処遇を受け続けている。

 ここは地下だ。季節の深淵だけを掬った湿気と黴臭さと、雄の香りが濃い。負の気が、呪縛とも言える黒だけが彼を寄り添う。それでも自分を向いて縄を軋ませる、か細い生きた心地だけ残されていた。


 軽く、彼の目前までに来て屈んでへばりついた髪を指で取り除くと、頬と頬を擦り合わせる。高潮、していた。熱を帯びながら、脈は拍を重ねる。ものう息が手拭いから通ってかかったが、別段気にならなかった。


「薬剤調合をイルディアドに断られ、神を壊された以上、彼は止まらない」


 彼には、彼がいつか知るはずの情報しか教えない。それはワンでも瀬谷でも蓮でも同じだ。どうあれ、彼らは生きていることそのものがアドバンテージなのだから過度に介入するのは毒だ。彼にもまた、従順になれば、一果から伝えるだろう言葉のみを言い渡すのみ。

 一果は神よりも銀が戻ってくるような行動をしていると取れる。それは好意だ、しかして狂気だ。人間をそうやって縛れない人間は往々にして狂っている。狂っているのが世間の常識なら、常識から非常識を真似た自分には理解し難い。偶然の共感は出来るだろうが、思考回路そのものが異なっている。そんな人間相手に、情報を束ねて整然と見たところで予想はつけまい。耽溺する倒錯者の「部長ファック」、辣腕と苛烈の「エスリリック」、協会の反逆者の「三輪春彦エピクロス」。「自分」はそうやって個性を組み立てている。虚無は常識に依存する。確実に何もないものには、不確実なものを知らない。だからこうして、せめて駒には正しい情報を与えるのも仕事だった。

 背中を撫でるが、凹凸が目立ち肌が強張る。指の腹を見れば、かすれた血が付着する。リチューパ、水牛の革を鞣した鞭は蛇蝎を軽々と殺し、数十発で人間を死に追いやる。これを血縁者に向けるのが今回の相手、彼の敵だった。


「君が思うほど、彼は賢明じゃないかもな」


 北条一果は北条銀を愛している。だからすべてを投げ捨てようとする、彼を縛ることで失う北条の威厳も意に返さない。それをエスすら共感出来ないのだから、この先を保証できない。

 だからせいぜい殺されないようにと、念を入れる。彼は、北条銀は一果に対して恐怖と畏怖、それを押し潰す尊敬の念を抱いている。今はそう、逃げ出さなければ良かったと自分の選択の過ちを自責しているのだろう。反省するまでは、早くて朝までには地下から出られる。

 そして肉の鞘から出てきた幼女とやらとヒラサカがお楽しみする間に、北条のこれからを決める。その先を、予測し難い。出来ないことはないが、確実性を伴わない。確実性を必要としないで溺れるのが愛だから、求めるのも無粋なのだが。


 是正に、彼は頷いて頬を擦る。その褒美に手拭いに触れて気化させると、布で水気を吸い取られた唇を見せる。勘の良い一果が不審か様子見まで、彼のくちを重ねた。息からまた濃い、陵辱の臭気を嗅ぐわすが唇は尚も厚い。

 押し付け、水気恋しいと舌でなぞる。そうして離そうとしたその時に、然と歯で唇を噛まれた。ぶつりと鮮明に裂いて、生温さが口を満たす。初めてした時もそうだった。お前とは関わっても味方ではないと、縋って頼ったくせにそうしてきた。


 ギンと、奥から声が聞こえて離す。判然としない声色の主は、ここに来る。

 手拭いを元に戻して退散するが、この分なら彼は問題はない。自分は元より化物だ、傷は完全に塞がったが意思は受け取った。


「ではまた、朝月夜あさづくよに」


 朝月夜。夜と青い春を叔父に売った男が、外に出て初めに涙を流した景色。北条を抜け出して見た初めてのいろ。それが自分が生きていると実感したらしい。

『それを見られるのなら、北条を終わらせる』

 彼も狂ったような、それとも穏やかな笑みを浮かべて、Tに頼み込んでいた。それは理解し難いが、どこか共感しまった。




《一日目/深夜》了

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