2

 柘榴がバレーナから目を離した一瞬、彼は自由になった足で立って逃げようとした。

 立って、ガムテープで縛っていたはずなのにそれは何故か。明快だったがファンタジーに近い。先程様子見に自分が取って引き裂いたナイフで切ったのだ。記憶も個性もほとんど抜き取られたというのに、そのスキルはまだある。

 走ろうとするが、距離がある。遠い。枷を解いて俊敏に戻る彼が、脱兎の気帯びて逃げていく。長い髪が、しかと揺らめく。

 それが焦燥に手繰る前に、糸口を。関連性を探り当てる。彼は手に、自分が手にしたものと同じナイフを収めている。そして手は自分が治療した。それだけで十分だ。


旋回デファイ


 刃物を起点として、バレーナの手首が回る。壊れた関節人形だ。それと似て手首から指までぐるぐる掌を表裏繰り返して。皮膚が歪んで水気を持って破れば、バレーナのまなじりが歪んだ。

 クレセント錠を外す手とは逆だが、衝撃は伝う。わずかに停まる隙にまだ丈夫な片腕で掴むんだ。そして窓から飛び降りんとする彼を引き寄せて部屋の方へ引き込もうとした。


「後で治すから逃げるな」


 いや、逃げる意味はないだろう。彼には何もない。自分は彼の心中を根掘り葉掘り掘り出したが、それは洞穴だけが広がっていた。逃げるという意志はないが、肉体が別に司令を出されている。その電気信号を突発的に流されたのだろう。

 突如、破裂音。熱風よりは実体を得た生暖かさ、そして博打よりも泥濘んだ水っぽさ。それらが不快だと示す先に、治療済みの自分の豚の手は腕から外された。


――違う


 大きな虚脱感を見逃さない。腕ごと、離されていた。

 先程荒療治をした手から、腕が目まぐるしく離れては落ちる。肩は人間の物とは思えない、幼子が物の遊びに乱雑に引きちぎった粗雑さ。肌が破れて歪んだ波状を持つが、その奥で草が蠢いていた。

 尋常じゃないほどに太い。自分の腕ほどの茎数本が、数少ない脂肪と厚い筋を中途半端に着こなしてきゅるきゅる骨の周りで回る。素手の切断よりも先に、内部から巣食われた、そして茎を太くすることによって中から破った。考えれば簡単なことだった。

 タイムラグに、生命もろとも脳幹が灼かれた。これは比喩だが、いや比喩かも思考すらも殺される。噛み切れない激痛だけで、何かが絶ち切られそうだった。


 それが形を持ち、痛覚という鋸で断たれる寸前に嘔吐する。月数十万でもない限り近所迷惑になりかねない嬌声。

 自分はこんな声も出せたのかと感心すると同時に、噛み締む。千鳥足だが、まだ魂が、精神が飛び上がらない。失血はどうだ牛乳瓶一本分失ったかどうか、なりふり構っていられない。やばい、それだけに支配されている。

 ふらついた拍子に背にテーブルの角が直撃する。普通に痛い。まだ普通に、生きている。それを頼りにまだ自由の片手でバレーナの肩を掴み床に叩きつける。


「……勘は良いのに鈍いね」


 バレーナの声だが、気配が違う。中身を詰めた感情を伴った声だ。


「誰だよ」

「答える義理ないよ、瀬谷鶴亀、君のことはよく知ってる」


 表情。それまで極端なことをしなければ、喜怒哀楽の薄いバレーナにいろがついている。だがそれは色彩としては彼に相応しない、身が詰まりすぎた声色。

 誰かは検討がつく、バレーナを操った本体が表現した。肩からの血が、バレーナに向けて垂れて白い頬を汚す。彼は鬱蒼しげに眉尻を歪めた。


「話は早い……名前は? 家柄も答えろ、魔法調査マギントとしてお前を知らない、一体誰だ」

「……それしか聞かないんだ、機関の人って違うね」


 加えて、厭悪。細くぬるたるいため息が頬を撫でる。これは諦めの類か。はりのない、まだ幼い口を閉ざして目だけ見据えていた。変わらず、奥に魚影を漂わせて輝いている。

 そしてまた、避けられずに食らう。肩の傷口から明らかに分かる。背中から何かが食い破られた。骨と骨の間で行き来する蔦、蠢蠢うごうごと自らのものを嫌らしく擦り付ける様がよくわかる。嫌でもわかる、死ぬほど痛い。


「挑発しないで、さっさとこの子治して帰しなよ」

「そう……なあなんでしくじったコイツを生かすんだ?」

「君には関係ない」


 突貫、腹部からもそれを感知する。内臓を直撃しない、迂回の触感を体内に行き渡らせた。これすらも攻撃が避けられない。制御も防御も出来ないに等しい。これは、バレーナに触れた時点で勝敗が決まったに近い。


――強いな


 だが惜しむらくは、彼のことを知らなかったことだ。魔法調査に携わる者として、役員の制約故に出来なかった非人道さ。成る程、バレーナは一筋縄ではいかない何者かに飼われている。

 ただと、耳を澄ませる。自分の自然と荒くなった息。その他に、柘榴が命令そのまま待機しているが警戒の気配が濃い。魔力だ。魔力の針となって、こちらを睨みつけている。


「柘榴、下がれ」

「鶴亀……」

「死ぬぞ、逃げとけ」

「君、良いところあるじゃん」


 そして彼は、数秒後に歩いた。その足音がした。

 となると、この状況において彼は今自由の身であることは確認できる。だが彼は自分と同じように凶器が側にあるはずだ。普通なら、殺すつもりだったら自分の仲間である彼も拘束するかその場で叩きのめすだろう。


――任意での成長が可能


 それは瀬谷が制御しようのない、驚異だ。だが何故それを振るおうとしない?


 どこでも、どんな時でも感染者には容赦なく持ち主の裁量によって死を与える。たとえ雌蕊の愛紛であろうとも、そこから生殖を初め肉を穿つ。これは自分でも予想出来なかった驚異だ、故に興奮するが、故に所有者はそれを使って操る元締めに近い。それが分かった以上、持ち主の不利益を叩き出したバレーナをすぐにでも殺すことは出来ただろう。

 自分が仮にこの能力を使って隷属させたら、失敗したバレーナを間違いなくそこで殺していた。部長というイレギュラーがいたとしても、瀬谷鶴亀という末端に手が渡った瞬間さっさと皆殺す。その持ち主が記憶を吸い上げて、空っぽの青年を再利用しているとなると、冷酷性も頷ける。だとしたら、部長がここに持ち運ばれた時で殺し屋の運用方法としてはおかしい。


――いや


 そもそもだ、バレーナの手を使うまでもなく、松山を暗殺することは十分に可能だ。植物を使った能力、魔力を糧にするだけではなくて水なら、松山にも適応する。自分ならば食道ごと破壊するが、彼はそれをしなかった、彼は諦めて逃げようとした。その行動はおおよそ暗殺目的には考えがたい。

 だとしたら、今ここで死に瀕する違いとは何なのだろうか。彼は部長と自分の会話を聞いた上で判断した。となると先程の会話が二手の是非を一つに絞ったのだ。

 思い返す。自分は、そう、部長に向かって嘘というリップサービスを施した。そして彼は「やっぱり機関か」と唾棄をした。それは、機関の本質と理念を再確認した諦観。「情報という道具を扱う組織」への諦めになる。だが彼は殺しに及ぶことはない。


「なあ――」


 お前、 殺すことに躊躇する、死を情報の終わりと嫌っているのか?

 そう言いかけたが、方向からの視線が熱い。物理的ではなく、殺気と同等に濃い戒めの気配。一蓮托生の柘榴には自分の考えていることは見通しているらしい。尋問は、お前ら魔法使いには理解出来ない領域だと代弁している。論理思考ロジカルを司る海綿体は衰弱している。なら、これは根幹思考ラジカルの発揮。勘よりも信じられる確信だ。

 だが持ち主の「殺せない」は、いささか真実に近い。凄絶なドグマか病的な強迫、そういった異常さでなければ不可解な行動は産まれない。自分は本有の健康体であるから、そういった人間を知らず知らず傷つけて状況を悪化させるのだろう。


――なら


 ならば、神秘の力マジカルに問うまでが適切だ、魔法使いとして同じ線に立つものとして。


「――瀬谷鶴亀、26歳、誕生日2月22日。有屠人货肉归,日已暮。歘一狼来、好きな食い物は柘榴の作ったやつ、瞰担上肉,似甚垂涎;步亦步,尾行数里。嫌いな食い物は植物の柘榴、屠惧,示之以刃,则稍却;既走,又从之。身長は174cm、体重73K屠无机,默念狼所欲者肉,……机の上にあるのは新聞だ不如姑悬诸树,而蚤取之。一面に、KARASHIの解散遂钩肉,翘足挂树间,示以空担。……KARASHIってアレか、狼乃止。屠即竟归。デビュー直後シースルー衣装来てたやつ昧爽往取肉,遥望树上悬巨物,似人缢死状。

「何のつもり?」

これが俺だ、正直紙じゃ心許ないだろ。大骇。逡巡近视之,则死狼也。機関が嫌いそうだけど、お前も同じように仰首审视,见口中含肉,情報だけで俺を知らなくちゃならない。肉钩刺狼腭,如鱼吞饵。俺自身も身の上を話す必要はある时狼革价昂,直十余金,屠小裕焉。


 出血量は多い。少なくなったから失血が小出しになるくらいには、同しようもないくらい皆外界に勢い良く飛び散る。バレーナの奥の外から青空が見える。この平日に、こんな天気は、食事処のかけ蕎麦が美味かったなと物思いに耽る前に出血が蕎麦状に逃げるのだ。

 だがそれよりも前に、著作物は引用できる。ぱらぱら、昨日流し読みしていた古本をそらんじて、引いた血潮の上で唄える。半世紀も閉じ込められた印字の黒が虚空に舞う、その悦びをまだ識っている。


「――まあ、話すこともなかったな缘木求鱼,狼则罹之,可笑矣。


 それはとにもかくにも、清々しい頭によく効いた。

 思い切り根本を巣食うであろう、バレーナの腹部に手を突っ込ませる。違和だが、腹上に波が生じてそこに自分の腕が入り込む。


――恐らくは


 彼は松山の暗殺がどうあれ、遠隔でするには人を介する必要がある。有機物でも構わないだろうが、有効に使う手段なら人間だ。そして一人の人間を拠点として、花粉を使い自分の意思で飼育することが出来る。

 その仕組みの可能性としては考えられるのは、転移魔法の座標を本拠地とバレーナに固定されている。それを手繰るように逆探知させ、本体を引きずり出すのは手だった。不意を突かれたか、ようやく体内の蔦が暴れだして内臓へと刺し向こうとする。それは正答の意を表すが、遅い。


――遅すぎる


 刺される前に手から無理矢理何かを取り出す。同時に、半身を支配されていた侵入者の威勢が一斉に消え失せた。ただ純粋で鋭敏な痛みだけが残る。手にしたものはその本機らしいが弱々しい、自分が何をするまでもなく、枯れた乾きを見せていた。


――その何かも、見ねえと


 視界が、暗転した。

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