3

 夢で穴に落ちて、急に現実に引き戻される、刹那の喪失感。それと似た胡乱が、身体を襲って夢へと翔び立った。

 肢体、は、感覚はある。逆上せた気怠さを干上がって、服も及川が用意した寝間着ではない。学ラン、それはかつて、いいや、まだ今でも日常のシンボルであってほしいもの。夢の主は、これの方がお気に入りらしい。


 薄く目を見開く。椅子、やわらかい、革張りの、ソファに座っている。その向こうに、馴染みある顔の化物がいた。それは化物と示すような特徴も、恐怖の代表格もない。

 柔和で、闇を知らない、今までの穢れを蹴落とした金の髪と、青い目。誰からも愛されることを知って造られた目、嘘つきの目だ。本物には成れないから他人の誤謬も理解する。そして他人の本物を砕き壊す、その欠片を沈み込ませた海底。深く優しくて、恐ろしい色彩だった。

 その目に何度射抜かれたことか、だが慣れか足が立ち竦む様子もない。何故だろうか、自分を人魚姫だと勘違いした泡沫だろうか。余裕綽々と躱すわけではないが、落ち着いていた。捕食される間と、よく似ている。足を組んでいる彼の傲岸な所作が、これがいつものだと教えてくれた。

 そしてこれは夢というよりも、もっと意識的な、だが形而上に限りなく近い空間別名:植物の人間が陥る部屋だとも知っている。彼はこの中にまで自分の内部を侵した。目の前は彼の象徴ではなく、そのまま本体から先割れた一部はそこにある。

 悪夢ではない、最悪ではあるが。


「俺の親でもないから報告する義務もない」

「彼に嫉妬するよ」


 この空間は便利だ。彼は現実でやる方が好きというが、現実には何も起こりえない都合の良さを心得ている。今回のような暗闇の中もあれば、ガラクタを詰め込んだ驚異の部屋ヴンダーカマーとなることもある。全ては彼のみぞ知る場所、彼だけの気ままな、執行部屋そのものだった。


 向こう側、長い指でひとつ鳴らせば、部長の奥から影が形を宿り貌を成した。国内の男子高校生の平均身長、白いワイシャツを対照にして、けれど艷やかな黒髪。ここにはない、底が噛み砕いて嚥下された垂涎される中天空の双眸。自動的に、こちらを見て笑顔を分け与える愛想の良い、及川のような何かだった。

 たちまち、それは部長の方へ目を細めた。慈しむ、情愛を孕んだ瞳孔で見たことのないはずの男に向ける。後ろからそっと、ソファから身を乗り出しがちに、悪戯気味に。

 青年になりかけのほっそりしたあぎとに、部長の指が絡める。彼は、本物ではない彼は細めた瞳孔の奥から本能を炙り漏らす。陋猥ろうわい、せせこましい枷が外れた淫蕩を滾らせる。


 それを下方へ、瞳を更に部長の方へ――たまらず、彼らの方へ駆け出した。

 そのまま迷わず、ソファに向けて直進する。だが夢の不条理を兼ねた世界では家具をくぐり抜けて、手は及川の首を捉えていた。不自然な急降下に乗られ、揺られて膝をつく。吸い付くように及川の首に手を這わせた。


「及川薫には意味はない」


 その首を、締め付ける。

 黄色人種にしては薄っぽい彼の肌、一枚隔てて潜む赤と青の生脈。それらが人間と錯誤する前に強く、隠しながら締め付けた。鼓動が、締め上がりヒキガエルの如く呻吟を漏らす。くゥと、本物を似非た高い声で。

 それでも力は緩めない。これは、よく出来た造物であって、人間ではない。


「これはただの道具だ、アンタが思っているよりずっと、俺にとっての価値はない」


 では何故、自分は彼の首を締め付けているか。それは、及川薫の真似をしたから、穢らわしい手で誘惑したから、それ以外の理由が必要だった。そう、単純に、簡単に殺せるくらいは何とも思っちゃいない。その有象無象に対するインモラルでまやかさなければ、彼は及川に触れられてしまう。そして自分と同じように、及川薫日常化物非日常によって砕かれる。


 ――いやだ


 だとしたら殺め続けた方がマシなのだ。詩的に言うならば、醜くなる最上の美のために。倒錯的に言うならば、醜くするのは自分の役目である為に。

 絞殺に虚弱な学生の腕では限界があるが、及川は無機物の無味の表情と化す。それでもなお、眼球の湿った角膜にはハイライトを宿していた。

 それはここで照らしてはならない、生きてはならなかった。力が加えられる。彼はあるべき姿、太陽の下で輝いた方が望ましいのだ。ここで発揮されるべきではない。

 手の中に収めた命は悪趣味か、影を宿しては学生の握力から思えない破壊が中から響く。ごきりとぼきりをミックスにさせた雑多なる死の、作り物地味た死。偽物が口から涎代わりに垂れ流しても、殺した、という自覚があまりないのは救いだろう。  


 忽如、それまでなかった医療用のメスが一本、床で転げ回る。片手で取り上げ、刃を指に当てる。ほんの少しの冷えた一線、そして熱く宿る傷。だが夢の中では血を垂らせるには至らず、直ぐに指は修復された。


「何、夢と言うのは不条理なものだからよくある、続けて」


 後方、それも直ぐ耳元に奴はいる。振り向く前に、心臓が鼓動毎長い指で鷲掴まれる錯覚に陥る。後ろを振り向いたら、もう駄目かもしれないと、メスを及川に突き立てた。彼は人間的に、血を出してくれる。その都合に甘んじて、まずは彼の目を二つとも潰した。温かい遺体は受け入れる、眼孔というスポットから、脳を探り掻き乱さんと棒代わりに掻き混ぜる。水音、苦痛を滾らせない音が万遍なく頭蓋の中で響いたら深く突き入れたメスを取り出した。

 その後ろ、部長は含み笑いをして遠ざかる気配を感じ取る。距離、間のある空間にひとまず安堵の息を漏らした。その余暇に、まだ無事だった片目を刳り貫く。手は震えていないが、血管を千切る音はやけに物っぽさをまとって、死体は物だと感ぜた。

 出来心で瞼を閉じる、それは安らかな顔をした。


「夢とは大体シュウチャクが見えるものと聞いている」


 返事をするようにして傷をつける。いつしかその動作は、強いることで一度きりの覚悟で慣れてしまった。脳はある程度破壊されたと、刃を目から喉へと移す。


「シュウチャク、執着fetish?」

終着finishだ。それは夢を叶えたり、あるいは死だったり、色々あるらしい」


 化物は、頭の中は整然として悪夢はおろか夢を見ないらしい。当たり前のことを喜々として語るだけで、自分には何もしてこない。だから人は大好きだ、愛していると、論理的ではない戯言を飽きずに繰り返し唱えるだけ。

 お前には関係がない、何も分からないと返す代わりに、返事もせず喉を刻んだ。刃こぼれのしない器具を、自分のプライドだと縋ってひたすら。文芸作品で咽頭切開の自殺未遂で苦しんだ男がいたが、及川もこの冷気を堪能するだろうか。


 ――及川、違う


 いや、理解してしまっている。喉で花を散らした上で、安らかに彼は眠っていた。何も、怨恨の意を出さない、そこには受容のものとしか顕れない。目を開けたら、綺麗な目で自分を見据えて、おはようと言ってくれそうだった。


「レンの考える彼はそうなのか」


 救われただと、思ってはならない。すべては無知ゆえの白痴でもあるスッカランの物だと、部長に教えなければならない。


 ――早く


 早く証明しないと、自分が殺める前に壊されてしまう。その恐怖が何よりも耐え難い。醜い支配欲そのものだが、美しく生きる方法など何一つ知らなかったのだから。

 崩す、くずす。

 次第に不条理の床は様々な物を及川の周りに並列させ、金属片は鈍い鏡面を、木製は朴訥を見せる。その中から一つ木槌を奪い取ると、頭部を粉々にせんと砕きに入る。これもまた、孱弱せんじゃくな腕には反して温厚に壊れてくれた。軟骨が下に潰れて、顔の原型を留めないほどの殴打。


「次だ」


 いつもの声が、いやに高いその声は心なしか悲鳴のトーンに似る。それに勘付かれやしないかと、紛らわしに手で顔だった肉を殴りつけた。


「次をくれよ、これで分かっただろ」


 黙って、部長は指をもう一度鳴らす。長さを誇示するかのような物だ。その指先が、それが、数多の人間を柔らかい肉のうちに犯し続けていた。

 指鳴らしの合図に肉は床に沈み込んで、ただ一つの波状を描いて消える。

 自分の頭上に、隻影。次は前回にはない、喉を用いてレンレンと呼びかけた。


「勿論、焦らなくてもここは長いぞ、とてもな。何かを決めるまでは終わらない……私はそれまで、君の望むものは与える」


 それは、本当だった。決定的な道の上に、常に部長は立ってそれから導いていた。岐路に及川が佇むことは一度だってない。まずそうなりうる場合を、自分が排斥しているからだ。


「君はよく動揺すると手が震えるな、それは迷いではない、君は普通の人間で子供だ。死からは遠ざかっているから慣れていないだけ」


 ふわり、綿菓子のような軽さと飴細工の甘美を持った声が手と共に重ねる。震えていたらしい、だがそれを悠然と少し笑っただけで、手にした刃物を握り込ませた。

 背中から、男性的な硬さが分かる。それはいつ倒れても支えられると豪語できるほどに、身体を渡せてしまう。

 

「二度三度突いて見れば、肉は果実によく見える。そこまでして綺麗に見えるまで刺すのも、死体は肉だと踏み躙るのも構わない」


 彼は急に握り込ませて、及川を傷付けることはしない。丁重に、花弁の一枚一枚の染め上げた色を確認する繊細さで宥めさせる。自分が力を篭ってしまえば、すぐにその手を離して、見守ってくれる。


「君は笑うといい、その方が落ち着くだろう?」


 もう、誰が優しいなどと皆目検討は付かなくなっていた。


 ■


 心拍数が落ち着いて、やがて血の臭いが匂いと判断を換える頃に、現実から還った。

 アレから、どれほどの及川を手にかけたか分からない。何体かも、どのくらいまであの紗幕の奥のくらやみに見を投じたのも定かではない。それも関係ないだろう、あの部屋で何年と時を過ごそうが、ここでは数時間ぐらいしか進まない。


 はたと、現実の笠井蓮の記憶が蘇る。そう、及川の家に泊まりに行って、自分はのぼせてとろとろした体のまま寝落ちた。

 今は、寝台の中、寝息を立てる、及川の真横で寝かされていた。深夜は、群青を部屋に灯すからもう明けるのだろう。それでもなお、及川の眠りは苔生して、起きた等と知らない。

 手を伸ばした。幻嗅、その手に何度もまとわった不穏を、まだ張り付けさせながら近付ける。手の甲に、か細い吐息が撫でた。


 ――薫


 その手で、何度も手にかけた。

 その感触は幻でも覚えている。ありとあらゆる、辞書で検索すれば出て来る殺法を用いた。その安らかな顔を苦悶の表情に塗り替えた。どんなに綺麗な顔でも、皮を剥がしてしまえば醜い血管と肉の集まりだ。笑顔はみな、表情筋というメカニカルな統制で成り立って、下らないと思えてきた。眼球の裏も知っている、もう及川の身体を知らないことはない。

 やっとそうやって、及川の価値を極限にまで分裂させた。秘密のない物に価値は軽くなりがちだ。そうなるように、自分は何度だって、何百回と挽肉にした。及川の死については、もう羽と同然だった。軽い、あまりにも軽い。どの角度から見ても瞬きの内に魂の栓が抜け、心臓が椿となって綻ぶか、会得した。感情というディティールに囚われず、機械的現象のみを見定めた。それだけを見れたなら、後はひどく楽な作業に過ぎない。積み重ねた肉の山の中で義父とまぐわった、正常に興奮してある程度の悦びを見出した。


 ――香


 及川薫も、及川香も、自分はどう思ってここまで来てしまったか知らないはずだ。

 それで良い、それで呑気に構ってくれないとやきもきしていればいい。それでしか、彼は生きられないのだから仕方ない。手を伸ばしたその腕は、眠った彼には容易に周り込める。何をして汚れたか分からない、証拠すらない意地汚いそれを知らない。やがてそれは秘密になり得るだろうかと、甘美な妄りを想うままにしてくれる。


 ――薫


 及川は、そのまま安らかに眠っている。

 絶好のチャンスであるはずのこの状況に気付かないまま。彼の呼吸音が、肺から喉に伝うやわらかい空気が耳元に伝っている。そこから流れる、少しの息吹と生命と、同じ洗髪量の香りを鼻先で掠めた。潰されない鼓動が、奥底で蠢いて、自分は情けない青白い肌をすり寄せた。些細で弱い、だけどそこにある。

 その儚さを利用するように、くちびるがわなないた。二文字だ、だがそれを言う資格はない、それを唱えることも、その意味を識る術を忘れた。振動を成せず空を掻いて、決して伝わらない。夜闇の夏の野良猫よりも、分からない。それでも彼は穏やかに眠るのだから、その現実が心地良かった。

 時間は、まだ深夜の明け方か、薄ぼんやりとしか見えない。霞んで映る青の情景は、及川の瞳とよく似ていた。朝焼けの、いろ。彼は夜の色を知らない。朝のために生きている、その眩しいからだがここにあって、汚らわしい自分はそこに擦り寄っている。

 それはとても、幸せだった。

 自分は最低だと、唾棄した。

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