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 激しい一日だったと、そう思った。

 入浴剤、ミルク風味なのか複数のハーブを調合させて濁らせた白湯に、肩まで浸かった。及川の叔母は化粧品メーカーに勤務しているツテで、試供品をよく貰われるらしい。

 今日の入浴剤も、薫達の記念だからと入る間際に頂戴した。自社の誇る高い品質を維持した上で、安価を維持させるPB商品としての共同企画商品。一般のOLが平日の小さな贅沢を楽しむ為にと開発されたそれは、フェミニンを醸す。


 白磁で滑らかな肌を彷彿とさせる、みだらさを排した安楽の香り。編まれた芳醇は何かと、開封した小袋の成分分析を眺めた。薫衣草ラベンダー迷迭香ローズマリー天竺葵ゼラニウム。ハーブとしてよく用いられるそれらに納得し、邪もないと陰りのない浴槽に持たれた。

 白濁が、純白に代わる。時折大仰に天井へと昇る抽象を描く湯気は、血の登った脳に幻想を与えていた。見渡す限り浴室はコンパクトに小さい、165の矮躯でさえも少し膝を曲げてしまう。

 薫の養親達は時々共に湯入りするらしいが、それが相方には困っているのも頷ける。そしてそれが、やたら湯が減っている三番手の薫が迷惑がるのも分かった。ここはとても、一般的に小さい。乳白色は、温かかった。


 ――忙しかったな


 終礼直前、及川薫から公然と宿泊を求められた。電車で詰問した結果、香の動揺とそれを利用した下心で追い詰めたかったらしい。中途、別の方向で帰る西側の都会人には、東の柔和が足りないと詭弁を宣っていた。そして電車内でも過剰に擦り寄ってきた、頬は暖かかった。目には脳幹まで、歯には顎までの倍返しも大弊だった。

 及川の家は学校と直近の駅から私鉄沿線に乗り五駅、徒歩15分ほど市営住宅を抜けた先にあった。築三十年ほどの一軒家、飼い犬の何に怯えているか分からない吠え声がよく聞こえる場所。


 薫は家に入るなり、夕食を準備をする素振りが見えたが、料理を作ると知ると苦い顔をしていた。手漉きであるのと、不味い飯を食わされるのは御免だと手伝いに乗じた。丁度主菜の青椒肉絲に甘辛いタレを加えて炙った頃に、養親が帰宅して会釈をした。ここまでは、時間が緩慢だった。

 というよりも日常に近い、一人で食事を作るのは慣れていたからだ。及川は傍にはいたが、包丁を持つとまな板一点に絞られて不思議と安心する。


 養親、正確には薫の叔母と、その相方の田辺は二人して可愛いときゃあきゃあ言っていた。嗚呼、これは生活的異物だ、人生で関わることのない邂逅と思った頃には遅い。食卓では常に目線を合わせられ、矢継ぎ早に女史達から質問を浴びせられた。喜楽に満ちた視線で、いつどこで会ったかのスタンダードな質問を繰り出す。

 人見知りの口下手と、事前情報変わらず歯切れの悪い答え方をする自分に気を悪くせず捕まえ続けた。とにかく、聞いて、話し続けて、たまに田辺との逢瀬の話をしだして、その繰り返しだった。情報量としては田辺達が知り得た薫達との付き合いよりも、こちらの田辺達との睦が圧倒的に多い。それほどに、聞く耳と語る口が絶えなかった家庭だった。


 それと同じくらい、彼女達には息子同然の子供が、あれだけ言っていたカレシが現実にいた。それが何とも嬉しかったらしい。親心としてか――と言うよりも、青春を思い出すと勝手に共々よろ酔って泣き出していた。片方は非血縁関係のはずだが、その様は及川の親だと知るには十分だった。精神的な回復も無理はない。

 そうやって、団欒で夕飯を終えた。折角作った御数が冷めるほど、食べる為以外の意義を与えられたように長く続いた。最後に冷めきった豚肉を口に入れたが、どうしてか不味く感じられなかった。


 ――すごい疲れた


 再三、湯船の中で内心唱えたかもしれないほど疲れている。嵐の如く、と形容した方が相応しい、出来ればもう止したい程に疲れていた。このまま上がり、寝間着に着替えたら及川の部屋に行かなくてはならない。その先の、つまりは色事を彼はすることはない。

 多少の願望があれど、おままごとであのザマだ、その覚悟もないだろう。布団に入ったら、軽く触れられる程度か、その検討はつく。おかしなところで彼は怖がりだ。恐らく適当に触れて幸せなところ、事故で直に背中に触れると謝り出す。その叙景はよく想像出来た、そもそも出来るならばまず入浴を所望する。その提案すらないのだから、泊まれという告白も本人にとっては大胆なものとして相違ない。

 と、なると、脱浴に待つのは鬱陶しいくらいのいつものスキンシップだけだ。それが億劫で、出来れば誰かが心配されるまではここに居たいが、どうしてかこそばゆかった。入浴剤の、天に昇る華の替わりに、こちらの花か何かが弛く咲きそうな。そのむず痒い気分を抱いていた。


 ――浮かれてる


 及川のことをからかえない程に、浮かれているかもしれない。笑うことはあまりなかったが、それでも頬肉の筋が少し緩くなった自覚はある。

 その意味でも、及川とすぐには同衾したくないかもしれない。いや、そもそも好きでもないから添い寝は望んでいないのだが。


 脳が、ゆらついている。その不意を食って、指がいたずらに大腿に触れて――小さな痛みが走った。


 鬱血の、くぐもった痛みだ。


 その痛みから、暖まった身体の背筋が痺れて、芯から急に冷えだした。花の芳香は、縫い合わせた造花へと遷り変わる。気持ちが悪い、急激な寒冷に身を縮めるが同時にそれは悪手だと気付いた。鬱血痕は小さかろうが青痣だ、温まって赤らんだ肌からよく見える。


 ――違う、血行が良くなって消えるのか?


 その知識すら覚束ない、燃え焦れた現実が刺さる。みっともなく溺れることも許さない圧を、どこからかの圧に気圧されて、痣を掌で覆った。そこは局部にかなり近い、際どい位置にある。

 運悪くぶつけたとは憶えさせない、それを記憶して、臆している。それまで、この脚に口付けるまでどういった手が脚にしがみついたかも。長い指だ、それは闇から這い出て、自分の肌に馴染ますように沈み込ませる。その指は均等に、薄紅の肉を魅せて人間だと欺き笑っていた。

 その指は、この白湯によく似ている。だがそれはひどく浸食した。内部から食い潰す前哨になった。


 ――長湯しすぎだ


 いつの間にか息が上がって、まともに寛ぐことが出来やしない。

 どうやら興奮している。性的、というよりも体温が上がって思考能力が低下している。

 普通に考えれば、今考えても彼はここまで自分を脱がすことは有り得ない。彼は、奴はここにはいない。痴態を見せることも、絶対にないはずだった。


 だがほんの僅かに、腕をもうないはずの痕がぼんやりと見えてしまったのは何故か。その答えを探る前に、浴場を抜け出した。目を瞑りながらバスタオルを手に取り、体中の水分を拭き取った。

 躰を見ることは、どうしても出来なかった。




「――大丈夫? 水飲める?」


 気が付いたらソファで横にされていた。

 様々な入浴の香がまぐわって、上空で散らす。その上から覗き下ろす女性、短く刈り上げた栗色で細い顔立ちの、田辺が見つめていた。


「……あの、すみません」

「大丈夫大丈夫、お風呂熱かった?」

「いえ、長湯しすぎて……薫は?」

「すっごく心配しててやかましいから、上にね」


 上にと、彼女は親指でジェスチャーを送った。落ち着かせたの意味が強いだろうか。及川の性分なら心配ですぐに問い詰めるはずだ、小突き回しという手法で田辺に宥められたのだろう。

 上体を起こすが、まだ不安定のようでそれだけでも息切れを起こす。田辺に身体を押されただけで容易く、また横たわった。どこからか引っ張りだした扇風機の冷風が、微音と同じ程の細やかさを与える。クールダウンを進めている。

 冷えた思考回路が、純粋に動く。

 彼女、田辺は薫の養母として心配そうな目を向けていた。水も飲まず無言だけでは、彼女らを心配させかねない。


「及川って、結構強引なので、部屋に来るなり……その、色々なことが起こったら怖くて、長湯して」

「薫達にそんなこと出来ないよ、あの子ビビりだから」


 辿々しい喋り方だが、療養の体だとすんなり通るらしい。明朗に答える彼女に少し落ち着いたか、上体を起こして水を飲む。

 まだ千鳥足の気配がある足を、そして湯がいた半身をソファに沈ませて、喉奥の清さに酔った。


「とりあえずやるなって言っちゃうから、その間にゆっくりしてって、コップもそのままで良いから」


 どうやら及川の強引さは遺伝だった。生来快活そうに見えて気前の良い田辺は、笑顔を絶やさずに白い歯を見せる。流石は及川薫の親らしい、この親あってこそあの子供なのだろう。


「……あの、俺こうなっちゃったんですけど、すごく楽しかったです」


 楽しかった。他人であるのにも関わらず、不思議と、あの忙殺はどこか心地良かった。及川薫と香は、この家では当たり前のことなのだろうか。

 もしかしたら、これがよそ行きで、普段はもっと騒がしくて、何も起こらないのか。聞いても仕方ない疑問が飛び交っていた。


「私も、蓮君の料理美味しかったし、お義母さん呼びでも大歓迎だけど」

「それはいつかで……」


 そしてそれは羨望にも憧憬にも彩られる。それを噛み締めながら、手を振る田辺に返事をして、一人リビングで冷水を飲んでいた。

 喉奥に通る冷水は、思った以上に喉に刺さり現実を掘り返していく。

 鮮やかに聞こえる、扇風機のモーター音、慌ただしい階段の昇降。及川の叔母が使っているらしいシャワーに、あんたねえ泣かしちゃ駄目だよと、諫言が割る。


 ――ビビり、か


 それは自分でも分かっている。

 彼は襲うはずがない、こうでもしなければ梃子でも動かないのが笠井蓮だ。誰よりも優しいから何も出来ないことは見ていてずっと分かっている。田辺が何も言わなくても、ずっと知っていた。興味ではなく、理性的な推測で、すぐに分かっていた。

 そして、この後の行動も分かる。

 田辺は自分の言伝を伝える一方で回復したと言うだろう。そうして次に、やや落ち着かない足音がここにやってくる。


 ぱたぱたと、ぱたばた。

 そして直ぐにここのドアを開ける。開けた。


「蓮……」


 浮かない顔をしてここに来るのも分かっている。何一つ知らないのは、自分はどうやって接するべきかのみだ。その顔を以て、どうやって落ち着かせるかは分からない。何でもない以外に、安心させる方法を知らない。


 自分には意識の覚醒しない方がまだ幸せな、だけど薫には幸せだろう。

 言葉の代わりに、無理に身体を立たせて、及川に寄りかかる。都合良くリビングのドアの近くだから、薫は頑丈な壁で受け止めた。


「ごめん、寝かせて」


 腕が、想像していたよりもほんの少しだけ細い。それでも、あの時抱き返されずに知れなかった虚と比べれば十分に満たされた。


 意識が、どんどん落ちていく。瞼が、仄暗い赤を示して直ぐに、暗呑の黒へ。


 やがて。


「――ワンじゃなくて、私に連絡すれば良いのに」


 暗闇の中で、あの男と相対した。

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