4
一体全体、食品添加物で培った貧弱な烏肉から何を得たのか、偽柘榴の腕力は力強い。ただ考えなしに俵抱きにしたせいか、一度ドアの縁に顔面を激突して眼鏡を落とす。痛みと塵埃の臭気で鼻がにじむ。その後小人が拾ってくれたが、やけに大きな瞳が哀れみで潤んでいる気がしてならなかった。
不体裁だが、連行されることを足が予期したか、必死に藻掻くことを止める。やがて人工灯から自然灯、目に優しい日向からそよと朝食の香りがした。正確には、温め直した物惜しいやつ。大胆に切り分けられ、フォークで突いてやれば筋がほろり解れて明日に思いを馳せた牛肉。よく火が通って舌で簡単に崩れるあかるい人参。スパイスが強くて雑味が出ているのがかえっていい、他社メーカーを混在させたルウ。野菜補給にプチトマトを添えられたが、酸味のさわやかさにもう一口含めて〆としたかった。
リビングの奥から次第に金属音がする。規則的な掻き込み、杓子と鍋底をぶち当たらせた非情。
「見てや鶴坊、この子ぎょうさん食べはる!」
「ケツに目はないぞ」
そかと臀部の前で柘榴が呟いて、そのままカレーを器に流し込む音がした。いいや、音はないのだが、正確には声か、これが最後やねんなと決まった似非を弾ませていた。現主人の前に幻主人を連れ出す、この簡単な任務を偽柘榴は終えたらしい。バレーナと柘榴が位置するセンターテーブルに座らせると、大型と小型は煙となって消える。次いで大型から多量の烏の羽根と雑草が積み重なり、自前の眼鏡は上から乱雑に落とされた。
急いで取り返して装着するが、獣と青臭さが渾沌して人間らしくない。視力を元通りにしたら、モンドリアン柄の木枠コースターを下に敷く空鍋を目にしてしまった。深く、舌打ちの代わりに虚んな胃から多量の息を吐いた。
バレーナと言うらしい青年は、先程までの重体とは打って変わって人の物を貪っている。手足をガムテープで巻かれているせいか、代わりに柘榴が食べさせている。だがスプーンではなく杓子ごとルーと白飯を盛り付け、それを小さな口でどうやってかかぶりつく。よく見れば顔立ちは彫り深く、肌色は白人寄りか。ならばカレーは異国風ではないかと考えられるが、まあ当たり前だが柘榴のカレーを頬張っている。カレーは、確か藤咲は昨日から来ていないから相当量はあったはずだった。つまり相当量、食べられた。まるで水のように。相当量を。
「確認するけど名前は?」
一度頬いっぱいに噛んでから飲み、柘榴から用意された冷水をストローで啜る。一言で言えば高待遇そのものだが、何も主人より余所者に優しいのは今日だけのことじゃない。仕打ちに耐えて、心が麻痺してしまったらしい。
「Balena」
「日本語は?」
「少しなら、喋れる」
青年の身体つきらしからぬ、いとけなくたどたどしい日本語だ。バレーナ、地中海に面する古代と神の国の言葉では「鯨」を意味する。部長がコードネームと明言した以上は記号でしかないが、カタカナではなく流暢な響きだ。加えて、「喋れる」の「
「なんや外つ国の者か、俺は柘榴、妲己とかそれ系の危ういもんすたあで……関西弁系やんな」
翻訳に難題を吹っ掛けてくる侍従を横目に、柘榴については一言で
海底、その原因は二つの目か。普通に生まれ持ったものとは違う、一風変えた輝き。眼鏡を直すふりをしてこめかみに刺激を与える。視覚情報に魔力感知を付加すると異変は現れた。
青黒い動向の奥で細やかな気泡と魚群を捉えた。魚群だ、照明という暁に照らされぼんやりとしたシルエット体が、目の中で泳ぐ。そのまま波状が、角膜から涙として溢れそうだった。
――珍しいな
異世界の余所者が現実世界を行き来するようになったのは遥か昔。風土病とも言える魔力に、全人類が知らぬ間に適応した現在に、魔力を持つこと自体は珍しくない。だがこうやって体内に現出されるのは稀だ。実際は、感情が昂ぶった際は周りの、俗に言うオーラと似た状態で排出される。
――魚が、好きなのか?
そう瞳を覗き込むが、バレーナも首を傾げて目を合わせる。そうして視界が感知から開放されると、名乗れといった柘榴の後ろからの圧に気づいた。
「瀬谷」
「……瀬谷鶴亀、ツルカメって言うと怒るから要注意な」
座りながら、更に深く目線を合わせる。魔を視ない目でも、バレーナのそれは中に水槽を閉じ込めている。平素、それが理想であると誇るように、守るように。
「……どうして上司を襲った?」
「上司だったの?」
――何故聞くんだ?
引っかかる言い方だ。
靴の形をした青空とカラフルの国、マフィアが多くいることはよく知られている。高貴なる塩を運ぶ舟として、国内同業者とも関係を結んでいるのも少なくない。その線ならば、常套な方法で昇ったとは思えない松山にもその方面からの厄介は考えられる。故にその暗殺や襲撃を頼まれた下っ端が彼、普通はそうなるのではないだろうか。
だとすれば、その任務が失敗した以上彼が懸念すべきものはすぐにあるはずだ。それこそ今の状況下、呑気にカレーを食べる訳にはいかなかったはずだった。自分がバレーナの立場なら、拘束された時点で警戒をする。
「
「そうなんやって」
ダイニングにて皿洗う柘榴の声が飛び込んだ。バレーナの姿を見ても、特に目立った外傷はない。柘榴は元よりこちら側の人間だ、暴力よりもずっと静かに優しく、無情に情報を掴み取る術を持つ。読心術、それを使っても無駄だったのか。
読心を懸念した親玉からの対魔法制御。これへのハッキングをするのも、一苦労だが人間として、機関としての仕事だった。
「
「全く……いつの間にかナイフを持っていた」
「
「あれ甘いらしいけど美味いの?」
わずかに、口調が不満そうな物に変わる。魚に対しての愛好の表れだろうか。ただ十八番が展開されていることに、気付かないらしい。
当たり前だが、これが自作の特権のようなものだ。他愛ない会話をさも世界の大事に変幻させる、現代幻想ライトノベルの具現。彼はそれに気付かない。少し、甘やかな優越感に襲われた。
「
バレーナの頭蓋に触れて、脳への干渉を計る。
声に出すとまあみっともないが、詠唱は途切れずにバレーナから青白い電線が対外にきらめく。反応、エネルギー伝達の摩擦のような、残滓。許容範囲内だと、光るそれらを一蹴して掌中からの情報を飲み込まんとしていた。深く深く、先割れされた意識の片割れが、その氾濫に身を委ねていく。下手をすれば、身体を緩ませてしまう程に、呑まれている。
呑まれて、呑む。
青。
海へ。
碧い蒼。
揺蕩う月。
喇叭の様な。
弧をえがいて。
喇叭よりとおく。
さざなみたからか。
鱗のしろいひかりが。
朝をおしえるその前に。
ましろいぎんいろ尾鰭が。
夜を告げて岩でねむる前に。
彼は、とおく、憧れ、ちかく。
一匹のおおきな鯨に手を伸ばし。
そして、掴み、やがて、そこには。
なにも、ない。
なにも、なかった。
――ない?
海そのもの、彼の思考の海色を捉えたが、それに陶酔しただけで何一つ実用を得なかった。彼には彼にあるべき記憶も、制御された痕跡も残されていない。海へ抱く感情以外には、何も手応えを感じさせない。
――だが感情はある
感情は、先程の治療から殺意は感じ取っていた。往来大雑把と言われる自分の治癒から、バレーナは生存本能への危機と怒りを顕にした。考えられるとしたら、こちらの情報収集に支障が出る程度に海洋への関心が強い。
――いや、おかしい
そう、感情は、感情は確かにある。今まで見てきた結果、彼には人間としての喜怒哀楽は暗殺者として欠落してようがある。「欠落」と前提されるほど、あることが確約されている人間のあるべき姿だ。それだけはある。
問題はそれに纏わるデータ、記憶の一切を見つけられなかったことだ。何故彼は海に強い興味を持ったかの鮮明なものさえない。通常標的として与えられたはずの松山の資料を、読み込んだ断片すらない。何故彼は非合法に手を染めることになったのか。今までどこで生きてきたか、いつ髪を伸ばすようになったか。何もない。
第三者の介入によって記憶を失う機構か、試しに直後にバレーナと呼ぶが、彼は正常に頷いた。座喚く胸中を沈ませる。これ以上行くと、哲学とかいう難題泥濘に嵌る予感の気がしてならない。
――違う
第三者の介入が、記憶の制御しかないとは限らない。
自分なら、瀬谷鶴亀がバレーナの上司だったら、どうするか。一点にそれを煮詰めさせた。ならば松山は確実に殺すように指示をするが、仮定として殺し損ねた場合どうするか。松山を愛玩する部長に捕まると、確実に記憶を覗かれる。
――俺なら
ローテーブルに置かれていたナイフを手に取る。カレーの肉を切り分ける為に用意されたものだろうが、それをバレーナのシャツに切りつけた。肩から半身の腹まで一線に。歪な音を立てて、白い肌を露出させた。
その下腹部に、血脈ならぬ葉脈。皮膚の下で蹲り、やがて腹の上で薄皮突貫した花が、腹上にて舞い狂っていた。生々しく、黄色い花粉を飾っていた。
「……いつから生えていたよ」
それは本人さえも分からないと言いたげに、静かに首を横に振る。想像通り、別の物を使って記憶を吸い取られていることは分かった。となれば、これを使ってでの遠隔操作で有意識を装った無意識で、バレーナを操ることは易しい。今彼は、ハードディスクのデータを外付けUSBのSDカードに抜き取られている。その状況に類似していた。
――部長は知っていたのか?
いいや、疑問符にすらならない。彼は確実にこの事を知っている、深層を探る者として知らなくてはならない。アレは生きたにおいをしていた。長袖だから分からないといった間抜けたミスは有り得ないのだ。
それとも糊口をしのぐ為の新手のポストアポカリプスごっこか――否、それを盲信するタイプのストレンジ・マンではない。直接的な変態が部長だ。だが彼はこの異常事態を目にしていながら、当たり前の下処理としてここを頼った。
――それすらもバレーナは無価値か?
あるいは、無価値に包装された黄金か。
澱んだ気を裂く、見計ったかタイミングでスマートフォンからの着信音が鳴った。部長からだった。一連のトチ狂った行為を凝視していた柘榴に一旦面倒を任せて、リビングから出ていく。闇の篭る実験室へひとりはいる、湿っぽい、あの男の香りが淡く残っていた。
「――さっきは忙しくて言い忘れてしまった。そのま彼が押し黙ったままなら、首都に身柄を渡そうと考えているんだ」
これは、業務連絡だ。
忙しいから伝え忘れ、だが分かるはずのことをあえて伝える、演技めいた悪癖の一片。電話先の彼は、いつもの通り不機嫌さを何一つ見せないアルカイクスマイルを見せる。人を千人捻り殺しても乱れないネクタイの結び目と共に。
このまま何も手応えのない、無気味の青年と言えば本当に作業は終わるのだろう。ヨウの事実確認と同義で、片鱗を見出した感激を一掃させる機械的動作で終わってしまう。
部長の手にかかれば造作もない。だが部長が残した謎は、果たして自分が扱える程に全て些事たるものだろうか。
「部長の御手を煩わせるまでもないですよ」
それは嫌だと、愚直に食らいつく。
「少しばかり世間話をしたのですが……彼、我々の仕事に大変興味を持っていました」
嘘を言える大人になってしまった。嫌な大人だ。
「――時間もありますしここは一つ、業務案内でも。しばらく彼を貸してください。」
嗚呼だからこそ、こんなにも笑ってしまいそうな童心もそうない。
目の前の羽が、生ゴミが、きらきら光るインクの色に見えていた。
【一日目/午前編】了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます