【カサイレン/Cryogenic】
煙としては、肺の底まで満たす瘴気。香りとして、肺腑に嫌な疼きを与えるものだ。未成年の前では吸わないと言う自己ルールがあるらしいが、纏うけぶりを自分の物として着飾る。時には低音に乗せた毒として、時にはそれが大人だと安心させる偽薬として覚えてしまっている。
覚えてしまったのだ。家庭とやらが空欄の自分には仕方なく、そうやって埋める他がなかった。
図書室、その隅にある準備室からは、悲喜こもごも男女の姦しい声が聞こえる。その少し離れた距離に校庭があるからか、細やかに騒がしいそこは程よい意味のない雑談だった。静謐で満たされて、意外にも塵埃のない空間。簡易なパイプ椅子と机以外には、図書委員が日夜制作する本の紹介ポスターがダンボールに纏められている。その箱の奥にはいつだって、誰かがそこで読みかけたらしい文庫本がある。迷惑甚だしいが、もう興味を滅多に持たれない手動式スタックランナーからの物。それを誰かが一人読んでいると知ると、いつの間にか自分も手を伸ばして読み耽っていた。
今日は現代文芸らしい、「消失少年の窮地」という題名の文庫本。等身大の平和を送る為に、記憶を消す能力を使う主人公が、日常を脅かす非日常の謎を解く物語。活劇というよりも冬の冴えた冷たさを感じさせる、しっとりした作風だった。読みやすく直ぐに読み終えたが、奥底に儚さの様な読後を抱く。
やがてそれが木の虚の、果てしない暗やみに変わる前に学ランの内ポケットから物を取り出す。シガレット一つ、灰皿の横に置かれていた銀箱からくすねたものだった。水に浮ぶ吸い殻が、彼のいた奇蹟が寂寥と誤るより前に、布団に潜り込んで鼻先に匂い掠めて眠った。
それを暖かな日差しに当てながら、一口食む。硬さを備えたフィルターをやわっこい唇で潰して歪ませる。何も、刺激物は漂わないが、幽かに声を思い出させる。それを何度も聞きたいと縋ろうとは思わないが、自然に穴に水が張ったような一時の安楽が過ぎった。
そう、水。いつかは蒸発してしまうだろう水が、心を満たしていた。次第にそれは微睡みを
「……何しているの?」
寝ぼけかける眼を、問われた方に向ける。もう、司書でないなら誰でも良いと擲った身体の前に、及川がそこに立っていた。
何をしているか。思い出にもならないセックスと違わない刹那を味わっている。教育施設には似合わない自分だけの行為を、静かにしているだけと言えばいいのだろうか。それも口応えになるか、返答より代わりに何も言わず目を伏せて再度噛みしめる。風味が、何故か薄らいでいた。
「……さっさと終わらせなよ」
及川は気を利かせたが、無味の物を味わっても意味がない。目を開けてもう良いと、少し食い痕が残ったそれを口から離してポケットに入れた。
これは、普通に見れば非行行為なのだが、何故かそれを隠そうと必死になれない。及川が、及川がそこにいるからだろうか。やけに自分に興味を持っていて、恐らく図書室まで後を付けて、だが見つけても静かに諌めた及川を。
なるほど、一線を超えれば自分は誰だって良いらしい。
「それって何が楽しいの?」
「分からん、多分、楽しくない」
及川らしくなく、そこで会話が途絶える。いつもなら、楽しくないならデートしようなどと言うだろうが、気を遣われてしまっただろうか。及川の顔を一瞥する。いつも通り、自分より少し高い背丈をガラス戸付きの小型書庫に寄りかかっている。だが向ける顔は、笑みを絶やさないはずの顔は巫山戯ているいった風でもない。らしくなく、眉を下げた、それこそ気落ちした面向きだった。
何か気に障ったか、苛立ちよりも先に疑問と不安が混ぜ込む。その次に会話をしなければ、彼はこの部屋から、蒼穹ごと逃げてしまいそうな気がした。
「……前、俺に二重人格だって言ってたけど、今の人格誰は?」
「香、だけど」
及川は以前、自分が二重人格であることを告白した。いつかは分からない。脚色した事柄とも思えたが、今年の体育祭で紹介された彼の親は、同性カップルだった。及川姓は、養子縁組としての名字だった。
その前の家庭の影響らしく、養親側は区別が明確にあるらとのこと。
香、と自らの人格を答えた。ならばと、張られた水が湧き上がる。それに黒を足されたことを自覚しても、煮え滾る。薫ではない、香は別人としてここにいて、薫の記憶として刻まれない。薫と似たような声と、顔と、霞んだにおいをもった人間と会話をするだけ。それに妙な安心と、慣れた安らぎを感じてしまった。
「ん」
訝しげな顔付きになる及川香を手招きする。最初は首を傾げるが、やがてそのままこちらへ。座っている椅子の目前まで彼が近寄ると小招いた手で袖を引っ張り及川の体勢を崩したまま抱き寄せた。そのまま勢いで椅子が倒れても構わなかったが、及川が窓の縁に手を掛けたか至らなかった。窓にかけて伸ばされた手つきを見る、手首のくびれ、爪からかけての線に年熟を帯びる。未だ一つ、熟れきれてない薄紅の爪に口付けたいとはやるが、押さえ込んで目の前にある耳朶を咬む。
前歯ではなく、横にずらして鋭い方で。腕の中で及川は震えるが、声を出さなければ抵抗する素振りもない。黙って、その場を耐え凌いでいるか、強く咬むと背からわななきが伝わった。学ラン越しから、背のしなやかさがよく分かる。こんなものは自分にはない、こんな所にいるはずのない、優良の肉だ。それが逆に撓ったら、彼は忽ち狼から小兎に変わる。
惜しむように、赤子の軟さを持つ耳朶を齧る。血は出ない、何をしても甘噛みで終わりそうな弱さを持って、ひたすら。次第に何も言わない、それは受容というよりも怯えと感じるや否や、及川の黙りとした態度に疑問を持つ。
「これでいい?」
そう耳元で囁いてもうんともすんとも応えない。その態度に腹が立ち、もう一度深く噛んだ。それは貫かない、事が終わってもピアス痕だと誤魔化せるだけの鬱血としても、咥え続けた。
――これでいい
もしもと、あの上司の顔が浮かぶ。妥当な範囲での飼い殺しなら、遊戯としての余裕だとしたら、束の間に焦燥が滂沱する。それを逃すように、いや何かを乞う為かも、自分には分からなくなっていた。
好きなはずなら、何故腕を後ろに回さないのか。厭うはずなら、何故自分を突き飛ばしたり糾弾をしないのか。問い詰めるのもいい加減子供っぽいか、ただその所作だけ続ける。不意に垂らしたリップ音は、心なしか部屋によく響いていた。
■
それはすぐ数秒後、居場所を知った司書からの叱責により、それ以上の事は起こらなかった。幸い机が死角になっていた為か、何をしていたかの細かなことを彼女は指摘していなかった。
だが及川薫と称した彼は、直ぐに部屋を飛び出して何処かへ消えてしまった。
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