3

 自家用車に揺られて数時間ほど経過した。

 景観は色と形を変えて、生け垣に彩られた草花をただ横切る。都心から首都高速、そして都から下った先の、閑静な住宅街に来ているらしい。切り取られていない青空がよく見える。それを見ているだけでも目が眩んで居眠りは出来やしない。それに加えて隻眼であり部長の元教え子の青年が、率先して退屈な時間を雑談に埋めた。

 賀上は今や協会のとある家に仕えて、この仕事は部長との縁から頼まれたものだった。彼、賀上カガミは何らかの原因で不具と認定され、義理の兄と匿うように資産家の元へと奇遇。気の良い主人から、召使いとして再度価値を与えられた処に出会ったらしい。部長とは、その主人とは腐れ縁だったらしく、そのツテで知り合ったとのこと。その当時から部長は機関に従事して、賀上のようなリサイクルを気に入ってはいなかった。が、同属がここでも惨めな境遇なことに堪えたか、良き使用人としての教育を一方的に叩き込まれた。

 それがまあ苛烈かつ暴力的、今の状態を話すには気が引ける状態だったらしい。かくして折らなかった骨、呼吸するよりも心臓を停める方が楽と思うまで、肉体技巧を教えられた。そして賀上は、父親と比べて人として殺されかけたから、悪い気はしなかったと締め括った。


――正直困るな


 だが現実はどうだろう。その暴力性は瀬谷が暴走した時ではないと発揮されない。肉体労働を主とする自分に至っては、駄菓子のような毒にも薬にもならない甘ったるさ出す。一度も、いわゆる賀上が受けた折檻はされたことがない。

 あの落差が著しい日常を言えまいと、会話が途切れた境に手持ち無沙汰の目で資料を見返す。賀上は長い間を埋めるためだけの雑談か、それ以上話しかけることはなかった。喉が渇いたか、賀上はコーヒーを一口含ませた。


 松山からの依頼は東欧系企業に勤めている駐在員の護衛とのことだった。企業としてではなく、松山との関係での取引。丁度依頼者の彼はJulipからここに海外派遣され、一人暮らしをしているらしい。

 「Julipジュリップ」。東欧の某国に本拠地を構え、数年前に国内進出を果たし現在20店舗出店させた大手家具メーカー。

 商品としての品質向上と開発を重きに置き、高水準で安価かつ大量生産を可能にした。「Julip」という名は、創始者の故郷であり、弊社の前身を出店した土地の名物だった花に由来する。チューリップ、多年草のそれのように長く親しまれる物であれとのこと。だが名前を決める際に酔払い「t」を「j」と書き違えたが、響きの良さで決まったらしい。このことは倹約家でありながら酒好きの創始者のエピソードとして有名だった。

 依頼者のヨウ・イルディアドは、本社から派遣された在日駐在員として数年ほど滞在している。自宅は都内の高層マンションだが、懇意にあった創始者から郊外の別荘地を譲渡されていた。今回顔を合わせる場所も、その別荘地で、ということらしい。


――この時点で


 ヨウの依頼は、個人と交友関係にあった松山を通してのものではある。理由としては「少々目立つ容姿をしているせいか、強盗に付け狙われてしまうかもしれない」とのことだ。だが衣食住といいその経緯といい、おおよそ海外から来たサラリーマンが出来るものではない。

 ヨウ、しいてはイルディアド家は異世界の物体収集を活動としていた協会の端くれだったら尚更だ。ヨウは本家の三男坊で家督相続する意識は低いと資料には書かれている。

 だがサラリーマンからの護衛の依頼、その人間が明らかに度を越した資産を有した場合はどうか。月並みに言えば、メーカーや依頼者共々何かを隠している。それを資料に記載していない以上は、自分にとっては不必要な話でしかないのだが。


――それと


 もう一枚、本来は資料の冒頭に書かれていた紙を戻そうとするが、それっぽいフリをして終わる。そこにはヨウの出生とステータスが記載されて、写真も数点挟まれている。盗撮ではない、正規に撮られた写真、穏やかな笑みとしなやかな猫っぽい体だけよく覚えている。顔は、整っていた、こちらを向いて笑っているのだから、それだけで勘違いをしてしまいそうだった。それのせいか、捲ろうとすると指までも強張ってしまう。あまり直視することを避けていた。

 そうこう捲るか考えている内に停車され、賀上から降りろとおとがいを使い命じられる。下車してすぐ先には、依頼者ではない青年がこちらを見ていた。


「そちらが、や行何とかさん?」

「確かYはアルファベットだったはず……佐藤、イルディアドの手伝いさん」


 賀上の紹介により、佐藤は頭を下げる。ヨウとは異なる、黒髪で声からまだ若さを感じる青年。瀬谷よりも少し低い、170の背丈から上目遣いで見上げられるが、サングラスで瞳はよく見えない。小さくてうすい桜色の唇から、推定年齢はまだ10代後半か20代前半。アイボリーを背景にボタニカル柄を散りばめたシアサッカー生地のアウター。下に黒無地のインナーの軽やかな装いだ。手伝いというには仕事とはまた別に服装は自由なのだろうか。


「ボスちょっと忙しいみたいだから植物園寄ってきます? 賀上さんは?」

「俺はいい」

「付き合い悪い」

「そっちの方もある意味悪いわ、何とかしろ」


 イルディアド家は協会に属するが、ヨウは個人で機関の松山と知り合っている。その関係からか賀上の関係はあるか、多少同年代と気安く話し合えるだけ悪くないらしい。佐藤はむくれるが、そのまま賀上は車へと戻って行ってしまった為、そのまま佐藤に連れられた。停車した道は国道から外れた小道だが、左右茫洋とした草地と老朽した民家がよく見える。ここ、と佐藤が手を伸ばした先は小川を挟んだ向こう、背景に鎮座する山の真下だった。虫さされがすごいからと、佐藤の懐から虫除けスプレーを出す。この図体に対して気さくな対応から、その好意に肖ってほんの少し塗布した。

 囁くせせらぎの小川を渡る。相当都か、文明の普及が遅れた地にいるせいか、木造で架設され100キロを超える体が軋ませる。竦む足取りに対して、軽自動車よりはマシですよと、佐藤から茶化された。

 橋を渡り終えるが、人は依然と少なく、木の葉と風や川の切る音だけが広い世界で舞っている。それなのに暑い、不安定な気候の中佐藤はそれまでかけていたサングラスを外して額を拭った。


「童顔だからサングラス全然似合わないんですよ」


 苦笑して、佐藤はこちらに笑いかける。童顔と言われるが所以のそばかすが散りばめられている。兎と言われそうな赤くて丸い左目、右の眼窩には小振りの赤い花が中から詰まっていた。三つか四つほどの、野草の質素さに似たそれが、佐藤の眼窩を覆っている。右目の眼球は、よく見えないか何もない。


『……これはバラ?』

「よく似た異世界の花ですね。ああほら、ボス俺みたいなの引き取るじゃないですか、俺死にかけだったから移植してもらったんです」


 森の陰り、誰もいない道中に差し掛かっても佐藤の口調はあかるい。木漏れ日の暑さが温かみに化して、彼の声と調和する。さらりさらり、過ぎたことは小川の小舟のごとしと、生い立ちを綴られる。


――俺みたいなものを引き取る?


 それは松山から言い渡されていない、本来不要と排除された要素と考えられる。彼は異世界と明言した以上、それなりの経緯を辿ったと考えて差し支えがない。だが今の口振りは恰も、そのヨウの行動は特別でもなく連続的に行われている。「移植してもらった」から、ヨウの気まぐれで救われたとは考えがたい。以前から異世界を見知り、そしてそれによって救われると分かった上で、願望を佐藤が持っていた。その方が佐藤の文脈からよく分かる。


『もしかして協会の人?』

「協会だった、ですね」


 ふと、穏やかな声から抑揚を押さえ込んだ声色に変わる。その空気を感じ取ったことがある、それはあの少年が大丈夫だと仕切りに答える声だ。深夜の鬱屈を吸い込んで、吐く息を朝の光を溶け出す暗さを滲ませた空気。湿度が、どこか一層ジメついたものへと化した。


「でもそれより聞いてほしいのは、俺は佐藤イブって名前です」


 辛気臭いのが苦手な性分か、軽くこちらの方へ振り返ると笑みを浮かばせた。細める度、ほんの少し形が歪む目の花。まだ無事だった赤い瞳と熱気で赤らんだ肌が、彼を生きていると云う。特に、赤い瞳、通常では生まれ得ないそれは、人の血と見違う赤さが零れそうに閉じ込める。それでもなお、夜を知らない昼の光にさされてきらめく。光の影響か、奥に、薄い緑の陽が混ざって溶け込む。

 佐藤、佐藤イブは明るい性格だが、面妖だ。面妖故に、面妖を厭うからこそ人間の明るさを携えているかは、本人には聞かないことにした。


『ア行? ば行?』


 ば行だと、佐藤は微笑んだ。


 

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