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 純喫茶を設けたビルから左折、近くからのパーキングエリアの片隅にある自動販売機に向かう。そして、最下部の左最奥に位置するロングセラーのコーヒを二つ買い、自販機の上に縦二つ乗せる。これが、お互いに課せられた一種の暗号らしい。それは、あの侵入者がいても変わることがなかった。


 コーヒーは苦いから苦手だ。代わりにココアが飲みたくて、立てたそばからまた小銭を入れて買う。柔らかいショウウインドウのプラスチック越しに、自分の姿が見える。見新しい姿だと思い返して、ココアを受け取った。

 身長2m体重130k、体脂肪率5%、銀髪赤眼、傷のある顔、備考に体重に反して細身。これが今の自分のステータスだった。人間社会に溶けこむはずがないと言わんばかりのイレギュラーの群。今回は人に会うという体か、「なら見栄えの良いもの、他人が嫌悪を抱かないもの」と上司が設定した。


 紺のリネンシャツをトップに、ボトムスは対照に明るいホワイトジーンズ。そうすると白髪白皙の貌に輪郭を与え、二色の色彩が野暮ったく見えないらしい。

 オフィスカジュアルと聞いたら、どこからが部長がやって来て自分の身体を弄くり回すのがお決まりだった。君はタッパはあるが、種族として外見の肉付きは薄めだから虚弱に見えやすい。白髪に白い肌はサンプルとなる人間が少ないから、見立てが難しい。そう、頭にも浮んでいなかったことを我が身の如くぶつくさ考える男だった。

 考えることが彼の生き甲斐であり性分かもしれない。そして気紛れに、ベストなイメージとやらを立てた後は腕を掴まれてブティックまでに引き摺られる。昼下がりだろうが就業前かも関係がない。自分の言うことを聞くのがお前の仕事だと、腕から伝わる握が物語ってそれに負けてしまう。だが、横暴傲岸な振る舞いこそするが、逃げた所で不機嫌になることもない。それ以上にロクでもない目に遭わせられるが、腹いせよりも喜楽に怒りと哀しみを食わせているに近かった。怒りと哀しみを自分の物として置きたがらない。

 部下の服が合わない、気に入らないことを自覚する前に自分が気に入るように強引に弄る。そのくせ自分ですら気恥ずかしい出来栄えになると、何故か自分よりも彼が嬉しがる。時折、それは平時の人外らしい冷徹とは外れた、身近に感じる笑みを見せる。帰り際に散らせる柑橘のオードトワレが、余韻をよく引いていた。


 度々、彼は瀬谷や松山のことを手の焼ける者どもと溢していた。が、単なる世話焼きなのだろう。どんな人間やどんなものであっても、一度自分の物と決めたら徹底的に手を加えるタチ。

 厄介だが、結果的に彼の選択は間違ってはいない。つまりは、考えるだけ無駄な男だった。


 缶コーヒーを置いて数秒後に左側から白ワゴン車が一台、車道から歩道の境界ブロックへ乗り出す。フロントガラス越しだと見えにくいが、運転席キャブに腰掛ける青年の横顔だけは見える。それほどには青年の肌は明るく、横顔の曲線は鼻と顎にかけて滑らかに凹凸を描く。いわゆる西洋っぽい、黒っぽい髪から何を着ても困らなそうな男だった。やがてフロントウインドウが下がり、くぐもった青年の顔が現れる。だが特徴を得たのは嗅覚だった。


――淫魔?


 嫌でも分かる誘惑の腐臭、耽溺の死臭。倦厭するべきものと言うのに、共に死にたいと乞わせる毒だ。その毒は近くにいる。近付けば最後、その実を齧り付きたいか我が実齧り付かれたいかの雌雄に狂わされる。食欲と性欲を混同する種族、鬼に対して極めて害意ある存在。逆にその血に抗って抑制し続けている自分で、やっとまともに知覚できる。


「顔やばいぞ」


 青年が命令された合図よりも先に素になって自分の様態を伺う。それは淫魔として決まりきった誘いでなければ、本当に不味いものに対する対応だ。気がつけば、皮の下からこめかみにかけての濁流が激しい。どろどろ脈打つそれを、まずは身体全体を沈ませようと口を開いた。


『ごめん、君達には慣れていないんだ』


 自分の舌は既に切除されている。

 人間の体は脆い、半分にも満たない面積が削られるだけで、まどろっこしくまともに会話出来ない。代わりに舌の根に別の舌を縫合され、代わりにそれが言葉を発することが出来るように造られた。瀬谷が山の神と勘違いした人外の舌、完全に自分の舌として扱えはしない。

 だから瀬谷は「魔力を『怨念』として、軽い自我を持たせて肉を動かす。だが種族と彼の性質上、鬼に逆らえないと判明してから血で一旦狂わせ、Yに逆らう前に従属させる。そうして舌に『考えたことを伝える』役目を与え続ける。」らしい、意味がよく分からないのは彼の当たり前だから突っ込むことは野暮だ。つまり他人であるはずの肉が脳と接続されているのだが、怨念とやらに汚染されることはない。


――だけど


 だがこの舌が言葉を発するのは最終段階であって、今はこれによってではない。その合間を埋めるためのツールに、瀬谷から食中植物を埋め込まれていた。異世界、大罪国全域に分布する人間の美しい声を真似することで人間を誘き寄せそのまま齧り殺す。生態として人食衝動が付加されるが、捕食義務のある鬼が背負ったところで、事も無げに彼は言った。瀬谷、彼はそういう人間なのだが、問題はないから大丈夫なのだろう、口出しはしなかった。


「……Tの奴か、エスさん隠しそうだし慣れてねえか。まあ会話出来るなら頼むわ、

「……このダサい合言葉考えたの誰だろうな」

『部長』

「部長?」

『エスさん』

「やりそう」


 ひとりでに開いたドアから後部座席に座る。図体のせいか窮屈だが、迫る香りに逃れるためマスクを着ける。青年も種族としてのフェロモンはどうしても出てしまうのだろう。自分の挙動からある種の了承か窓を締めた。

 エスは部長が以前、かつて人間としての尊厳を得る前まで使われていたコードネームだ。まだ彼自体との交流は浅いが、美醜聞こもごも周囲からの噂は聞く。淫魔は生存のために擬態を選んだ無の種族、欺瞞のともがら。人間ではなく人の形をした化物に分類されるが、あまりにも虚に満ちた弱小者。惨憺たる異世界に耐えられずに、機関へと逃げるものも少ない。その中で選ばれた者、神に愛された天才ジャックレイと対になる、彼は神に厭われた秀才。

 異世界亡命を選択した人物として代表的な愛奴。仰々しい形容なら王ではないが理である者、らしいが共通するべきは一番ではないのだ。一番の後ろにつく二番手であり、逆に言えば彼がいるからこそ一番が生まれる。その証明か、彼がここに降り立って以降、後輩への辣腕を極めた教育の末、優秀な調査員が排出されたらしい。彼が躾けた淫魔は皆、昼は人よりも雄弁に理性を謳い、夜は獣よりも獰猛に食らいついて離さない。その者どもを導き、かつて食い物にした奴らを肉片まで残さない。理知を持った『激情エス』、その意味の数少ない機関からの敬称でエスらしい。


「あの人どうしてる? 表社会パワハラとか駄目って聞いたけど」


 運転席に座っていた青年、こちらを見た弾みに髪で隠していた左半分が顕になる。宵の紫光を鈍く帯びる髪と朝焼けの瞳、その端正な顔を歪めるドス黒い焼痕を見せる。そこに目玉はなかったが、まだ麗らかに残す右眼が自分を捉えていた。


「ああ、これあの人じゃないから気にすんな」

『部長に殴られて快感を覚えている人がいるから、大変だなって思う』

「大変だな、その喋り方っつーか口は?」


 その話題が来てしまったが、不気味さの払底よりも話題話に近い気さくさだ。発する声は植物のものだから、背が高い割には声が気持ち悪いほどに高い。厭な声だった。

 しかしどうしよう。確かに仕事においては妥協を許さないが、以前の名声とは違い今の彼は柔い。下手に喋ると長年の評判を落としかねない。


『快感を覚える人にやって頂いたよ』

「……そいつはハードだな、上司が」


 なるほど、そのための瀬谷かと納得した。ついでに残った缶コーヒー二つ、青年に与えた。

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