【Y/Carezza】1

 イルディアド、その名前が呟かれた同時かその後のことだった。

 ソーサーを下げたウェイトレスは小皿の下で手にしていた刃を向いて、そのまま拳ごと松山を狙う。

 長めの髪が、静かな勢いにふるり揺れる。黒髪を競馬の尻尾に括った細切れのブルーのリボン。ゆれて小さく舞って、松山の左指を捌いた。


 鬼の血、人よりも感覚が鋭く、同族と同族として見ない敵愾の遺伝子が動く。嗅覚、まだ刃の上にはうっすらとした油と血、糞尿を塗布した破傷風目的は感じられない。脂へと変わり、食欲を唆る前に次は視覚へ映る。左中指、第一関節の断面、繊細な骨密と血管を魅せる断面、烈を彩る肉。小さな一部が松山の大きな体から離れていく。


――これは


 見て分かる、これは憎悪と私怨を具現化させた最悪の行為だと、自然に身体が立てと叫ぶ。あの手にした、林檎でも向いてれば良いものを奪い取って、給仕に頸動脈の断裂を聞かせなければと。

 それは松山と目が合って鎮まった。痛みと涙の懸想すら出さない眼差しが眼球にへばる。僅かに入る光、生臭い色をする白目の艶が、殺すなと抑した。ウェイトレスを捉えていない訳ではない、余体を叩きつけてさえいる、そうまで感じる不遜さもある。

 その意志に負けて、立ち上がろうとした身体を制する。それでもどこか爆発しそうな何かを感じると、深くソファに寄りかかった。


「……ごゆっくりどうぞ」


 間を置いたが、ウェイトレスの口調には想定外を含ませない。ただ感情はある程度「押し潰した」のか、松山から離れて歩く歩幅がわずかに広い。一歩、彼女は離れていく。

 部下としても今から彼女を掴みかかるべきだろうが、何故か自分が押さえ込まれている。去っていく後ろ姿を見渡す。一撃必殺の線もあり得るが、彼女も彼女でそうやって逃しても良いのかと、何故かぼんやりと考えてしまった。


「……砂糖を入れ忘れた」


 松山は見向きもしなかった。

 憤怒を現さない調子、逃げられたウェイトレスを視線で追いかけることはない。ただ陽気に吹きこぼれんとする断面の止血に、備え付けのナプキンを何層かに被せる。それから患部付近をカナル型イヤーフォンで縛り付けた。鞄に潰れて仕舞っていたレジ袋を一つ取り出し、アイスコーヒーから氷をつまみ出しレジ袋に放る。底に溜まった氷達を纏めてきつく縛って氷袋を一つ作り、その中にナプキンで包んだ指を放り投げる。言葉と行動が一致して妥当なことしか考えない。彼の特徴、性癖でもあり、悪癖でもある。気にするのは着たてのYシャツに水玉を付けてしまうことか。


 何も手を付けていないままだったアイスコーヒーに、氷の代わりに血が不規則に踊る。ミミズ走る断片。黒に赤、生気を感じない赤が細く混じり始めてやがて消えた。


「これはツテの所に行くから、さっきまでの話は読み返してくれると助かる」


 これ、と、応急処置を施したそれを見せる。それを不審気に除き見る客は誰もいない。隣のビジネスマン二人は学生時代の留学先の教授との交流を談笑し、なだらかにに別の会話へ移す。紺の制服を着た足の細いウェイトレスが、奥の席の初老の男性に水を注いでいる。緩慢な速度で回り続けるシーリングファン、ゴムの木の葉緑が、レストランの静寂とさざめきを宿す。ピクルスの酸味が効いたイワシの塩漬けハーリングが愛される、そんな日常だ。

 何も変わらない、彼は変化を終わらせてしまった。容姿は一際目立つというのに、氷よりも先に異常は溶け切った。


「待ち合わせは変わらないから、聞いた通りに動いてくれれば良い」


 ぼうっと、またよく分からない表情をしたせいか、松山は無事である手を使って書類を叩く。予定変更だが、ブリーフィングが終わった後に席を立ち向かうのは変わらないらしい。書類に目線を落とすが、何回も見慣れて、少し端が折り曲がったところばかりが目につく。

 依頼者、きれいな萌黄色の長髪をしたヨウ・イルディアド。依頼者との接待の指定地、何故かレストラン。依頼者との契約内容、三日間の視察。依頼者の役職、大手家具メーカーの……何度も見返して頭に入れ込んだ情報だ。それが今になって、アクシデントに浮遊して定着しない。


「奴はここに来るだろうし……アレについては心配ない」


 なるほどと、納得する。奴というのは部長だ、何を、どうやってと言うのは自分でも見当はつかない。だが松山が全幅の信頼を持って彼を呼ぶ。そういった関係性であることはよく分かっている。彼女を捕えるかどうかも、今襲うかも彼を呼んでから実行する――たとえどう見てもおかしい順序だろうが――それが彼の妥当か。

 理解は出来ないが「断じて良いのはそれが損をもたらした時、理解できなくても納得しなくても構わない。一生分からなくても、終わりよければそれでいい」とも以前彼は言っていた。つまりそういうことだろう。思考の放棄をしていなくもないが、彼は側にいても全く見えない。五感が、鬼の力を以てしても松山は表層的に精神を炙り出さない。発汗も涙も生理現象のみにしかない。なら痛覚でしか人間だと分からないとの彼の自嘲も頷ける。


『何が出来る?』

「ただの軽傷、後でどうにかする……時間がないから行ってくれ」


 ただ問題は、それすら彼が些事としてすでに扱ってしまうことだ。だがそれを言っても無視をするだろう。自分の奉仕は彼にとってただの請いであり、心配をされているとまるで分からないように。

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