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 あの馬鹿は出し惜しんだらしい。主導を寄越したこの体は優越よりもただひたすらに気怠い。身体の芯が、甘ったるさに蝕まれている。それとも、人の形に慣れているか絶倫か何かだろう。それも腹立たしい、後で再会した暁には一発殴らないと気は済まない。


 脱いだインナーを再度頭に被った。不快指数を込めた異臭で顔を顰めて松山に目を遣る。彼もまた事が終わると切り替えは早い。何も服を着ないまま、機関の書類へと手を伸ばして視線を下に降ろしている。ほんの少し前までは、長椅子の上に痴態を晒して精悍な顔つきに悦びを塗った。彼は、この身体の本来の持ち主であるシュウは、精神が成熟していない。彼はある一点においては執心してその日の為に生きる。そのいとけない純真さを目の前で舐めしゃぶられた気分だった。


 苛立ちか、指を鳴らす。数秒経たない内に、松山の背に異変を来した。

 頚椎から臀部にかけてのラインにかけて、皮膚らしからぬ裂けを突如開かれる。その音は濡れた布を割いたようで、無味の部屋の中で湿ったく木霊した。亀裂の中から血を垂らしたところで、人差し指で軽く空を掬う。まだ生暖かい血はひとりでに立ち、右往左往にその赤のアーチを背の上で描いた。

 流石に堪えるか、松山からくぐもった声を漏らすが、構いなく傷口からまた血を這い出す。次第にそれを上空へ引き伸ばし、別所の松山の新鮮な血と合流する。そして混ざる。混ざって錆と化しかけたそれを赤へと綯いでゆく。そうして双つ翅が、飛ぶことのない翅を作り上げた。

 痛みに馴染み始めたか、松山は息を沈ませている。視線をこちらにはくれないが、書類をガラステーブルに置いて、うつ伏せ気味だった上体を起こす。だがそのいのちは小さな裂け目から未だ革を汚した。足にはまだ部下の残滓が張り付く。舌打ちをして更に血を吹き流す。体液、まだ綺麗なそれが視覚的にまだ美しく汚す。百合の花は枯れるから嫌いだ、白濁液も然り、枯れが目に見える白は哀れな程に輝かしい。そうして自らの腐臭を受け入れない。そう考えると、指を未だ止めずにいた。

 従者――名前を呟きたくもない奴はこの異変に部屋を飛び出すことはない。何でもない、無力のはずの人間に手中を収められた以上猫のように大人しくなったか。それも癪に障った。


「ごめんね、何かムカついた……とりあえず君の血の中に僕はいる、覚えてほしいね」

「ええ」


 うすら、人間らしい汗が松山の肌を濡らす。白い肌に鈍い光沢を放って、抑される身体へのもどかしさをひしと感じる。潤んだ彼の吐息から、苦痛とは別の、いやにもどかしい呼吸を吐き出す。どこか背筋に障るその仕草から、目線を更に下にやる。彼の半身はゆるゆると立ち上がっていた。


「本当に気色悪いな、マゾだっけ?」

「願望は、ないですがねえ」


 感覚から、あまり目には見えなくても背上のオブジェを悟ったのらしい。体に相応した、けれど魔法には不釣り合いな、長くて芯のある指先が翅を捕える。血の翅、健康の濁りは薄く、透き通ってソファの革を移す。垂れんとする翅先の雫を、松山の指先が捉えて翅の輪郭に滑らせた。


「ただ、悪くない……気に障りましたか?」

「知らないよ」


 彼の顔を見ることすらうざったく背を向けているが、彼の一笑は朗らかだった。男に組敷かれ、従者の側で番の役を当てられた、極めて健全な振動。彼は知っているだろう、シュウと交代して自分が出ていることを。あの浅ましさを暴いた人間の中に自分がいることを。

 ばきり、結晶が砕かれる音がする。硝子とは言い難い、脆くて繊細なもの。


「貴方が血液にいる、ならばその中でやることは私も分かるのです」


 ばきり、ばきり、ばきり。

 彼は掌の中で砕いていく、そして数秒間を空けて咀嚼して、口内で鋭利を噛み砕いて、嚥下する。お前ら化物のことは何にでも分かると、隷属の身を以て高慢に唱える。


「貴方は」


 ばきり、また砕かれる。次第に鼻腔に嫌な臭いが奔る。かつて日の目を見る前に先立ったものの、戦火よりも崩れた矜持の香り。薫りが、肉体が持つ食人衝動よりも先に、意識が明確に現れる。


「数多の悪評とは裏腹に情に厚い、なるほどそれでは友である――」


 握り拳を作ったと同時に、松山の言動はそこで途切れた。指先から崩れる水晶は、床に溢れるなり生々しい水音を立てる。肉体から離れた瞬間、それはこうなる仕組みだった。松山の血液を支配することは出来ないが、血液そのものは捕らえることが出来る。水分として彼に宿った以上は、彼をいつでも殺せる。


「松山、駄目だ」


 だから、口腔の粘膜を突き破り針にするのも容易い。視線をようやく、松山の方に向ける。驚愕の表情こそ彼らしくしないが、口元から彼そのものは吹き零れていた。それもらしく、必死に拭おうともしないまま、静かに自分を捉える。


「それは良くない、私達は形なきものだ、名前というものは春風のように軽やかだが……羊水よりも深い」


 その名前、彼の名前を呟こうとした咽頭を撫でる。硬い、シュウが食らってしまいたくなるのも頷いてしまう。その喉で、その声で何人もの同類を葬って、憐憫に響かない堅固さを持つか計り知れない。直に指の腹で出っ張った部分を当てて、血管内を拡張させる。顔が近い、だが恐れをかけた眼が、痛みしか影響しない細やかな汗しか目につかなかった。


「君は、名前に価値を見いだせないというのはよく分かる。だからこそ君は踏みにじれる……良いとも、それが人間の所作なら一向に構わない」


 喉から頬に手を当てる。そしてほんの少し力を入れるや否や、左頬粘膜から突き出た針が右頬を貫通する。外界から赤い血が現れる。

 その針は芸術性を欠けた殺意だ。松山の言う通り、自分は早熟の王で有りながら周りを見過ぎてしまっている。見過ぎているからこそ、侮辱する口を殺したくてたまらない。

 指から垂れ落ちる針が不快で、頬から手を離す。途端に妙な臭気に気付いてまた顔を背く。


「……最低だ」


 人間の視覚は未だに感覚は掴めない、明らかに下で達した痕が新しく残っていた。その忌まわしい記憶をどうにかして消したく、瞼を閉じた。

 それもまた、松山は引き抜いて手の中で砕いては破片を貪った。悪くない、と小さな呟きを残してまた口に含む。口の中で貫かれた一部を爪で抉っては噛み砕いて飲み込む。嫌でもその音だけは残る。残る、暗い部屋が厭な臭いを醜悪に混ぜていた。


「ご無礼申し訳ございません……しかしこの痛み、憎しみは至極恐悦に存じます」


 そう満たされた調子で、彼は応えた。一層、瞳を強く閉じる。自分はどうしても、旧友を象った青い瞳にそれを移すことが出来なかった。


「……さて、強欲と彼についての話でしたね、陛下?」


 そしてこの男に頼らざるを得ない事実。この最悪は些か堪え難かった。

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