【カサイレン/ROUTE】

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 出席番号九番、身長一七〇センチ、長い黒髪を一つに括りつけて青い目を持った男。白いワイシャツよりも透き通り、生ったるい微温まとう肌と、暇そうになると持て余すすらっとした手足。近寄りがたいと思いきや、目線を合わせた者は笑い返す。そしてどういうことかクラスメイトの散髪事情をよく知っている。クラスメイトで分からないことはないと言わんばかりに、周りをよく見ていて人懐っこい。同級生もまた彼の名を知らない者はいない。人好きはするが、単独行動を好む者には鬱陶しく思えてしまう男。オイカワカオル、及川薫、丁度一学期に自分の目の前にいた男は、そんなちょこまかした喧しい奴だった。

 その後二度の席替えに伴って彼はドア近くに、自分は窓際の一番前までに離れた。だが週に五回、奴はいつも自分の席で待ち構えていた。先に登校していた時はいつも机上に座り足を組み、そして見つけるなりあれこれ会話をまさぐる。こんな話そうにも面白みのない人間を待つだなんて彼はどうかしている。習慣が三日続けば、彼と親交のあるややヤンチャな同学が好奇心に近寄ってくる。そして率直にお前らデキてんの? とあられもない疑いをかけられた。


 親友、もといクラスメイト達にはある程度の茶化されはあったようだが、彼は否定しないらしい。会話を聞いていて、彼は自分に好意を抱いているだしい。何故か、それを何度も聞いたがしきりに恋に理由はいらないという。

 どこか昔、4月のいつかになにも考えていなさそうな奴は悩みがなくて羨ましいと言った。すると彼は自分にはもう一つの人格、カオリがいるが彼もまたレンレンを好いている。だから今その最上級の悩みにひとしきり苦しんでいると答えた。意味が分からないというよりも、意味がないを極めている。それ以降好きかどうかを考えることはやめていた。


「――いや、でもデキたいなって、だってほらレンレンってテンション低いじゃん? こっちが話しかけてくれたら心を開く的なさ」

「笠井こいつ下心言ってんだけど」

「いやプラトニックに行きたいんだけどさ!っていうか真面目なシーンに入ってくんなよ!」


 いつ、その会話をしたかすら思い出せないが、そういったやり取りは何回か繰り返していた。重要性は、ない。

 クラスメイトとの軽いいさかいに及川が乗り、そうして時間が過ぎていく。あと五分で朝学習が始まるが、何ならすぐに教師だけでも来てほしかった。担任のカガミは品行方正を重んじて、新米としての熱が残っている。出てくるなり及川の素行を注意してくれれば、それでもう会話は途切れるのだろう。

 まだ及川はクラスメイトとの会話を終わらせていないが、話題がレンレンがどうとかの話になっている。気持ちが悪い、加わるつもりもなくそのまま視線を下におろした。及川の学ランのズボンから細い足首が見える。快郎とした彼にはすこしそぐわない、細く締りくるぶしにかかる流線を凝視した。

 あの先、あの足の先の指の爪は、婀娜っぽい桃色なのだろう。


「笠井、お前のせいでド変態だぞこいつ」

「いやお前分かってないよ、ヲタクだろうがなんだろうが情報収集は大事でしょ!」


 一つ、自分も及川を知った。それは足首がいやに細いこと。すぐに手のひらにおさめれられて、太腿にかけてはしたなく開脚させるのも容易い。まだ青年じゃない幼子の影があると。そのお礼に、一つ情報を交換しようかと顔を上げて、くちを開いた。


「なあ及川――」


 ――お前が言っていた口づけたいその唇は、もう初めてを失った。


 ミステリアスな瞳に何を移しているかを知りたいとも聞いた。もう意味をなさない数百万字の語群と、価値をなさない個体をずっと見てきた。青空の色が、青い炎の浄化と同じに見えるほど、人間の骨格と内壁と粘膜を覗いた。

 良いシャンプーの匂いがする、だから良い。それはご名答だった。アレは自分好みに人間の手入れをするのも日課としている。あの犬もどきの青年と同居していたからよく分かる。フェミニンな外見の彼は、自分よりずっと甘ったるい香料で蠱惑にされていた。

 そもそも話を聞いているかも分からないから、小さく囁いてみたい。彼はそこで我に返って、そこだけはやたら恥ずかしそうに言った。


 ――もう既に終わっているんだよな


 たまに訳もなくかかってくる電話の留守電を、自分は聞いていた。テストだと送られていた十秒のボイスメッセージを片時も離さず聞いている。誰のものかも知らない肉のヘドロをまさぐった手。とっ散らかった飛沫のせいで洗われた体に、一人何度も染み込ませていた。喉奥からの圧迫に、吐き気を催そうとした間際に紡がれる繰り返しのフレーズを食い潰し嚥下した。


 初めて空白を埋めようと彼の言葉を聞いた時は、その場で嘔吐した。その嘔吐には間違いなく雄の物、ついで父親が作った物が交じる。それが肉体に、破片に、一部に――構成された血液が血管の内壁を擦ると感ぜれば、またその場で嘔吐えずく。刺激臭が鼻を指しても、胃は痙攣を続けて止まない。嫌悪感、それよりも虚無か。塞いでほしかったのだろう、何物よりも余白が多くて、それでも優しい声だったそれを。

 二度、三度となる内に、声は救いに変わる。同時に諦めたのだと気付いてしまったが、熱を得たかった。電子に挟まる口腔の粘液と息継ぎを、温度と代えた。十回聞いた時には自ら体を弄った。今度は自分のせいで、彼で興奮している。少し、高い声を上げる自分が嫌になって、塩素錠剤を飲み込むことが増えた。ただ粘膜が焼かれて、馬鹿みたいに嗄れた声は、自分のモノそのものだと安堵した。及川と、それと何一つ同じ物など、自分にはないのだと。いつしか夜が明ければ、何故か生きているこの体は、化物であって人間じゃない。

 それがどこか胸元が暖かく感じた。及川を汚すのが、人間ではないのだと、ようやく眠ることが出来るようになった。


 いつしかそれは、習慣となっていた。暗い部屋の隅で、誰にも侵されぬように、触れられないように弱い胴体を体育座りで隠して聞いた。嗚咽を漏らす前に柔らかいその声で宥めて泣くことを止めた。その足すら細い、折られるほどに。あの男の強い手の感触を忘れるまで体を丸めて、聴覚だけ満たした。

 粘液しか聞こえない、あの男も視界にはいない。荒く息を吐けばいい、ねだらなくていい。逃げなくていい、逃げて折られる足も首もない。ティッシュの中に収められる程度。悪夢はそれだけで十分だった。メッセージも現実も彼は変わらない、いつ聞いても壊れることがない1メガもないデータだ。それだけで、普通の世界を証明された気分にひたれた。


「すげえ遅れたけど、メッセージありがとうな」


 ただそれでも、20秒の音声の最後、じゃあねという2秒を目前に停止するのも習慣になっていた。

 その及川薫は、日常の自分に向けてのメッセージなのだろう。日常で、波長が合わずに一蹴する自分への、絶え間ない告白だろう。普通なのだろう。生活なのだろう。それが彼の思う笠井蓮なのだから──その何気ない人間が、笠井蓮でなければ、ならない。

 ただ暗闇で横たわる少年は、日常にいてはならないのだ。


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