【笠井蓮/Ranunculus】1

 夏は、性行為を模している。


 汗ばんだ肌、蒸気を促さない這う熱気。他人という自家用車が通過していれど囲う熱は、恥じらいごと躰をとかす。性行為は、季節で言えば夏だ。軈て、虚しい秋と終わる冬を緩く迎えるもの。

 まだそれが「あたかも」と大人びた形容が許された頃、それは母親が暗に教えてくれた。それも中学一年か二年の夏だ。いつも夜更けに帰る母親の、一人寂しい生活音を聞きながら自分は眠る振りをしていた。しばらくして聞き慣れない男の声が聞こえる。母親からは再婚の話は聞いていないのだが、そもそも話す機会は滅多にない。一人男を育てたら、もう一人欲しかったのだろう。それも歳が若くて酒も飲めない息子よりは、金もあれば酒も飲める恋人が都合がいい。ただ新しい相手とも気にならない訳ではなく、耐え切れず襖を小さく開けて覗いた。

 男、青年か何かが女に覆い被さっていた。二人は互いに肌を見せて青年は上へ、女は下になって絡む。途端、粘ついた水の音と高い嬌声。掻き乱した女の黒髪を鷲掴んで青年は下部へ押し付けた。最初も女は苦悶を喉奥へくぐもらせるが、青年の空いた手で下部を弄れば、女は喜んで頭を動かす。掴まれた手よりも早く、不自然に空いた襖すらも目に入らない。

 この年で友人関係はほとんど無縁だった。アダルトビデオ鑑賞という秘事を省いたか、この頃の情報量は受け入れ難く脳を圧迫させていた。

 じゅぷじゅぷと動く物は鳴く、自分にでさえ触れさせることが少なかったものはよがっている。人の特権、話す口を叫ぶために座るための足を大きく広げる。ただ昼のヒトガタを知る自分には、そこから目を離すことが出来ない。何もかも知らない彼女を見ているのだと錯覚しているのだから、何かを知る男に妬く。それ以来来なくても、母そのものが亡くなったあともずっとだった。


『精神的な外傷も大きかったと聞きました……お母さんをこうさせてしまったのは、我々に責任がある』


式を終えて、三輪は頭を下げた。彼は母親との性行為の相手ではないらしい。だが、その人物を看過させてしまったとの詫びだった。自分はその相手ではない、というのがせめてもの自分の罪悪の軽減とも言わんばかりに。


『……アレは俺の父親ですか?』


だとすると残るはと、自然にこぼれた。色事に見せた頭部、自分と同じ癖の強い黒髪の男ならと。それは覚えていた、だがその相似が顔を見ることに厭悪したか、顔そのものは見ようとしなかった。

 もしも自分と同じような子供っぽい、それとも紫の瞳なら――それは失望だった。恐れであった。得てして、期待であった。


『だとしたら、貴方は探しますか?』


 だが三輪は、彼はただ笑った。この声の抑揚は夏にも似て閨の暗部。細めた碧眼は深く、男が飽いて部屋を出て行った朝焼けそのものだった。





「――で、やっと交渉成立、これで仕事は終わりだ」


 瀬谷の言の葉を一枚ずつ裏返そうとするも、外の泥濘んだ熱気が理性をふやかせる。何かを拾う前に、足裏から汗が一つ零れて、構える気は失せつつあった。


 通常店の中でクラスメイトと藹々と離す道すがら、瀬谷の連絡から一人席を立ち、外へと場所を変えた。気温34度、思考としては賢明だが行動としては暗愚だ。粛々と機械の如く情報を処理しようが腐っても人間だからあつい、兎にも角にも暑かった。

 都市開発区域にはまだ低層建築物らが建ち並び、日差しとして成り立たない。加えて敷き詰めたアスファルトが黒として蓄熱する。今し方、猛暑を逆手に取り、麦茶を凍らせたまま持ち込むという及川の話を思い出した。


――ああいや


 今の自分にはどうでもいいと片隅に追いやった。

 瀬谷から言い渡された話を整理する。

 瀬谷は昨日あの現場と自分から採取した物の解析を終えた。それを魔法に利用したことで、交渉する関係として対等になった。次に魔法少年の黒幕となる人物は、触手を主とした人物の独断である可能性が高い。そして自分が出る幕もなく、話は一般人の解放にへと順調に進んでいるらしい。


 そして一見異常と見える松川のケースは、魔法学的に見れば興味深いものにあるとのこと。それは末端であるここではなく、その上の『首都』もしくは『本部』自らが動く学術的課題となりうるらしい。故に放置、そう言い渡された。


「……録音とか役に立たなかったですしね」

「気にすんな、後は俺が首都に伝える……今部長が近くにいるけど、伝言とかは?」


 名前だけで、息が詰まる。不快指数が聴覚に飛び散った。

 頭が整然とした今なら分かるが、前日から部長と会っていない。松川の生存について連絡が行き届いたのは息を延ぶが、連絡そのものは情報屋を通じてのものだ。電子メールと電話の類では返信の機会をつくる。

 ハッキングだのクラッキングありもしない懸念を口実として、情報屋に言い渡していた。情報屋は、あのナリが部長に隷属している証ではある、捏造不達の類を選ぶはずはなかった。


――駄目だ


 スマートフォンを握る掌から大きな震えはないが、指先の血がまだ通ってない。携帯の発熱がどこか浮いていて、熱するよりも温められていると思わせる、未だの怯臆。からんどうの指で通話が出来るか、メールを正確に打てるかが心もとない。

 テープレコーダーから聞こえた録音越しの自分の声もそうだった。何もない、何も収穫もめぼしいものもない、ただ何かこわいものをみておびえていただけのにんげんだけがいた。

 それだけの雑音のみが残されて、連絡が透明に行くはずの職場にて彼は帰ってこなかった。


 手を、患わせてしまった。

 それがどんな相手であるとは言え、あの余裕気な奴が自分を責めることすらなかった。自分が連絡を遠回しにしてもそれを直ぐにからかいには来なかった。何もなかった。

 何も、自分に課せるべきものが。


「……秘密にして欲しいことが」


 それでもと、食い下がってしまう自分を自嘲する。濁流から顔から身を這い出ようとする姿勢を、白塗りの店の外装に寄りかかり整えた。

 秘密と聞いた途端、ほんの少しの靴音を立てて、なんだと囁き声に返した。本当に、近くにいるらしい。瀬谷自身のその分かりやすい行動が、いやむしろ会話の動向で見透かされているかもしれない。


「松川の前日の話については俺がやって良いですか?」


 それでも、まだ自分がやると意固地になってしまう。

 事故だが、クラスメイトの及川と松川と揃って放課後集うことになっている。原因は自分が松川を凝視していたことによる及川の妬心。

 そして修羅場だと、一般人の及川が勝手にセッティングした。現在の修羅場かどうかはさておき、会う機会をそのまま逃す訳にはいかなかった。


「部長がやってくれる」


 変わらずウィスパーに返答してくれるが、その声には芯があった。それも適当な話だろう、技量にせよ度胸にせよ、自分よりも部長の方が優れている、それ故の上司だ。そして自分の職場よりも上の立場に松川が目を付ける以上は、ド素人以前の行動は目に見えている。通話から滲む瀬谷の言葉はよく分かる。

 それに自分は、先輩の迷惑をかけたくないからだと常套と陳腐を織り成そうとした。


「話を聞くなら俺だって」

「でもやってくれるだろ」

「――ここで逃したら、今度こそ捨てられそうですし」


 どうして、こんな言葉が出てしまったんだろうか。


 分からないが、不思議と動揺が動きにも声にも現れなかった。ただ一つの異変とするなら、腰まで使った腐敗水が一気に潮を引いた開放感。

 どうしてか何も解決していない、むしろ悪化の詭弁が恐ろしく鎮まった。


「……

「怒ってます?」

「いいや……とにかく、少し待ってやる」


 そう、瀬谷の了承が、背景の蝉鳴きが鮮明に聞こえさせた。

 静まった暑さだと、自然な手つきで瀬谷との通話を切った。

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