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 ああ、やばい、壊そう。

 意識が内心に響く前に、血に体へ。雑念が血流を悪くする前に、良心だか善良な心が鈍くなる前に手に椅子を。側に置かれていた空席から一つ拝借して、脚を掴んでユメに殴りつける。重さが苦痛と感じるまでは、二三度殴る。ばらばらばらばら、ユメの亀裂の中で当り前に壊れてしまう音がする。その音も体内だか胎内に吸収されては閉じ込められたから、恐らくは捕食用の為の大口か。床に固定されていないことを確認すると、丸机を持ち上げて押し付ける。

 それすらそれは噛み砕かん勢いでぼり付くが、口には合わないかやや時間を要するか遅い咀嚼を始める。丸テーブル、上品なニスを汚す唾液、亀裂、繊維質、崩壊。それらが全体に侵食する前に彼女の死角へと、客席とは離れた店員側の調理カウンターに逃げ込んだ。一旦、そこからユメの周辺を見渡す。未だに物を砕き食べる臓物、その爪先、丁度仲介屋達がいた場所はばっくりと割られている。彼らが座っていた客席、近くに置かれていた観葉植物すら見えない。空間が空間として切り裂かれているか、断面のようにユメから先は黒い壁と化していた。


――魅入られた、ってやつか


 冗談じゃないが、あの男がいないだけまだ良いか。状況が確認できたところで、次は調理スペース無人でも稼動されているだろう冷蔵庫を確認する。淡い保護灯が灯されていて、電子板に表記された冷蔵も冷凍温度にも異常はない。中に入っていた切れかけのニンニクを掴んで掌に収めた。


「結界的な何か、少なくとも異世界じゃない、アレの暴走から引き起こされた」


 的な何か、日本語という言葉が嫌いと感じる言い回しだ。とすれば比較的外国人の使うものとして正確に扱おうとする仲介屋とは違う、男の声だからそれ以外も違う。ただ一人、だが自分よりも遠い位置で入り口に突っ立っていた男か。

 異世界、という単語を使っている時点である程度その男は大罪についての知識を得ている。抑揚には緊張感に欠け、明らかな異常事態にも関わらずゲストであるはずの自分を守る素振りもない。ただの声、気休めか。慣れているか、もしくは精神的ショックで冷静な判断に欠けているか。


――演技をするか


 怖がる振りがここでは最適解だろう。そう、自分はともかく一般人はどうなるか、恐怖、緊張状態で口内は乾くという。赤ん坊が指を咥えるように安らかな日常の残滓を得るために、癖は生まれる。唇を噛むような男に成って、くちはかわいて、舌が回らない、いかにも頭がぐちゃぐちゃした男に。


「た、助けて」

「直ぐに逃げてこられたくせによく言う」

「……じゃあ何のために君はいるんだ?」


 掌の中にあるニンニクを潰す。途端に仮面を剥がすと若者ふうの生意気ぶった口振りが途絶えたが、続けることもない。確定した。確かに行動としては妥当だが、迅速な返事も真摯な対応が出来ない以上は未熟か仕事ぶりが堅物か。

「少なくとも異世界ではない」、この言葉が脳に飴玉としてごろごろ転がる。大罪を知っているのはこの人間のホストだろう庭三だろうが彼自身かは重要ではない。ただし状況の判断として「少なくとも」と表現をする。若者特有の無駄な形容詞装飾でなければ、異世界であることもある。それは庭三二人だけの極秘でなければ、護衛か付き添いの彼を連れた形も有り得る。


――それは後、それに


 今理解して行動できることは、彼には無駄なお喋りをしてもそうそう足元は掬われないだけ。そして一つ癇癪を抱いている。自分が行動する前に彼は動けなかった、それに犬以下ではないとどうして言えようか。


「どうでも良いけど、君距離あったよね、どうやってここに?」


 声のする方に目を向けると、彼もまた怪物から身を隠してカウンター下に中腰になっていた。黒髪黒目の中肉中背。そこまで目を見張る物はないが近くで見ると長袖から見える肌にペインティングが施されている。薄紅色のガラスより柔らかいが際どい形たち、彫るならば牡丹、描くならば桜だろうか。少し大きめに開いて鎖骨を見せる襟にもその一端が見える。確認に彼の手を見るが、銃火や刃物類によるタコはない、何も汚れてなさそうな綺麗に皮が張った指先。


――いいや


 想定される彼の日常から、汚れそのものを分かっていない身なりは爽やかなドブネズミ。心なしか、袖から見える入墨の花がヒフの上で揺蕩う。確信した、それで戦うつもりか。見栄えのいい耽美よがりの能力に自信があるから近づく意味もない、と言うことか。

 青年は問われてやっと目線を合わせる。首が動くごとによく梳られた髪はゆらり。男性の肉々しさよりはフェミニンな、母胎いろの唇。人間として無個性か黒目がちなだけで光のない瞳が見遣った。覚悟を、決めた。


「それは――」


 青年が唇を動かす先に震え、生気のなかった双眸は見開く。自分の足元には不相応に大きな影がある。

 彼、彼女か、it、それは近くにいる。日常の幼体を艶めかせて、ここに。

 頭上から粘着を帯びた液が滂沱する、それが髪にふんだんにかかる前に足は動いた。頭上を見上げるより前に横へ、触手と化した手が己を捉える前に避ける。そして一瞬のガラ空きを突いて、足と手を使い大蒜を掴んでいた義手を第一関節から叩き折る。持ち上げると異様に軽い、成金なだけあって最新モデルとは名ばかりじゃない。ガラクタと化したそれを軽々と青年の方へ投げつけた。


「汚くなった、どうしてくれるの?」


 その声が届くか届かないかさておき、彼が強ければ何かとしてくれるだろう。声のする方は自分と青年の二人で二極、しかし化物は匂いから青年の方へ狙いを定めていた。

 せめて死にもの狂いでファンタジーを見せろと、上がった口角を堪えきれないまま彼に祈った。

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