【ワン/両腕の無い女】1

 見慣れない部屋、森よりも静かなにおいが立ち篭って、湿り気を吸い込ませた感触、が、足に。


――夢だ


 直ぐに察しながら、頭部につけられた獣風の耳を触る。矢張り、性感帯と詰られるほどに強い刺激を得られない。足がちゃんと床を踏み、手刀の一閃を放つことも容易だ。足裏から、床の感触が目の隙間の空まで伝わる、五本の指も同じく、爪の硬質も、然り、生々しい。

 思わず息が上がってしまう。年の割に高くて年季の脂を乗せられないこの声は、今でも好かない。妙に息立つ己の身を自制する。自分の足として立って歩くことは、そう慣れていなかった。


――寒い


 そして、寒い。夢はたまに理不尽なディテールを持ってくれよう。だがこの間の、赤毛のポメラニアンに食われてどろどろに溶ける夢よりはマシか。


 だが意識は珍しく目覚めて、眠る直前までの記憶も思い出せる。

 仕事が終わり、行動可能時間に従い、情報屋としての道具を外した後に蓮が帰宅した。まだ部長は帰って来ていないと伝えると、代わりに身体を洗って良いかと聞かれ快諾した。そうして、滞りなく洗髪されて、濃いミルクの香りが疲労と化学反応を起こして――そうして――仕方のないことになってしまった。


 蓮は同居人であれ、飼い主の連れ子であれ齢十七の学生。自分とは年の離れた、まだ幼い少年と後輩に過ぎない。紫の瞳は、呑み込まれることを知らない巨峰を喩えたこどもの象徴。小さな背は、頼るよりも頼らせたさがある。

 硝子越しから見るサニタリールームに置かれたコロンのボトルが、ライトに照らされて綺麗だった。そこまで余所見が出来るほど、気を許せる少年だ。油断をすることはないが、飼い主よりも幾分か話しやすく、それでいて声ごとふにゃふにゃやわらかい。不可抗力、小さな指からなる指圧の弱さが心地良かった。ならば、仕方ない。


 だが風呂で寝るという行為は、気絶と同じだと聞いたことがあるが、蓮が叩き起こすのだろうか。あんなか細い力で、自分を起こすことは果たして可能か、それが一つ気がかりではある。


――現実アレだし


 無いものはないが、頑丈ではあるから是非とも起こして頂きたいが、この国の民は敬遠するらしい。

 とは言え足の裏の感触が、生きすぎていて落ち着かない。

 いつもの足でも感覚は繋いでいるが、今と比べればまるで、あちらの方が夢のような幻だった。肩から先にかけての手も、落ち着かない、少しの齟齬も感じられない。


 歩行して、つま先から細い草が伝わる。夢でも、意識ははっきりとしている。酩酊しないまま、ここは何処だと思考の回路も廻っていた。

 直ぐに間取りを把握できそうな、木造建築の小さな部屋。夢裡の刻は夜更け、天井の吊下式照明は消したままだが、小窓からの月明かりでぼんやりと見える。窓のすぐ下の文机は、表面のきずをニスと月の下で浴して、古風な色合いに自分の胸も跳ねる。

 中学三年と冒頭に添える背表紙が、すぐ横で山積みされていた。


――蓮君?


 厳密に言えば、笠井蓮の前の住居、まだ実母と暮らしていた時だろう。

 と、なると、と改めて整理すると、つい顔を歪ませる。ここはただの夢ではなく、近くにいた蓮の記憶片が自分の魔力と共鳴させた結果だ。


――何て言おうかな


 無論、今言うことは必須ではないだろうが、この敏感さはいつか蓮に伝えて置かなければならない。

 瀬谷とかいう話を聞かない小僧はともかく、自分もまた機関と魔法を知る人間であることを確りと。

 肢体を選択出来るほどの人間は、他人の醜悪を勝手に見てしまって苦労する。蓮には悪意も害意はないが、パーソナルスペースの広さから、早くに言うべきだろう。出来れば、覚醒してすぐ。


――だけど


 心なしか、こころがざわめいて醒めないでいる。

 ここは記憶の中だ。そして人は忘れたくないものを留めると同時に忘却する機能が併存する。後者は時間が経つにつれて補完なく、大抵は靄かシャギーな幻覚となって物として留めない。昨日何時に何処で水を飲んだ、だなんて記憶はまず憶えはしないだろう。所持者がいない空間は特に、あるはずがないのが自然だ。


 ここに彼はいない。

 とてもしずかな夜だが、夜はいつだって寂然だ。いつも通りの、平和な影が覆うころ、変わらず机を照らし、そして匂いも残す。カビ取りの、塩素の臭いがした。こんな日は、本当はなくて当然だ。色褪せた襖の表面も、埃被る小窓の溝も、ここに見える平凡な景色何もかも。夜ではない黒に塗り潰されるはずだった。何かの別れを強く惜しむ心さえ無ければ、直ぐに忘れてしまう、他愛ない雑多だ。

 ならば一体と、出入り口に近付いて当時の蓮を覗こうと試みる。

 小さな歩幅で進み、そして何かが漂った。自分の記憶ならば、絶対に忘れもしない臭いが鼻腔を指す。だがこれは、丁重な香りも含む。丁重にされた――死体の薫りだと、脳が断定するにそう遅くはなかった。


――そっか


 この夜は、この闇は、蓮の母親の通夜だと悟った。

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