【瀬谷鶴亀/セパレイト】エピローグ

 生きている。呼吸が、出来て、生きている。

 心臓が動いて、つま先まで神経が澄みやかに通って、生きている。

 全裸だが、生きている。

 全裸だから、隣の影も判然とする。


「……部長、動けないです」

「そんなことはない、例え私が魔法で拘束したとしても優秀で利口な君なら一つや二つ」


 いつも通りの、正体さえ知らなければ人をとろとろにする甘い声でほっとする。精神的安静、恍惚の類のではない。彼以外だったらどうしようかと言う未知数の恐怖からの払底だ。依然として、声の主への好意は芽生えない。そして確固たる意志が、催眠淫に罹っていない証拠だった。

 試しに起き上がろうとベッドから試みようとするが、背が柔らかいスプリングに張り付き離れない。説明口調はいつだって、嫌味の定型文だった。

 天井の照明は自宅や部長らの家とは異なる。ベッドの質と、本人の浪費癖からホテルだろう。


――この野郎


 脊髄まで、快適さが撫でているが、今度は部長が隣にいることで悪寒が生じる。外見の良さは、鎧の強度と比喩するには、些か無理がある。加えて上司は人間が有する感覚を利用しては、心に忘れるとは言わせないと根から腐らせるタチだ。デフォルトの顔に設定しようが、人に顔つきと笑みを微細に変え、小波をさざめかせ亀裂を割らせる天才。

 考えようにも悪感情にしか働かず、背姿に眉を顰めるが、運悪く部長が振り向き目が合う。日常と変わらない、あの雑居ビルには似つかわしくない洗練された金髪碧眼のフォルム。身体と云うには、完璧を越して無機質すぎる点も相変わらずだ。

 おまけに自分の黒縁眼鏡を載せて遊んで、遊び足りないと微笑む。キャビネットに置かれたミネラルウォーターを手にかけて、そのまま投げ付ける。寝たきりの人間に向けて、結露した雫が飛び心臓が跳ねたが、手は即座にそれを捕まえた。


「ほら元気だ、一日ほど休むといい」


 どうやら、全身は縛られているが腕や少し首を動かすのは可動らしい。手から、冷えた感覚が伝う。ついでにペットボトルに張り付いていた結露が、重力に従って、しずくいってきとして腕に軌跡をつくる。くすぐったくて、片手で直ぐに払い除けた。

 看病で自分が、思う存分乱暴に動けることは滅多にない。今日も例外なく、寝台に張り付けにされているが痛みや死の危険はない。外傷は、綺麗さっぱりと消えていた。


――あの時は


 少なくとも、自分の痛覚では顔面下部の破壊、右腕粉砕骨折、脇腹の刺突、鼓膜破壊が今回の外傷箇所と言った処か。だが一日休ませて出勤させる人間の背負う量ではない。


「あの傷なら三日じゃないですかね」

「可愛い部下は元気な姿が一番だろう?」

「労働環境改善なら尚良」

「……ああ勿論、治療以外も」

「結構ですよ」


 変わらず、飄々としている。前触れもなく剥かれ、素晴らしき場所へと勝手に距離を離したことへの詰問をする気力も沸かない。調査員としてマクロな視点へと状況を整理出来ない、疲労が前へ前へと出張するならかなり疲れている。

 仕方なく息をただ吐いて、水を飲む。首を少ししか曲げることが出来ないせいか、下手に口端から溢れてしまう。手で拭って、ひえた内に残りを飲み込む。隣の人物のせいでもあるが、今日は連日の猛暑で喉が欲している。

 潤して、理性に水を与えて、止まった記憶を反時計回りに解凍する。

 ふと、傷がまだ癒えてなく、ふわふわした憶えが脳に広がった。この時から部長と自分は、ホテルに入っていたらしく、そして、遠くから部長が通話していた。


――アレは


 紛れもなく、自分の声帯模写からなる声だ。あの傷だと、自分が誰かに連絡をすることは容易ではない。ああいった際は、上っ面の現状だけなら全てお見通しの部長が代行することも少なくはなかった。生体擬態、部長の種族である淫魔の、習性上に進化を遂げ、故に外見も性格も造ることしかできない特殊能力だ。イントネーション、声質もそっくりそのまま作り変えて真似をする技巧。いやらしい性格らしく、部長はそれに秀でていた。

 断片的に聞こえた、自分に似た音を拾う、笠井、松川、と単語が出ている。悠長にここで寛いでいるなら、この件は終わってしまったのだろう。


「昼の電話、笠井からの連絡でしたよね? 彼どうでした?」


 唐突に、肉体の呪縛が解除された。先程から膝を立てようとするだけで上からくる圧が、ふっと消えてなくなっている。

 恐る恐る状態を起こす。不意打ち、騙し打ちで押し倒される空気がない、ただ静かにシーツが擦れた音を鳴らして、自分だけが全裸だと分かる。ようやく普通の姿勢で部長を確認出来たが、服は着ていた。ひとまず、安心はした。


「喜ばしかった」


 目線を合わせてそれのみ答えるが、声が弾んでいた。

 喜ばしい、と言うのは部長にとってであり自分のものとは共有しがたいものだろう。まだ五体満足だった自分は、笠井を意図的に調査から除外しようと企てていた。だが、今の仕事を忘れそうな気抜けたスペースといい、部長の上機嫌さといい、結果は逆だっただろう。


――あれが、か


 笠井が、人間の死に異常な恐怖を覚える少年が、部長と松山に認められ残された。だが一々聞くのも蛇足か、自分があの場で満たされそうになった時点で聞く気も起きなかった。


──しかし


 気になる点は一つ。恐らく下っ端との密談のつもりであろう、わざと足音を立てた直後の時だ。


「部長、笠井のこと好きなんです?」

「どうした、君らしくない、怖いぞ」

「ヴォイニッチ手稿ほどの興味ですよ」


 一度だけ、一瞬だけ……彼は表情を無に帰した。変えた、ではなく原点により近い、淫魔としての。擬態を前提とした正体なき実態の顔。まるで仮面を剥がした直後の演者の顔。


「──愛しているよ、誰よりもな」


 まるで、その仮面が意味を為さないと知って手から滑り落とした者として。


「青春は奪わないで下さいよ」

「ああ勿論、最後には私の元に帰るからな、気長に行こう」


──なら、あの時アンタはどういう事を言われてあの顔なんです?


 ……などと思うが、これ以上聞いても無駄かもしれない。ここは禁煙なのだから、どうせ代わりに、鬱憤を吐き出すに決まっている。君はずっと私を見ていたのか、嫉妬したのかなどと。そうして煙に巻かれるのがオチか。

 どうにも、死の縁まで追い込まれようが、特別扱いはされないだろう。今まで通りだ。何故完治した自分を全裸で寝かせるかと同等に、過去の勝因を聞くことは、何も。


「新人祝いをしよう、君のライターでいい、新品のね」


 それこそ、一体どこまで彼らは周りを計算していただろうかだなんて、考えるだけで無駄なのだろう。

 この目の前の男は、駒を捨てる余裕はあって当たり前なのだから。


《序章》了

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