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 上から見ても下から見ても、ブックシェルフにはファイルの背が連なる。背には協力者の名と日付、対象の異世界の地名等を簡略化させた識別番号だけが油性ペンで書かれている。

 それぞれ違う物として立ち並べばそれぞれ違う情報の数々だが、価値は同等にほぼ無い。これが蓮を含めた、しがない交渉者の努力の結晶の末路だった。


 今ここで自分が歩き、薄くかぶったホコリを払い落とし、ファイルを取り出しても誰も咎められない。その程度の異世界についての情報が並んでいる。


 大部分、この地区周辺の異世界由来の事件の調査と、いつか無用とされる異世界世情で構成される。それらは規約に従い、とりあえず本棚の中で保存期間がすぎるまでただ生かされる。

 今回の資料は部長が手に持っているが、いつかは本棚にしまい込まれるだろう。


――何が魔法少年だ


 創作物のような組織を名乗りやがって。部長の前では主観的な証言は避けていたが、荒唐無稽と言いたかった。


 異世界にも、固有の文化やそれを育ててきた叡智はある。それはこの世界で言う魔法であり、異世界では何ら普通な存在でも、悪魔的だの神秘だの言われる。とにかく、この世界では異世界の魔法は勿論、化物の存在などまだ非現実的で未知なるものでしかない。


 そして未知である以上は、脅威でしかない。

 こことは異なった価値観と生態で成り立った生き物が、人間愛護に走るのは考えにくい。今でも人間自身がまともに成されていないのを加味すれば、にくい、というよりは有り得ない。ゴーレムを「敵」、しかし魔法少年団体とやらを味方と断定するのは都合の良い考えだった。

 ポルルンが何であろうが、所詮は人語を話し文化に馴染み、何者にでも変えられる化物しかない。


――だがこれをどう説明する?


 異世界には魔法使い、吸血鬼、フランケンシュタインの特性と似た種族が存在する。だがそれは「似た種族」、「該当される者ども」であり、人間が指すフィクション、宗教上の存在と同一ではない。


――「名称」を借りた異世界人か


 そう説明した方が無難だろう。結局は魔法少年団体とやらは、ここにある創作物を利用して、何とか一般人の接触に成功している。


 よく考えてみれば宇宙人も同じだ。日本人は宇宙から来た未知なる生命体を宇宙人と呼び、人体実験や人間の視察のためにUFOを使うと噂される。

 だが、彼ら自身本当にUFOを使うのかは分からなければ、正式な種族名は「リトルグレイ」でも「宇宙人」でも「エイリアン」とは限らない。単なる記号であり、大方真実が明らかにされる度に更新される、曖昧で一時的なものにすぎない。


――嫉妬は、してるか


 あの淫魔の言う通り、多少嫌気はさしているかもしれない。夢がある騙された者に愚かだと侮蔑するのは、無意識にある知ってしまった自己嫌悪、とも思える。

 ただ、こんな面白みのない種明かしをしてきたのは部長側からだ。だがそれを受け入れたのも笠井蓮だった。


――気味悪がられるよな


 乾燥しかかった唇を触る。

 何がどうあれともあれ、深く知ることにも代償はやってきた。例えば養父からの薄気味悪い優しさ、上司からの教育、得体の知れない実父への歯痒さ。あらゆるものがバイトで累積していく度に、慰めるようにして父親面の他人に口付けされる。


 何より、被害に遭っても対象者達が明るく生きている姿には、凶器そのものに見えた。だが男子高校生として生きるなら、性に奔放な家庭と職場から逸し、無垢を残して生きるしかない。

 自分を律してさえいれば、秘め事は分かりはしない。養父が正真正銘の淫魔としても、父子をともに演じる自信だけはあった。


「snpiu……」


 不意に、組織のスペルが気にかかった。

 魔法少年と騙るにしては名前作りとは凝ったものだが、魔法に文字は関係していると瀬谷が言っていた。


 Pinus、とスマートフォンの検索欄に打ち込む。母音の配置を考えてアナグラムで並べるなら、このくらいだろうか。到底簡単な仕組みとは思えないが、験担ぎ風の気休めには丁度よかった。


『マツ属(マツぞく、学名:Pinus)』


 運命的、幸先は良いのだが諸手を挙げるほどではない。

 自分の血よりも熱くて、使えそうなスマートフォンの上に指を滑らせた。スクロール、下へ。生態だの名前だの、自分には不要な概要が識人のかおをして項目として連なる。その煩雑さは書類でもよくある。数秒も経たないうちに、線のような絵が文字だと分かる前に無視をするだけのものだった。

 気紛れに調べたページを閉じたがその直後、画面上に着信を示す絵図が浮かぶ。時刻は、まだそのまま四時を過ぎてすぐだ。朝の顔をした夜、亡霊には目に沁みる黄昏。人間同士には些か非常識な時間なのだが名前に「及川」と書かれれば納得する。彼は人間ではなく、及川だ。なら仕方ない、許すつもりもないのだが。

 元々通知はサイレントに切っているものの、及川からの着信は止まない。音はないが、体感的には十コールほど本来寝ているはずのクラスメイトを起こしにかかる。音はない。ないのだが、無音が鳴る。切ってどうするか先に、彼の姿を思い浮かべる。急に起きて、だが二度寝るよりも先に、目の損傷も構いなしにベッドの上で開いたのだろうか。寝惚けた目を擦って、それでも寝ずに馬鹿みたいに耳元に当てているのだろうか。なんとなく、ふいに、通話を受け取った。


『おはよう』


 朝によく聞く。年の割にはやけに高く、性格に等しく明朗な調子だった。眠気さえも感じさせない。向こう側はもう朝焼けどころか陽は沈んだことない、ともどこか遠くの不明瞭な物音が代弁している。それはすこし甲高いのだから、小鳥のさえずりかもしれなかった。


「早すぎんだろ」


 舌打ちすると、感度の良いマイクが嫌でも拾ってしまう。かと言い、迷惑かどうかと言う話では否定をしないのは、どうかと思うので苦情だけは漏らした。

 及川は恐らく、自分が朝早くから意識があることは知っている。だがそれまで寝ていなかったことは知らない。眠気、というのもないに等しいと知る由もない。だが自分が朝早くからいると知っていた、一度だけ及川の目の色を朝焼けと喩えたからだろう。それだけ、論拠にもならないものから期待して、こうして電話をかけている。及川から、あくびらしきものは聞こえない。


――眠くないのか


 普通の学生にしては珍しく、いつもの自分と同じ位置にいる。書庫は、広いが寝台はない。仕方なく座ったまま横になる。革ばりつつも清潔な香り、弾力。虚弱と揶揄されそうな体を受け止める。だが包み込んではくれない、黒いソファの上で横になった。

 革を頬ずる。冷たく、無機と有機が綯う風味。そこには及川はいないし、類似品にも彼はその上で臥すりもしない。耳元で聴こえるいきが、電子の紡ぎじゃないと誤るまで息として聞こえた。小声で、自分に話しかけている。学生の笠井蓮に、及川から語りかけていた。


『いや空綺麗でさ、月が見えて』


 不意打ちに、髪を上から掬われる。

 ソファの後方で何かが凭れて、何かの指先が自分の毛先から腹で頭を撫でる。優しく痛みはない、だが心地の悪い細い形状が悪寒を産むことすら許さなかった。指さきで、いたずらにがらんどうな頭蓋を覆う。それが頬に、顎にまで来ると凍てつくことはよく分かっている。


――空


 今、及川が見ている景色は綺麗なのだろう。潔癖と完璧の息苦しさを除いて除ききった時間。陽が昇ることを疑わない世界が彼の前で広がっている。清々しい、朝日を吸い込んできらきらさせる為の包容。黎明の言葉通りに、彼は朝を吸って穏やかに吐く。蛍光の白に曝されず、秒針を誰かの足音代わりに眠りにつける。青い空の下で、愛されている親の口先にて。そんな、温かい幸せを持っているのだ。

 ならば自分は、だが――いや、朝は来ない。目の前にあるのは規則正しいこちらなりの普遍だ。それが変わることはない。一度入った以上、目に入り込む記録として記憶にする。夜から朝を迎えるなら、やっと終わった。始まることはもうない。白いファイルの識別番号が滲んで見えなくなる、やがて白のみになる。そして、それを黒として価値を与えるものは、すぐ側にいた。


 髪に触れていた手を掴むが、抵抗はない。自分の片手では操ることも制することさえ出来ない手が、わざと項垂れる。何をしても咎めやしない、そう力なくした手は掴まれても受け入れていた。

 そっと、その手の甲に口を付ける。意味はない。リップに音を立たせるか否かも、香りは爽やかか甘ったるいかも。まだ自分は終わっていない、人間に化けるのはまだ早いと、彼はそう言うだけに過ぎないのだから。朝早くにスマートフォンを握っている男子高校生に、彼はどう思ったのだろう。力ない手から唇を離したが最後だ。それを彼は待って、構えている。着立てた衣類に手をかける覚悟は出来たか、指は脈を問う。答えさせた頃は、くちはいつも離していた。

 及川は、これも知るはずはない。知るべきではない。無愛想な男子高校生の笠井蓮は知り、今この場にいる何かを軽蔑する。きっと、見離される。


「――知ってる、分かってる」


 ここにいる少年は、カサイレンだ。自分と同い年の同級生を欺いて、シャツは義父が先に解かれる。包まれる宵に焦がれて、向かう陽とスカイブルウは別れと厭う。そんな、はしたない男しかここにはいない。それしか、いなかったのだ。

 朝の空は眩む白。季節外れの蜜柑の香りが、辺りを漂っていた。

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