8
虚数、定義、理論、原理、定数、代入、編纂、コヒーレント、定常状態、擾乱、今来の知性が血の代わりに漲らせる。
酩酊のような朦朧から、朦朧のような酩酊に、そして冷める。眼球が、
冴え返る。
意識、明瞭に。風通しのいい顔から、臓腑へ。
絶え間なく行き乱れる知識を追いやろうと、痛覚を揺さぶりに折れた手を無理に曲げる。
激痛が、死にたくないほどに殺されたい。吐瀉するいのちをもっと、もっともっと吐いて、ばらばらになってからだ。こんな出会に限って、骨折で内臓破裂だとか、そんな人間らしい死で終わってたまるものか。
そうじゃないと生きる意味がない。理論は置いておきたい、じょうしきはもう漢字すら思い浮かべないのだから考える必要はない。
立ち上がって眼前、魔力が煌々と吹雪く。あの金色の、月の不変ごと灼いた色、は、紛れもなく自分の色素だ。表上の詠唱は完遂した。
端的に言えば、ライトノベルの固有結界のようなものになっている。それが何なのか、いいや、どうでもいい、仕組みなぞ煩わしい。
夢のような夢のある世界で、今ここで社会的制裁なく叩き潰せる。それだけの自覚があれば良い。敵だろうが何だろうが、全力を出してどちらかが死ななければならない空間。理性が求めるはそれだろう。出来るので有ればどうでいいが。
――やばい
健全でないはずの足が、脚となる。何も動かない、石化という形容になるべく、ただ胴を乗せるだけの置物になる。感覚が、フロウと関係なしに失いかけていた。まだ人間の細胞が縫合しあい、関節を動かして歩行は、呼吸は、走行は――動作が機械的で気味が悪い。細胞が皆死ぬと、どこに自分の魂が閉じこもっていくのか、ぼんやりと考える程に意識が浅い。
――やばい
だが、感覚器が生かされていた。聴覚が欲を嗅ぎ取り、嗅覚が血の中で戦線の味を、受け取って鼓動する。魔力が見ている、こちらを観ている、どうやって倒れるか視ている、どうやって仕留めるかを診ている。
みている。ずうっと、こちらを見ている。子供の遊びではない、等身大の人間を、透明な幾千の眼球が、幾万の蒸気となろうが、窺っている。
本気で殺そうとしている、異世界人が、魔法を以て。
――うれしい
三六十度の殺気は期待だと、そう受け取って差し支えない。
「
血の池から針として、触手の大本に放ち突き刺さす。強度からして貫通と破壊力に関して追突は不利だが、これは攻撃よりも
半身不定形に浸かる裸体の少年の横をすり抜ける為に、八方散らした血を使う。その意を受け取ったや否や、触手は弄んだ幼獣を遠くへと掴んで奥に追いやる。一方で刺さった本体は、音もなく中に沈み込ませて、外にすぐに排出する。
高知能なだけ、血を操る戦法はそれそのものが毒とは分かるらしい。
――何故
反撃が来ない。
本体から触手は生えているが、攻撃的な物はなく、出しているもの全ては被害者への手当に映っている。それだけで本体が残存するだけに精一杯でもない、まだぶよぶよと、目の前にいる。
単一構成とされる不定形の攻略は難しい。自由自在に動く特性からか、特に一定の領域を支配したとなると更に困難を増す。機関の役員口上から詠唱したものは、導くは魔力の一時的な異常増大。そこまで柔軟を極めるなら、いっそ焦げ付くまで焼き討つのが効率的だろう。
――被害者を殺す気はない
だが、今ここで殺すはずの自分がここに立たせて、傍観している。
ならばと、寝かせている少年らに向けて血の矢を擲つ。投擲から2メートルも満たない地点で触手が捕らえ、そしてあさっての方向に投げ捨てた。
上空に
あれほどの知能を以てして、停戦に持ち込もうとしているのだ。
不意に、鼻先に何かを掠めて後退するが、両の膝裏から直線上に貫通する。続けて、一線からまた二線。痛みが波に変わる前にワイヤー状の物を串刺しにされてると脚の肉の亀裂が訴えた。
いつの間にか、目の前に透明な糸が張られ自分の血か何かが糸から下に雫を伝って落ちる。目を周囲に巡らせば、軽く三十は超える、透き通った刃が周りを囲んでいる。
次は、がら空きになった腕、そう気付いた後は速い。糸のような細さで触手が跳躍するなら壁であり、まずは軸を固定されると。まだ細くなりきれていない壁からの触手を掴む。既に硬化、刃先がのこぎりか、強く握った掌の中からまたぼたぼたと落ちる。血に怯える触手は、またそこで引っ込んだ。
「
血液が気化する、それが敵にとっては降伏か、触手はその合図を見送った。
恐れでもない、人間らしい耐久度の低さが露になる震えた手で煙草をポケットから取ろうと試みる。相当深い傷か、肉がスラックスのポケットの袖に挟まって苛立つ。腹部に穴を開けているせいで、取り出したパッケージが赤くずぶ濡れる。箱こそは悲惨に拉げて汚れているが、未だシガレットは白い輝きを放っていた。
点火、見慣れた、だがここでは、相対的純粋な火のいろを見せる。幸運なことだ。
「
そして幸運なことに二つ。
触手は詠唱の解読を放置した。そして彼らは頭が良いことに、採取した素材の主成分は全て水へと変わっていた。
故に、投げ捨てた
◆
また一度起き上がると、目の前にいる脅威は本体ごと爆ぜるのみに終わってしまった。
頭の中はまだ痛みに整然と仕切っていない。座る、見るの動作だけでも脳内麻薬の分泌を阻害してしまいそうだ。奥の方へ目を配ると、少年らはまだ人間の色をした肌を纏って、寝返りを打った。
なんというか、なんだろう、と呟く前に床に寝そべる。自分が冷たいのか、床が冷たいのかわからないが心地がいい。どくどく脈打つ頭部も、呼吸が吸えそうな腹にも、まだなっている。あの時即時修復したのは腕の骨のみだ。
爆音に耳がやられているらしい。鼓膜は、音の振動を調節するとは聞いたことがある。だから破れても聴覚そのものは喪われない。ただ振動を上手く拾えない為、耳障りな音を聞くことになる、らしい。
死なせるつもりは、なかったのに。その胸がいっぱいで、酸素を上手く溜め込めない。
『――もう少し、胸に留めるべきことはあるだろう』
聞き慣れた男の声が脳の裡に。
どこからか伸びた手が、両頬部分から歯茎を撫でた。先程の触手の攻撃によって筋がほんの少し断たれていたらしい。指先で捉えて、元繋がった場所に結合する。そして頬への縫合、多少、喋りやすくなった気がした。
『何故レンを続行するように決めたか』
耳の穴に、ぬるりと指が入る。長くて細い、男と言うよりは化物の手。
脳から届く声は穏やかだが、死なせるつもりも生を労る欠片はない。ただの修復と言わんばかりに、鼓膜をなぞる。こんな状態でも迷走神経ははたらいて腰が浮く。
「何故私がここまで黙認したか」
聴覚が作動して、嗅覚が働く。こんな環境に置かれても伊達を見せんとする、柑橘の人口香。いっしょうけんめい吸わんとする酸素に、入ってくる。
「……笠井蓮と触手の接触が、そもそもの目的だった」
だがもう、そんなことすらどうでも良くなっていたのだった。
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