3
正気かと、口から漏れ出す動揺を抑えて周囲を見渡す。
別室に柘榴の代役となる役員を配備しているが、彼女もまた人ならざる者として聴覚は鋭い。
距離があろうが、大気中の振動のみで余計なことを聞いてしまう介意はある。少なくとも自分はそうすることも、それを可能としている、だから余計に危機意識を介する。
あの日の後、柘榴は指示通りここに帰ってくることはなかった。その次点、松山は機関の親族絡みに捕まって部屋を空け、当初の予定の直談判は携帯へと変わった。精神不調については事実だが、あの時話をある程度は大袈裟に拡大してしまったのだ。
その点での整合は用意したが、対面は出来るだけ避けたかった。彼が自分よりも魔法に秀でてなければ、卓抜した技能ゆえのトップ抜擢。職種上心理学的見地、足音のみで職業を判別する観察力、生身での接待は不利だった。それよりもまだ、事務的で機械的なやり取りをする電話なら、まだ見逃せられる可能性はある。
運がいいか、幸運にも自分に良い状況として転がってはいる。小さな虚偽であれ、それを逆手に取って縛られることはない。
――ないが
問題、憂慮はその発言源であった自分に確認を取らず、その判断を下した。午前九時の、
内心推測は立てているが、対象者である一般人の死亡は異常事態であることに状況は変わりない。自分自身ならまず生還した結果について半日簀巻にして問い詰めたいが、笠井はそれどころじゃない。話にも冗談にもならない状態に追いやられていた。
松山は今『瀬谷鶴亀の最良のパートナーを手放した』という情報を受け取っている。そこに虚偽か瑕疵を与える利益は部長にはないだろう。彼の居場所が部長の側か寝床の上かはさておき、相棒でもある自分が手放すことには問題はないらしい。
何をして何をされたか、それは吐き気のすることだから止しとしよう。
「誰からの話ですか?」
『笠井からです……と言っても三輪の連絡からですが』
三輪、は、部長の日本人名義だ。普段は習慣でコードネームで呼んでいるが、言い直す限りは外にいるらしい。あるいは、松山の敷地内か。だが部長相手ならなおさら、あの不安定な人間を強いらせるとは考え難い。
「……
『そこまで重要ではないですよ』
ともあれ笠井の肉眼で、松川の生存を確認したということになる。
『捜査取り下げの希望』と、松山は広義的に言ったが、柘榴がそう雑に言伝をするとは考えがたい。奴は行動こそは雑だが、調査に関わる情報を受け渡す梯として部長に宛てがった。それに言い方としては松川の死は確定している。仮に柘榴が絶望的に空気が読めないエキノコックズだとしても、取り下げと松川の死は結び付く。
――松山が察知出来なかった?
それは度し難い話だ。生きた情報の機微を受け取る最高責任者がその程度なら、ここに就いた意味がない。加えてあの部長も、あの部長だったら、笠井の動揺を受け取る機会はあったはずだ。親子ではなく、上司としてそれを却下される姿勢に拒否は出来なかったのだろうか。
『他の人間についてですが、当該の元締めが「回収する」との報告を受けました、彼らが来る前に一般人の隔離をお願いします』
続け様に、有無を言わさず指令を叩き込みにくる。ふつふつと腹底の煮えたぎりから逃れようと、スラックスのポケットをまさぐった。だがそこに何もない。そうだった、今朝この忌まわしい声の主に投げつけていた。苛立たし気に、机の側に置かれた安物のターボライターの袋に手をかける。
水色の透明なプラスチックから灯油が呑気そうに漂うが、これでマンション一棟は焼けるもの。今すぐにでも焼いてしまいたいが、それよりも袋の粘着面が強すぎて剥がれようとしない。諦めて、軽く叩きつけた。
「……いっそ倒させて下さい。先日彼らが張った結界を細工したのは柘榴なので、替わりに藤と同伴で。状況を踏まえて、これ以上の傍観は一般人は暴走するかと」
『許可します、ただし現実世界領域内への侵犯、一般人の殺傷は厳禁で』
別の人物を同伴とするのは昨日から前提としていた。藤という役員を昨夜招いて泊まらせて別室に待機させた、連絡は届いているはずだが問題なかったらしい。
「
誰も聞くはずのない不毛な空間を、一人呟いて解除する。妙に、脳みその一つ一つが弛む錯覚に見舞われたが、直ぐに思考が冴えとして刺す。
机の上に置かれていた物どもを見遣る。昨日取り出した検体、自分が導きだした言語化ロジック、呪文という名の数式。これらの延長線上で、抽出先に向かうからか、術をかけた記憶はあるが自覚が薄い。それまで、脳はある程度張っているらしい。
これについては解明はほんの少し前のことだった。まだ部長や松山に報告していないが、もしかすると既に知っている可能性はある。
――だが
再三何度やり直しても帰結が同じである以上、彼らが笠井を捩じ込む気が益々知れない。
松山から切られた後、ぐちゃぐちゃになったライターの袋をひっぺがす。驚くほど、するりと剥がれていた。
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