【瀬谷鶴亀/Back in Black】1

  さる師匠から同僚の失恋には、適度の筋肉とエスプリで慰めろとはよく言われた。だがそれ以前の問題だった。

 そもそもあの界隈でハートブレイクだなどたかが知れている。戦場の地で薔薇の花束を持って求婚すれば、向日葵が良かったと振るような常識のない世界だ。機関には初めから、一般人の介入には視野に入れても、一般人への運用には保証しかねる。


 異端者と鼻つまみ者揃いの機関、そしてそれを厄介者とされた最果ての当局なら尚更だ。悔しいが自分もそうであると瀬谷は顔を顰めた。現地に到着すれば問題点などなかったが、全ては座り込んだ笠井の状態から察せられた。


 数歩ほどで触れるくらいには近づいたが、身体の硬直が続き僅かな震えもない。頑なに動くことを止めようとする所作は生存の放棄とも見えるが――いや、しかけているか。

 本人の意地の強さが祟ったか反動は小さくないが、精神的な負荷は強い。瀬谷から見れば、固くした格好は脆弱以外の何者でもなかった。


 ――とは言うが


 この界隈にいすぎたせいでかける言葉を忘れてしまっている。とにかく調べるべきか。

 笠井が食らった衝撃は把握したが、死の痕跡はむしろ治安の悪い街中よりも薄い。魔力を視る肉眼に頼らなくとも、ここに着くまでの喧騒から日常の剣呑は察せる。

 どこをほっつき歩いてもあの街は肺と鼓膜を撫でて削ぐ腐臭と雑音にまみれていた。だがここは違う、物が騒ぐやり場のない、行き止まりの小さな空間にいる。


 なるほど、かの松川という男が路地裏を指定するのもおかしくはない。

 結局夜間は不良共の溜まり場と化するが、昼っぱらから騒がしい内に忍び込めば誰も気付くことはなかった。付近に人がいようが、この無秩序なら無関心にいられる。

 そんな街の小さい場所だ。松川以外の対象者が廃ビルを指定するものと変わりはなく、異世界側も行動しやすい。


 笠井との個人的な相談をする場合――露悪な想像として、「現実世界侵入者」の行動としては常識の範囲内だ。


 ――問題はコイツか


 残されたらしい笠井は明らかに狼狽していた。電話越しで状況説明を述べた際は、無機質で平坦だったと記憶しているが、肉体は正直にこれだ。

 報告に感情を押し殺す訓練は必要不可欠ではあるが、あまりにも人工的な棒読みだった。死んだの言葉を皮切りに説明し始めたが、冷静さを取り戻すより、逃避を選んでいる。


 ――発声統制イルティ・アン誤誘導ファイ・ラ


 念じて、空中に指で描くが反応はない。ただ指先に光る自前の黄金の魔力が、小さく爆ぜて消えた。

 どの言語とも言い難い発音は、松川が所属していたと思われる強欲国の公用語からだ。そこから導かれる魔法は、侵入者が一般人に見つかった際に行われる対策であり難度は低い。魔法学的論理はさておき、これらは余計なことを言わせない魔法と、夢だったと誤解させる魔法だ。


 普通なら、そう、普通なら、本来警戒対象であるはずの笠井に事実を見せるはずがない。どんなに弱かろうが、報告さえすれば強い者が現場に駆け付ける。現に今こうして、笠井の同僚である自分が向かった。そして最悪笠井よりも遥かに厄介な上司の耳にも届く。


 ――おかしい


 笠井がこうやって反応している以上は、その事実を見せつけたことになる。松川の正体がどうあれ、そもそも人間として扱われていた存在が目の前で死ぬのは脅威の他ない。

 彼らが人外だから人間の生命力の弱さを侮った、そんな浅はかさで現実世界に侵入するやつはいるまい。機関は私的情報収集組織で現実世界の人類の役には立たないが、現実世界の味方はいる。そういった奴らから逃れるためにも、異世界側は無闇に死体を出そうとはしない。

 ならば、自分に報告が届いても構いやしない計画であった、そういうことだろうか。


 ――なるほど


 話が大きくなりかけて、休止する。

 これ以上考えて行き着く、恐らく大層な計画は自分らが関わるものではないからだ。自分や笠井は下っ端だ。松川の死すら道具である偉大なるファンタジーな計画を知る資格はない。

 ならなおさら、笠井に説き聞かせる甘い言葉がない。諦めろと、無情に言うしかないと言うのか。


 馬鹿馬鹿しくなり、目の前の調査を優先した。柘榴には笠井と松川については言及せず、ただ来いと言われたのみ言って部長の報告を押し付けた。直に話すのは勘弁したい相手だ、柘榴には死なない程度に頑張ってほしい。


 感知する眼球で笠井の全身を見渡す。部長の保有する物は今は大人しく、彼の全身がうっすらと見えるが、部長以外の物はない。無傷、皮膚の再生に応じる内外にある魔力の活性反応も見られない。

 続いて笠井の足跡。走り回った様子はなく、裏路地から歩いて笠井の今いる地点で停まっていた。となると証言通りに行けば、凶暴な魔物が松川を襲って笠井はただ突っ立っていたことになる。奇妙な構図だ。


 一通り見渡して、笠井の手元に濃い藍色が光るのに気付いた。近寄り、力なく垂れた手を拾い上げる。抵抗もなく大人しい、そっと脈拍を計ったが異常に早かった。白い素手、その指先から強く発光していた。目を細めて現実世界の視覚と合わせると、爪の間に赤い物が詰まっている。すぐに消毒が済んだピンセットをカバンから取り出して、それを刳り取る。脱脂綿に挟めば赤く滲んで染みた。


 長年の経験から肉、そして松川の物だと断定できる。これを上司への報告として――そして黙ってもう一度笠井から採取して自分の物として仕舞い込んだ。今度は丹念に、笠井の爪が白くなるように刳り貫いた。

 ひとまずこれで、上司に報告できる程度の重要参考資料は作成出来る。


「今回はお前は一般人、それで松川……は、独断で踏み入ったって話だ」


 先端が血でまみれたピンセットを拭き取りながら、笠井の様子を伺う。先程計測した頻脈からでも、話を聞いていられる状況ではないと分かる。だからこそ今から教えるべきだと知らしめるべきだった。普通じゃない魔法使いだから、笠井と違って死には動じないと。お前には早いと。


「呪文を、聞いたんです、松川の」


 まだ幼い、ここにいるべきじゃない声だ。まだうまく動かないはずの舌を正常に動かす気概は褒めたい。


「呪文?」

「クォサウ・レイグダイヴ・ディ」


 弱々しく呟いた言葉に、そうかと軽く応えた。普通じゃない自分にとっては難解でもない、ただの魔法の言葉だった。

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