【笠井蓮/Stronger Than You】1
今一度、人が肉になったと知った浮遊感を思い出した。
その次に、最期の灯火が消えた刹那。高校受験に向けて図書館で一人きり勉強した帰りにだ。
死にかけた肉は月の冴え冴えしさはない。ただ、物体から熱を失っていた。まだ生命活動を微々としていながらも、肉は触れると冷え切っていた覚えがある。ゆすれば軽く、ごろんと横たわったまま、物体として存在したのみだった。硬く名状するほどに肉としての弾力を残すのみで、優しい声色を忘れてしまう。不意に、弁当に詰め込まれていた黄色い卵焼きを思い出した。あれよりも冷たく、生気もなく、甘やかさも残さない虚しさだ。
服装からして仕事から帰ったばかりか、黒いタイトスカートが太ももを露出させている。彼女には持病はないと聞いていた。半身の痴態を直さないとしたら、突発的な発作に襲われた最中か。手首と頚動脈を当てれば脈拍が掌に感じない。
不思議と冷静だったと蓮は思い返す。いまいち緊張感のない抑揚がない報告だった。玄関前の受話器よりもカバンにある携帯電話が近いと手に取り、舌は問題なく働く。湿ったままの口腔は嘆きよりも、状況の処理を欲していた。
救急車が来るまでに、意識朦朧とした傷病者に適している仰臥位に寝かせる。顔は青ざめ、乱れきった髪は人工色のブラウンの上で赤く光った。目蓋を閉ざし、唇は半開く。口端に重力に従った唾線が彼女の頬を汚し、髪に粘りついていた。ふと、初めて女を醜いものだと錯誤した。
しかし、と、安静の体位にした亡骸を注目する。何かが足りなかった。ゆっくりと指を伸ばし、唇に爪を立てる。つうと溢れた紅を、指で薄く塗りたくった。
ルージュがなかったのだと、そこでようやく理解した。こみ上げた嫌悪は、どこかで弾けて消えた。
一連の見送りを終えかけても、母親、笠井あやめはもうここにはいないと、知っただけに終わった。
肉は黄ばみ始め、薄緑に腐食する屍蝋に至る。しなる別れ花、彼女を取り囲んだ百合が薫りをたたえた後、やっと可燃物は可燃した。カランと壺に納められ、両手に抱える程度に、彼女は眠った。
ただ、齢14か15には親族の突然死にするべき社会的行いをとれることはない。それを子供ながらの焦燥と悲壮と彼らは捉えたか、誰一人無情だと謗られはしなかった。
黒髪に染めた彼が、大丈夫だと優しく頭を撫でたことを除いて、孤独な日だった。混乱しているならもう少し任せてほしいなど、泣いても良いなどとかける言葉は優しい。
ただ単一的に、画一的に、常套に、彼は優しい所作を以て、母の生涯に幕を閉ざした。
そして間もなく義父に抱かれた。
――よく覚えているな
店内にかかる音楽が暫しの沈黙を置いて、次の曲を流す。その間五秒と言ったところだろうか。
葬式をスムーズに行えるかは定かではないが、生前の熱や声よりも遥かに掘り返しやすい。
過去を思い出すのは人間ならではの習性であり、学習するための宿命らしい。だが過去は過去だ、唐突に湧き上がろうが、そうだったと帰結せざるを得ない。
ただ、しかし、と、蓮は省みる。松川に話したことは大体は事実と反することを言ってしまった。無理心中はドラマチックすぎたと、内心舌打ちする。
正しくは、母は横たわり、心不全を死因として亡くなったとされている。笠井あやめと名の付いた肉が置かれていたと、馬鹿正直に言えるはずはなかった。
――でまかせは良くない
単に努力不足だ。口が勝手に動き長口上でその場しのぎをするような技能くらい備えるべきだった。
フェイクを入り交え過ぎたが、手に取り扱える嘘は冗談であり、少々の事実と同義である。母親を話の肥やしにした暴挙は胸が痛むが、人外の血かその痛みは疼くに至らず鈍く緩い。
母親の顔と声を掘り起こすより先に、胸の重みが引く。水滴がこびりついたグラスを指でなぞる。冷たい。二年経ってしまうと、ここまで死者に冷淡になるだろうか。上手く面影を回想しようにも、姿形があやふやになる。どうにも、肉親を亡くした以来の自分はどこかおかしいと自覚している。ただの人間ではないとは元からだったが、既に諦めて化物として振る舞っているようだった。
「……そういうつもりじゃねえんだけどな」
重々しい松川の返事に、蓮は別にとだけ答えた。今はまだ楽しく死にたくはない以外は大体嘘だが、これ以上詮索されるよりは良い。
何故ならと、松川を見た。浅黒い肌に短めの黒い髪は気性からか無頓着に乱れ、整った顔立ちにアンバランスを加える。不釣り合いさは少年と青年の狭間と形容すべきか、砕けた口調はどこか日向に聞こえた。見た目からは非日常に縁遠い。彼よりも圧倒的に、差し当たりなく引き出せる物がなかった。
質の問題ではなく、笠井蓮という自己は人に引き出すものはないと自覚した。深々とソファに座って足を組み直す。ぽきんと、関節が鳴った。
これ以上、松川から話すことが何もなければ、この仕事は終わりになる。事態は進んでいないが、体感として作業は確実に幕切れへと向かってはいた。
今一度、ドリンクバーで頼んだ烏龍茶を飲む。炭酸水は飲まない、舌に伝う刺激が嫌なものを彷彿とさせて喉が痛むからだ。濁った音を立てたが、松川の表情は変わらなかった。白ぶどうのサワーか何かの気泡のみが、グラスの中でただ上へと浮かんで弾けた。
それが魂魄と奇想するか、単に食欲が失せただろうか。死や嗜虐の非行もエンターテイメントとして消費される常世には、珍しいリアクションだった。
「なあ、魔法少年にならない?」
唯一無二の、リアクション、だった。
脳みそが処理しきれず咳き込む。しわがれた声で何故とだけ返し、喉をさすった。
「アイツもいないけどさ……いつも一人だから」
陽気な性格かはさておき、その頓狂な思考はどこから湧き上がってくるのか皆目検討がつかない。
念のため、周囲を見渡した。魔法少年に反応する客は誰一人おらず、各々で遅い昼食か間食、語らいを楽しんでいる。一息つき、掴んだままのグラスの縁を指で憮然に叩いた。
「一匹狼キャラだって言ったけど」
「そういうの名乗るものか?」
「名乗っとく」
レッテルとしては一匹狼だと蓮は自負している。何も人から嫌われるような行動はしないが、人から好かれる行動をしていない。
そこから一人擦り寄ってくる人間、及川か何かとは一人いるが、蓮自身顔を覚えているかもあやふやだった。一人が好きだからと言ったことは覚えている。ただ、覚えている。
「……話聞いてやる気しないんだけど」
「俺が手伝うしよ」
「魔力とか分からない」
「俺が教えるしさ、友達も出来るだろ」
「いらない」
その食い下がらない姿勢は、彼も加えるべきだろうか。話にならないと伝票を摘もうとするが、松川に手早く取り上げられる。ついでに机上のスマートフォンを拾い上げられた。スマホ自体に重要なものは入ってはいないが、真剣な目付きをしたまま、松川は返そうとしない。
「返せよ」
「お前はこれで良いと思うのか?」
途端、喉のヒリつく。異様に、焼いてそこで何を蠢動されたかが這われていく。幻影、だろうか。それが全身に、次第に髄にまで染み込めば、暑さとは別に背を震いあがらせる。ふと、些事たる言葉だけでこうなってしまう。鼓膜を食い破らされた先の三半規管の酸いも甘いも知ってしまっている。養父は、いつだってそこにいる。
「……脅すみたいに物を取る奴と、ダチにならないのは当たり前だけど」
いつの間にか、なのだろう。及川がまともに見える度に、人間はそれだけであってほしくなる。同属嫌悪、というには違うが、松川は既にこちら側にいるとするなら甘言そのものだろう。甘言。クラスメイトの挙動が、身振りが、どれもこれも精巧に見える。これが、お手本たる「明るい学生」なのだろうと。
「とやかく言えねえけど、お前ガス抜きとかしてんの?」
「しているよ、寝ている時」
「いやそれはさあ、ちげえじゃん」
なぜこんな奴をまた選んでしまったのか、小一時間問いたくなってきた。
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