第5話 今泉動物病院のお話
バスの中は静かだった。乗客は俺も含めて四人だけで、閉め切った車内が広く感じられた。横三列の席に買い物を済ませたのか、大きな袋を隣に置いている母親が子供と眠っていた。微笑ましい。自分が誰かと幸せな家庭を築くのは想像できないが、幸せな家族風景を見るのはとても心に染みる。そういえば以前結婚をするかしないか、はたまたしたいのかどうか、という話を志野と一緒にしたことがある。
『凛空はどっちかっていうと結婚できるだろうな』
『いや別にする気もないんだけど……』
『勿体ねぇ。お前くらい良い物件そんなにないと思うけどな。結婚することの何が嫌なんだ?』
『何かこう、面倒くさそうなんだよ。色々あるぐらいなら一人でいたい』
『はぁ。人間観察が得意な割には、人と馴れ合うのは苦手だよな』
『それとこれとは別なんだよ。……まぁいつか良い人がいれば考えるけど』
『絶対いるだろ。世の中広いんだぜ。』
あの時は考えるなんて言ってみたのだが、現在進行形で結婚する気はない。理由は今でも全く変わっていないし、その理由を覆すような出会いもしてないからだ。でも今は、こいつがいるから構わない。志野には何か言われるだろうが、それでも俺はこいつといられたら良いなと思う。同じような境遇の中で見つけた綺麗な子猫といられたら、それもそれで〝幸せなこと〟だ。とかなんとか思い出している間にも、バスはゆっくりと心地よい揺れで目的地の一つ前の停留所まで来ていた。このバス凄いな。目指している停留所の次まで表示しているじゃないか。新型車か何かかな?いや、普通に俺が知らないだけか。出勤時はバスじゃなくて電車だったからな。知らなくても当然か。
ふと、エコバッグの中を見ると子猫は熟睡だった。もの凄く幸せそうな寝顔で丸まっていた。どうやらこの揺れの気持ち良さには耐えきれなかったらしい。確かにバスの中は眠くなるのだが、エコバッグの中で狭くはないのだろうか?起こさないようにゆっくり立ち上がり一番前まで歩く。目的の停留所〝高松町〟に着いた。財布から小銭を取り出し、集金機のような箱に入れる。どうでも良いけど帰ってからこの名前調べよう。運転手に有難うございましたと一礼をし、下車する。〝どんな時でも人に対する礼を忘れるな〟というのが姉貴の教訓だったからな。良い癖をつけてくれたと思う。運転手さんは驚いていたが、また乗ってくれよと言ってバスを走らせていった。さて、上松さんは降りたらすぐわかると言っていたが何処にあるのだろう?辺りをぐるりと見まわして、俺は絶句した。だって分かり易すぎるくらいに大きな文字で〝今泉動物病院〟と看板に書いてあるのだもの。本当に分かり易い。そしてデカい。自己主張が激しすぎるくらいにデカい。本当に此処だろうかと不安になったが、取り敢えずドアを開いた。
大きな看板とは裏腹に、中はそこまで広くなかった。朝だからか人は誰もいず、心地よい落ち着きだ。左側に靴箱が在り、右側には中々年季の入ったソファが日光で温められていた。そしてその奥には扉が一枚あった。向こうが診察室だろうか?全体的にゆったりとした空間と流れているクラシックで、幾分か時間の進みが遅れているような錯覚を引き起こしていた。
「おはようございますー。ってあれ初診さんですか?」
「あ、はいそうです」
受付には人のよさそうな、ほんわかした人がいた。見た感じは高校生ぐらいだろうか。顔立ちは少し幼く、垂れ眼に眼鏡が良く似合っている。
「あのー、すみません。こちらにお名前の方を記入していただけませんか?」
一枚の紙とボールペンを手渡された。記入するのは名前と住所と、職業。あぁ職業ね職業。……どうしよう?もういっそのこと無職って書いた方が良いのだろうか。いやでも、保険とかどうなるのだろう?やっぱり色々めんどくさくなるのだろうか。本当は言いたくないが仕方がない。
「すみません、自分無職なんですけど……」
「ムショク?……えぇ、無職ですか?ホントに?」
無職という言葉が聞き慣れないからか一瞬戸惑った様子をとった女の子は、信じられなかったのか二度確認を取ってきた。肯定すれば少し引いたような眼で見られた。理不尽だ。そんなに引いたような眼で俺を見ないでほしい。好きで無職になったわけではないからな。
「少々お待ちくださいね。……おとーさんー、何か無職の人来たんだけどー」
止めろ、そんな大声で叫ぶんじゃない。誰もいなくても恥ずかしいだろうが。多少言い方に傷つけられたもののおとなしく待っていると、白衣を纏った男性が出てきた。眼鏡はかけていないが、目元が何処となくさっきの女の子に似ている気がする。優しそうな雰囲気が院内と合わさっている。
「えっと、柏木凛空君だっけ?僕は此処の院長の
「本当ですか?あとで色々めんどくさい事になったりは……」
「しないしない。何か理由があるんでしょ?」
そう言って今泉先生は一片の曇りなく微笑んだ。理解力のある人で助かった。じゃあ取り敢えず記入欄には無職と書いておこう。
「それで、診察してもらいたい子は何処にいるの?」
「あぁ、えっとこの中に……」
途中から存在を忘れていたが、子猫はエコバックの中で熟睡中だった。ごめんね、忘れてて。それにしても上松さんと別れてからずっと寝てたのか。いくら何でも寝すぎじゃないか?
「綺麗な毛並みだねぇ。この子は飼い猫なの?」
「いえ、こう見えても捨て猫なんです。ただ昨日拾ったので、良く分かってないんです」
「捨て猫と無職さんか。中々におもしろいコンビだね」
おもしろいコンビとういう言葉に俺は苦笑いしかできなかったが、今泉先生はよほど気に入ったのか、意味ありげに頷いていた。何というか地に足がついていないというか、ふわふわとした人だな。
「診察は一時間ぐらいかな。その間はどうしようかなぁ。……あ、美緒!」
「どうしたのお父さん?」
「僕が診察している間にさ、柏木君に飼い方を教えてあげてよ」
「あぁうん。分かった」
「適当に紹介するよ。こっちは高校三年生で僕の愛娘の
「今泉美緒です。よろしくお願いします」
「柏木凛空です」
先ほど受付に座っていた女の子は、高校三年生だったのか。親子揃って垂れ眼が印象的で、優しそうな感じだ。
「そうだ柏木君。この子の名前って決めてあるの?」
「ええっと、実はまだ決めてなくて……」
決めていないというよりは、忘れていたという方が正しいか。
「確かに決めにくいよね。名前って」
「そうなんです。どんな名前が合うのかなとか、気に入ってくれるかなとか考えたらキリがなくて」
「ふんふん。なら一つヒントを上げるよ。この子ね、女の子だよ」
「女の子」
「そう、女の子。だから綺麗な名前を考えてあげてね」
じゃあ、診察しようか。そういって今泉さんは診察室に入っていった。女の子かぁ。余計名付けにくくなったような、むしろ名付けやすくなったような。一人悩みふけっていると、肩を叩かれた。
「あの、柏木さん?今から説明したいんですが、大丈夫ですか?」
「え?あぁ、大丈夫です」
「今から私がする説明は十五分ぐらいで終わるので、名前を考える時間はありますよ」
「有難うございます?」
「それでは、こちらの本を見ながら説明しますね。いきますよ?」
キランと眼が光ったような気がした。そして怒涛の説明が始まった。基本的な飼い方から、必要な用具、猫の習性などなどありとあらゆることを叩きこまれた。特に猫の習性に〝驚くと死んだふりをする〟とか〝首をつまむとおとなしくなる〟というのがあるのは驚きだった。そんな濃い内容の説明にかかった時間は、本当に十五分だった。恐るべし今泉美緒。これが動物病院で働く人なのか。
「このぐらいですかね。まだ話したいことは山ほどありますが、名前決めもあるのでこの辺にしましょう」
「あ、有難うございました……」
本当に話し足りないのか、渋々といった様子で説明を終えてくれた。そういえば、外出するときに子猫をどうするかまだ聞いていなかった。長くならないように眼で訴えて、説明してもらうか。
「あの、最後に一つ良いですか?」
「はい?何でしょう?」
「子猫を外に連れ出すときってどうすればいいんですか?」
「基本的に猫は縄張り意識が強いので、外出は控えた方が良いですね。それだけで結構なストレスになることもあるので、一日、二日の外出なら留守番させてても大丈夫です。キャリーバッグもありますが今日みたいに、近場に行くならそのエコバックでも良いんじゃないですか?」
「なるほど」
そんなに外には出ないでしょうが、という言葉は聞こえなかったことにしておこう。こんなに優しそうな子がそんなこと言うはずないよね。しかしまぁ、外出はしない方が良いというのは意外だな。外に出るのでストレスになるという事は、まさしく俺のことではないか。俺が猫に近いのか、はたまた猫が俺に近いのか。取り敢えず今後も仲良くやっていけそうだな。よしよし、では名前の方を考えていきますかね。
####
しばらくして診察室のドアが開いた。今泉先生に抱かれている子猫は、初めて見た時よりも幾分か元気そうに見えた。
「柏木君、特に異常はなかったよこの子。元気そうだし、本当に子猫か疑いたくなるね」
「それは良かったです。変な病気とか持っていたら大変ですので」
「だよね。そうだ、名前は決まった?」
「えっと、はい」
「どんな名前かなぁ。楽しみ」
子猫よりも今泉先生の方が楽しそうにしているのはよく分からないが、多分それだけ動物が好きだという事だろう。子猫の名前を言うだけなのに、緊張してしまう。父さんや母さん、世界中の子供の親は名前を決めるとき、こんなにも緊張していたのだろうか。何かに圧し潰されそうな感覚だ。気に入ってもらえるか分からないが、悩みに悩んだ末の結果を伝えるとしよう。
「雪のように白い毛並みと、小さな体から、小雪にしました」
「小雪。小雪かぁ、うんうん良い名前だね」
「中々いい名前じゃないですか、柏木さん」
「そういってもらえると嬉しいね」
隣を見れば美緒ちゃんも頷いていた。これはかなりいい感じじゃないか?あとは子猫が気に入ってくれるかどうかだ。
「なぁ、子猫。お前は今日から小雪って名前になるんだ。どうだろう?気に入ってくれるかな?」
ゆっくりと丁寧に子猫に名前を伝えれば、嬉しそうに〝にゃあ〟という返事が返ってきた。つまり、小雪という名前を気に入ってくれたのだ。これからよろしくな、小雪。
「捨て猫と無職さんの感動的な場面、撮っておきたいなぁ」
「それは流石にやめてよね、お父さん」
しみじみと言う今泉先生に美緒ちゃんは若干引いていた。というか、今のは俺でも引いたわ。なんにせよこれで色々と終わった、いや始まったわけだ。これから過ごす日常を穏やかに、鮮やかにしていけるように努力しよう。冬空に輝いていたベテルギウスの言うように、俺の存在を少しでも意味あるものにしていこう。静かに、けれども確かに俺は心に誓った。
「じゃあ、柏木君お会計の方なんだけど」
「あ、はい。御いくらでしょうか?」
「診察代と爪切りが千五百円で、血液検査が三千円、尿検査が二千円なので、計八千円だね」
「あれ、そんなもんなんですか?」
思っていたよりも安い。動物の検査なら一万円は軽く超えると思っていたのにな。キランと誰かの眼が光ったような気がした。そして俺は今の言葉がちょっとした地雷だという事に気が付く。これはまた美緒ちゃんが説明を仕掛けてくるのではないかと。その悪い予感は的中し案の定、
「当然です。そもそも動物病院というのはですね、原則として自由診療なので……」
そこからまた怒涛の説明が始まったのは言うまでもない。
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