虹の檸檬(2)

「ねえ君」

 声? 誰かの声が聞こえた。

「ねえってば」

 少女の声だ。僕と同じくらいの。

「だ、誰だ。何処に……」

 僕は咄嗟に後ろを振り返る。すると、そこには真っ白なワンピースを着て、麦わら帽子をかぶった、一人の少女が立っていた。

「ここよ? 君が下を向いてたから、声をかけただけ」

 そういって、彼女は首をかしげる。人だ。僕以外にもこの世界に人がいた。しかし、少々おかしなところがあった。

 僕はこの少女を見た覚えがない。

 今まで見てきたものは、すべて僕の見覚えがあるものだった。あの機械の化け物を除いて。さっき言ったコンビニエンスストアも、下校途中によく立ち寄るところだ。しかしこの少女はあの化け物と同じく見覚えがない。

「ん? 何で不思議そうな顔をしてるの?」

「あ、いや。僕にとって君は見覚えがない。初めて会うなって」

「まあ、そうかもね」

 そうかもね? どういうことだ。僕は彼女に質問をする。

「君は、名前は?」

「うーん……」

 彼女は腕を組んで、苦い顔をする。すると、驚いたことにこう言った。

「分かんない」

「分からない? そんなことは無いだろう。自分の名前くらいあって当然だ」

「でも、分からないものは分からないよ? あったとしてもわからなかったら意味がないじゃない?」

 彼女の言っていることが理解できなかった。名前があってもわからない? それは、無いのと一緒じゃないか。

「本当にわからないのか? じゃあ、何処に住んでるんだ?」

「それもわかんない」

「学校は? 通っているのかい?」

「わかんない」

「歳は?」

「一七」

 歳は分かるらしいが、それ以外の質問はすべてわからないの一言だった。

「……その、この世界は一体どういうことなんだ?」

「さあ、なんでだろうね。私は、気付いたらここにいたんだよ?」

 長い黒髪を弄びながら彼女は言う。彼女が履いているのはサンダルだ。そういえば、僕の最後のほうの記憶では夏だったか?

「まるであてにならないな」

「そうかもね。でも、あの機械の化け物がいる上のほうに何があるかは、知ってるよ」

 驚いた。彼女は化け物を上を通っていったのだろうか。しかし、彼女はこう言った。

「と言っても、あの化け物の上を通っていけたわけじゃなくて、何故だかわかるっていうこと」

「何があるんだ?」

「えーとね」

 彼女は言う。

「あの化け物は、上にある『塔の島』の周りを徘徊して

るの。その塔の上に、何かがあるよ」

 彼女は具体的に説明してはくれなかった。たぶん、何かがあるということは分かるが、何があるかはわからないのだろう。

「塔の島?」

「そう。ここの山の上からちょっとだけ見えるよ。ついてきて!」

 彼女はそう言うと、僕の手を唐突に握り、山の上に駆け出す。いやに元気がいい。こんな場所に放り出されたらくたびれると思うのだが。

 しばらく山を駆け上がって、頂上に着く。周りの乳白色の雲の間に浮島が見えた。そして、はるか上空に少しだけ見える灰色のそれがあった。

 塔だ。ヨーロッパの絵本に出てくるようなイメージ通りの数本の塔。さながら砦のようだ。

「ね? 本当でしょ? でも、私はまだあそこに行けてないんだ。何日も行こうとしたけど、あの化け物に襲われそうで怖いの」

「待って。今、何日もって言ったか? じゃあ、君は何

日前からここにいるんだ?」

「うーん。夜が着た回数から数えて、二八日ぐらいかな?」

 僕と違う。僕はここにきてからまだ二日目だ。どういうことだろうか。

「そこのコンビニやビルに見覚えは無いか?」

「うーん。見たことないかも。君は見覚えがあるの?」

「ああ。僕の街にあるものだよ、全部。逆に君のようにここの上に塔があるなんて知らなかった」

 聳え立つ。聳え立っているというよりか、突き立っているとも表現しやすいその塔は、周りを徘徊する機械の化け物と一体となって、堂々とその存在を見せつけているように感じる。

「君は一体何がしたいんだい?」

 僕は、少女に問う。すると、少女はその白い肌を見せつけるように、くるりと回って腕を後ろに組んだ。彼女の長い黒髪が風でなびく。

「塔に行きたいの」

「……冗談だろう?」

 この少女は正気を失っているのだろうか。あの化け物の前を通り過ぎて、命がある可能性など微塵も感じられない。

「本気だよ。私はあそこのてっぺんまで行ってみたいの」

「なんでまた?」

「君と話す前からも思ってたんだけど。……君と話していて確信に変わった。私は、いや私たちは、あの塔の頂上まで行かないといけない」

 彼女はくすくすと少し笑って、塔を見上げながら僕に近づく。

「君は周りに島として浮かんでいるのが、自分の身の回りのものだとわかっているのでしょう?」

「ああ、そうなんだけど……」

「私はそのことが分からない。記憶が無くなってるだけなのかもしれないけど。でも、この世界のことはよく分かる。あの塔の上に何があるのか以外はね」

 彼女は、説明を始めた。

「何故か分かるんだ。この世界の果てが」

「果て? ずっと向こう側に行ったら何があるんだい?」

「一周して戻ってくるよ。ここにね。私たちはとっても大きな球面上にいるの」

 地球のことだろうか。それにしてもなぜだかわかるという少女の口ぶりは確信に満ちている。仮に、地球の大きさだとして実際に一周してみた筈がない。

「下に行けば行くほど、どんどん島が単純で抽象的になっていく。上に行けば、どんどん島が複雑になる。それで、ある一定地点より上は、化け物で行けなくなってるの」

 確かにそうだった。僕が初めに着地した島にはただの床や簡素な森ぐらいしかなかった。輪郭も少々ぼやけていたような気がする。

「これが君の知らないこの世界の仕組みだよ。今度は、私に分からない、『君の世界のこと』を教えて!」

 少女は、きらきらとした目で僕に顔を近づける。なぜか、僕の頭の奥が疼いたような気がした。

 この子、何処かで見たような。

 少々幼げな顔と、透き通るような白い肌。はきはきとした声。服装はこんな麦藁帽にワンピースとサンダルではなかったはずだが、何処かで、何処かで見たような。しかし、思い出せない。

「何なの?」

「いや、なんでも……ない」

 僕は、頭の中から情報を消して、彼女に僕が元居た世界のことを話す。すると、彼女がこんなことを言った。

「……なんか、分かるのかも。私も、覚えてるような気がする……。でも、はっきりとは思い出せないんだよなぁ」

 彼女も僕の身の回りにいたのか? どういうことなのだろう。僕が通っている学校のこと。周りにはそこそこビルがあって都会だということ。電車で行けばすぐに田舎に着くこと。すべての内容に彼女は頭の中で違和感を覚えたようだった。どうも覚えがあるような無いような。そんな感じがするらしい。

 もしかすると、僕は『元居た世界』に近くて、彼女は『こっちの世界』に近い存在なのかもしれない。

 そもそも、この少女が僕のいた世界にいたという確実な証拠はどこにもないのだ。おそらく人間なのだが。

「そうと決まったら、行こうよ! 周りに何か役立つものがあるかもしれない!」

 少女は、元気な様子で、近くにあるコンビニから食べ物をあさった後、ホームセンターから、様々な器具を取り出してきた。

「それ、何に使うんだい?」

 僕は怪訝な表情をして彼女に話しかけた。すると、彼女はきょとんとした顔で僕に返答する。

「何って? あの化け物をやっつけるんだよ」

「はあ?」

 間の抜けた声が出た。

 彼女は、黙々と持ってきた包丁やら木の棒やらを、一生懸命に切断して釘でとめ、槍のようなものを何本もせっせと作っている。

「本気なのか? 何もそこまでしなくても」

「しないといけないの。だって、塔にたどり着いても攻撃されるかもしれないじゃない?」

「それはそうだけど……」

「機械の化け物には隙間がたくさんある。その隙間の間にこの槍を差し込めれば、動作を封じられるかも……」

 まずい。この頭がどうにかなった少女を何とか止めなければ。僕には何の関係もなさそうな彼女だが、この世界に来てから唯一会った人間でもある。

「さすがにそれは……、無理なんじゃないか? あんな危なっかしい化け物に、そんながらくたの槍で通るわけがない」

「でも、他にこの世界で生きていく方法はないよ? そこに在る建物の中に食料があったけど、そのうち尽きちゃうだろうし。あ、でもどうかな? 補充されるのかも」

 少女はぶつぶつと言いながら、槍を何本も作って重さを確かめる。どうしたらよいのだろうか。

 とにかく、食料を集めなくては。それにこの少女を止める方法を探さないと。

 僕は、コンビニエンスストアがある島へ向かってありったけの食料を持ち出した。

 すると、空が暗くなり始める。

「あれ……。これって……?」

 すると、少女が答えた。

「夜だね! じゃあ、私はあっち側のベッドの部屋で寝るよ。おやすみ!」

 少女は、僕から二、三個のおにぎりを掴んで取ると、奥の島へととことこと歩いていったのだった。

 僕も寝ようか。

 持ってきたサンドイッチをほおばりながら、ベッドか布団がありそうな島を探した。そのまま夜が過ぎていく。あたりを照らすのは、血魔に設置してある街灯と、化け物の吹く炎だけだった。

 三日目になった。僕は寝ぼけた眼で、あたりを見回す。

「あー。たっぱりここだったんだ。探したよ!」

 なぜか目の前には微笑んでいる例の少女がいた。

「……なぜここにいるんだ?」

「だってー。探しても見つからないんだもん」

「探して見つからないならとっとと帰ればいいのに」

 少々冷たいことを言ってみる。

「でも、せっかく見つけた私以外の人間だよ? 心配になるし、なにより、あの化け物と闘ってもらわなくちゃ。男なんだし」

 この少女、どうやら自分は戦わずに僕にあの槍を使わせるつもりらしい。頭がおかしいにもほどがある。しかし、放っておいて死なせるのも嫌だ。どうするべきか。

「遠くから槍を投げるの。うまく隙間に食い込めば、化け物がいる島に行けるかもね」

「じゃあ、仮にその島に行ってさらに化け物がいたらどうするんだ」

「さあ、知らない」

 さらり、と少女は言った。だめだ。まるで論理的な会話が通りそうにない。大体この少女は誰なんだ。何のために塔へ登ろうとしている。

「でもね。私たちはあの塔へ登らなきゃいけないの。絶対に、絶対にね」

「……僕は断る。死ぬのは嫌だからな」

 すると少女は、しゅん、とした顔で、槍を持った。

「そう? 私は、こんなに生きようとしているのに、君

は、死にたがるの?」

 意味が分からない。

「何のことだ? むしろ死にたがっているのは君のほうじゃないか?」

「ううん」

 彼女は、まっすぐな瞳で僕を見つめる。

「{この世界で腐っていこうとしているのは、紛れもない君}。生きるって言うのは、生存していることじゃないんだよ!」

 少女は、そう叫ぶと、化け物のほうに槍を数本抱えて走っていく。

「ま、待つんだ! 君!」

 彼女は、振り向いた化け物に、一本、また一本と槍を浴びせた。彼女の歩咲く白い腕が、唸るように振られる。

 ガガガガガガガッ!

 機械の化け物が、彼女のほうを向いた。まずい。

「だああああ!」

 叫び声をあげながら、僕は咄嗟に少女のほうへ駆け寄った。ガシャンと機械の音が鳴る。

 轟音を張り上げながら突っ込んでくる機械振り抜いて、僕は彼女の手を引いて、塔の島側にたどり着いた。

「ふぅ……ふぅ……」

 彼女は息が苦しそうだ。僕も、心臓が破裂するように感じた。しかし、落ち着くと僕は彼女に叫んだ。

「なんて危ない真似を!」

 しかし、彼女はフフフと笑うだけだ。

「……君は、生きてるんだね。ちゃんと」

「だから、何のことだ! 機械の化け物に追いつかれていたらどうなっていたことか!」

「でも、ああしないと生きていけないよ。私も君も。『君は外の世界に引きこもろうとしていたんだから』」

 外の世界に引きこもる? 引きこもるなら家じゃないのか?

「ねえ、私は、この塔の上に行きたくて行きたくて仕方がないの! 早く階段を上がろう!」

 彼女は元気なはきはきとした口調でそう言った。そのまま階段を駆け上がる。

「おい!」

 僕も、その後に続いた。螺旋階段があると思ったら、交差している階段が続いていたり、一本が二つに分かれているところもある。何から何まで入り組んでいるのだ。

「もうちょっと、もうちょっとだから」

 少女はさっきからそう言っているが、見上げればもっと先がある。まだ十分の一も歩いていないのではないだろうか。しかし彼女は、みるみるうちに疲れ切っていく。普段運動をしないのだろうか。


 あっというまに、頂上に入った。突風が吹きつけてきて、今にもとばされそうだ。

「これで、……」

 少女は。

「おい、どうかしたか?」

「ううん。ありがとう。ここまで付いてきてくれて」

「ああ、ところで、ここからどうすればいいんだ?」

 少女は、答えなかった。

「おい」

「すぐに分かるよ」

 すると、空に虹がかかった。こんなに間近にあるということは、本物の虹ではないのだろう。

「貴方は、もっと生きてね」

 少女は言った。普通は意味が分からない文なのだろうが、僕には意味が分かった。

「ああ、生きるさ」

 僕は、虹の中へと飛んでいき、そして。

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