猫夢(5)

 九日目。

 近頃、教室の学徒どもが僕の陰口を言っているように思えて仕方がない。僕の研究案が却下されてから、その思いが強くなったのである。ただの思い込みで済めばよいのだが、どうにも頭から振り払えない。今日も僕が教室に入るときに、黒板の近くで屯している女子数人が、くすくすと堪えるように笑っていた。学園祭で、クラスの出し物を決定するときにも、二変数関数に関した戯言を、男子の生徒が言っていた。断じて、筋が違うことを僕は言っていない。至極合理的に行動しているのに、無知な学徒どもは、徒に勉学の時間を浪費しているだけなのである。

 今日も僕は路地へと向かう。あたりには積乱雲が広がっており、もうすぐ豪雨が来るであろうと考えられる。しかし、傘をさして猫に会いに行くのだ。案の定、いきなり雨が降ってきた。

「やあ、今日の天気は全く、酷いものだ。憂鬱にもなるさ。君は、今日も会いに来たね」

 猫は既に、いつも通りの場所に丸まっていた。何故なのだろう。この猫は、少々弱っているように見える。そして同時に上品にも見えるのである。

「黒猫君。なぜ君は僕に話しかける?」

「その問いには以前答えたような気がするな。興味があるのだよ」

「実は違うのではないか? 僕の妄想であれば、君は僕自身のような気がする」

「何を、血迷ったようなことを言っているのだね? 私の助言は、自分自身から来たものだと、そう主張したいのかね?」

 僕は、そのまま肯定した。この猫と話しているままではいけないような気がしたのである。この猫との会話に決着をつけよう。

「そう、そうなのだ。この出来事の一切が僕の妄想であれば、君は僕の内の何かなのだ。陳腐な解答だが、僕はこれが真実だと思っている」

「ほう、また興味深いことを口にしたな」

 黒猫は、路地の奥へ歩いていく。僕もそれに続く。

「小説などでよくあることだが、その筋がないとも言いきれない。何処かの誰かの言葉に「事実は小説より奇なり」というのが在ったな」

 黒猫は、そうぶつぶつと呟きながら、路地裏を進んでゆく。商店街を抜けた。また、路地裏に入る。

「君自身は、どう在りたいのかね? 誠実に生きている賢者か? それとも合理的に生きている学者か? はたまた、頂点を狙う政治家か?」

 これは、難解な問いであった。思い返してみれば、黒猫の言葉は常に難解で、真理を突く、針の如く鋭いものであった。存在している世界、次元が違うと感じさせる。

「嗚呼、そこで悩んでいても仕方ない。歩きながら話をしようではないか。最も、今までの君は学者に近かったがね」

 今までのとは、どのような意味であろう。今の自分は、全く変わっていないと感じるのだが。

「君の自意識の根底、極限は、自尊心等ではなく徹底した主義がためであった。だが、君は私との対話で、その主義の使い道を覚えつつある」

 黒猫は、そのまま話を続ける。

「君の、いわば超自我がそれを察知し、この出来事が妄想であり私は君の一部として助言をした、なぞという結論を導き出させたのではないかね?」

「そういえば、最近教室の学徒どもが僕の陰口を言っているような気がするのだ。これは、どうすれば良い?」

 僕は、咄嗟に質問した。この猫に感銘を感じながら。

「もう、答えは解っているのではないかね? それに、今の君ならば、私の言った嫌味、傲慢、無知の意味も分かるだろう。何事も、一方を取れば他方が立つ」

猫は遠くを見るような目をして、路地裏のさらに奥へと進んでいった。

 十日目。

 僕は、学校に行き友人と話すよう努めた。初めのうちは、気味悪がられたものの、僕は付き合いが良くなるよう向上に努めた。しかし、僕の姿勢は崩さない。常に博学を以て接し、文化人の態度を崩さないように行動したのである。

 絵画の如く快晴で雲一つない今日の放課後。勿論、路地裏のあの猫に会いに行くのである。

「やあ、君と話すのはこれで十回目だ」

 黒猫は、相変わらず品の良い毛並みを持って、僕のほうへと双眸を向けた。しかし、目を凝らしてみると、弱っているようにも見える。それもかなりのものだ。

「まあ、私も何故自分が弱っているのか分からないよ。全くだね。しかし、君と話していたい私に対して、君は私との会話を断ちたいように見えるのだが? 合っているかね?」

 黒猫は、段ボールの山の陰で丸くなって口にした。

「いかにもそうだ。僕は君と話してばかりいられないと悟ったのだ。しかし、物事にはけじめというものがある。是非、君ときちんとした会話をして終わりにしたいが、時宜が見つからない。どうしたものか」

 僕は、非常に賢明で高慢ちきで、そしてその姿勢を解っていても崩さない、実のところ非合理主義者でもあったのである。そこを嘗ての僕は勘違いしていた。自信をただの合理主義だと決定していたのである。

「君が二変数関数に興味があるのも、傲慢なのも、博学に長けているのも分かっているつもりだよ。しかし、それを周りの人間と擦り合わせていかなければならないのもまた事実」

 黒猫は、ぐっと伸びをして、また丸くなる。揺られずに体に巻いている尻尾が、弱っていることを強調している。

「未だに私は何者なのかよくわからぬ。君は私を猫の皮を被った悪魔かもしれないと言ったね。本当はそうかもしれない。しかし、私は君にとって品の良い黒猫のようだ。ならば、黒猫という一つの属性を獲得することも可能なのだろう。それは、非常に有難い」

 黒猫は、さらに続けた。

「君も、自分の在るべき姿を知りたいのであれば、安易に自分で決定しようとせずに、他人に聞いてみると良い。有意義な答えが返ってくるかどうかに関わらず、ね。今日は君なりに他者と関わろうと努力したようだ」

「何故、分かるのだね?」

 僕は、不思議だった。この黒猫は、僕のことを高校生としか知らないと言ったが、あれは嘘ではないのか。

「私との話を止めようとした時点でだよ。君は、私なんぞよりも、同年代やその先輩から学ぶべきだ」

「そんなことを言うのかね君は。これほど素晴らしい猫であるのに?」

「君は、このまま妄想に浸っていたいのかね?」

 肯定はできなかった。肯定するなど微塵も思わなかった。

「僕は」

 そう、僕はその言葉を口にしたのであった。

「夢から醒めるべき人間である」

 黒猫の輪郭がぼやける。同時に陽炎、蜃気楼

の如く視界が揺れ、僕はその場に倒れこんだ。

 いくら眠っていたか、全く想像できぬ。ただ、あの黒猫はなんだったのかと思うだけである。あの後、通りかかったクラスメートが僕に気付き、起こしてくれたのを覚えている。家に急いで帰るので、時計などあまり見ていなかったが、二時間ほどあの路地で眠りこけていたのだと推測できた。

 あれから、送る日々も実にまずまずの日々である。しかし、今までより有意義だと思うようになった。教室にいる生徒たちは、相変わらず無知であるが、何故か苛立つことは少ない。それなりに会話をこなすようになった。

 しかし、不可解なことがあった。僕の体、正確に言えば、左手首に傷が付いていたのだ。親に事情を聴いてみると、一週間前の月曜日の朝、僕は衝動的に刃物で左手首を傷つけて涙を流していたらしい。精神科で病だと診断され、それからは、学校に行くのを控えていたのだという。

 当然の如く僕にはその覚えがない。しかし、そのことを話す気にもない。記憶が飛んだのであろう。しかし、僕の学校に通っていた記憶は一体何だったのであろうか。

親に聞いた話では、僕は療養中はほとんど寝て生活をしていたらしい。その時の記憶がほとんどないのも頷ける。よく自分の体を見ると、妙にげっそりと痩せていて、ほとんど食べずに運動もしていなかったのであろうと考えられる。

 学校では、研究テーマが僕のいない間に決まっていないと知って、少々安心した。勿論、二変数関数の曲面についてプレゼンテーションをするつもりである。傲慢で固い気質は直しようがないのかもしれぬ。

 あの黒猫との会話が、夢なのか、妄想なのか、幻覚なのか、未だに見当がつかぬ。最後に、僕は夢から覚めるべき人間である、と黒猫に告げた。本当に僕は夢から覚めたのであろうか。いや、覚めたに違いない。僕は、学校を休む前と比べて、少々変わった気がする。

 あれ以降、一度だけ例の路地裏を訪れてみた。予想はしていたが、黒猫は待っていない。いや、正確に言えば、飼い猫らしき黒い毛を持った猫は一匹いたのだが、僕に向かってにゃあと一度鳴くと、当然の如くすぐさま逃げて行ってしまった。

 僕は、あの十日間を夢だと考えることとした。熟れた林檎が木から地面へと落ちるように、常識的な考え方である。もっとも、夢にしては酷く哲学的であったが。

 僕の研究案は、夢と同じく結局採用されることは無かった。ただ、僕が助けられる研究は助けようと思う。夢を見た後、素直になったと言われることが多くなった。あの黒猫の言葉の影響だろうか、堅苦しくなったとも言われた。

 そもそも、本当に僕は夢から醒めるべきだったのだろうか。いや、醒めるべきであったに違いない。あの猫は本当に僕の一部であったのであろうか。考察ができることではある。黒猫は一種の暗喩であるとも、とれるのだろう。しかし、僕は脳細胞が狂気で満ちていくのを感じて、考えるのを止めることにした。何事も引きずるのはよくないのである。

 今日も、実にまずまずの日々であった。そう言えるような、高校生活を送っていきたい。あの黒猫の言う、嫌味、傲慢、無知に関しては、まだ明確な解答は出ていない。実を言えば、そこまで拘るようなものでもないのである。

 しかし、時折ふっと思うのである。ベッドに寝転がって眠りに落ちそうになるたびに、その考えが脳内を占拠してやまない。

 嗚呼、また夢のどこかで、あの博学多才の黒猫に出会えはしないかと。幻想の彼方へと消え去った、人間の言葉を話す奇怪な黒猫と、また言葉を交わせはしないかと。

 しかしそれ以降、頭の良い黒猫の夢を見ることは無かった。

 学校の研究も学園祭もうまくいくのであろう。

 僕はそれらを見て、また無知だと嗤うのであろう。

「いや待て。それを嘲笑する僕も嫌味で傲慢で、そして無知なのではないか?」

 そう、思わず校門の前で口にした。

 あの黒猫が夢に出てきた訳が、解った気がした。

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