猫夢(4)

 七日目。

 至極真っ当な意見を述べて笑われるのは、聴く者の妄信が原因であり、話すものの芯の強さが原因である。

 僕は、路地裏へと走った。

「やあ、傘は忘れなかったようだ。昨日の話の続きだ」

 黒猫は、段ボールの陰に丸まって寝ころんでいた。しかし、愛らしさは感じさせない。

「僕が人間である故だ。妄信や妄想が虚無であれば、それは君のような人間以外のものに近くなるのだ」

「なるほど」

 黒猫は一瞬黙った。僕の意見が不十分であったのか、それとも全く納得できなかったのか。納得できなかっただけで、理解できなかったわけではないであろう。

「普通は、理性があるから人間とするところなのだが。君はその理性の中に、蟠りがあるからこそ、と主張したいわけだね」

 僕は肯定した。頭のうちにこの猫の視線が焼き付く。

「では、君の話していた学徒たちのほうが、よっぽど人間らしいということにはならないかね?」

 僕の意識は覚醒した。そうだ。そうであるのだ。あの無知な学徒どもに何かしらの不可思議な興味を抱いた原因は、そこに在ったのだ。雑念、俗物に代表されるうちの思春期のクラスメートは、その根底にある人間らしさの象徴として僕の中に存在していたのである。

「ああ、人間らしいのかもしれない。僕の抱いている不可解な劣等感の根源は、そこに在ると言えよう。しかし、無知は罪だ。罪でなくとも、非合理なのだ」

「君のその根底への執着は、君自身を人間足らしめるものだったのだね」

 すると、猫はその場でくるりと回った。そして、一つにゃあと鳴いた。この黒猫の猫としての鳴き声は初めて聞いた。

「それでは、また明日。今日は早いが、もう帰るといいよ。私は、明日ここにいる」

 そのまま黒猫は路地裏に走っていった。雨を避けているようにも見えた。

 八日目。

 実に不愉快な日であった。結局のところ、僕の論が学校で理解されることは無かった。あの学徒どもは、高度で実利的研究よりも、ただの周りとの協調を選択したのだ。多少の理解の努力はしてもらいたかったのだが、失敗を恐れる無知な人間ほど浅ましいものはない。

 ごく最近、あの猫の存在が気になってきた。なぜあのような猫が存在、もしくは夢に出てくるのだろうか。偶然や潜在意識、と言ってしまえばそれまでだが、どうに

もそれだけではない気がする。

「おお、来たのかね。今日はよく晴れているな」

 黒猫は、上質な毛並みを見せつけるように、すらりとこちらへ近づいてきた。

「質問がある。君はどこから来たのだ?」

「はて? どこから来たのだろうな」

 はぐらかしているのか、もしくは本当に知らないのか。

「知らないのか、回答できないのか教えてはくれないか?」

「うむ、知らない」

 やはり知らないのだ。この黒猫は、自分の所在の所以を理解していない。これだけ知識と才に長ける存在が、どうしてなのであろう。

「何故知らないのか分かるかね?」

「いや、とんとわからないね。自分がどこに住まっているのか、どこで生まれたのか。何故知らないのかすら分からないのだ。夏目漱石の猫のように、所在が明らかではないのだよ」

「名前は分かるのかい?」

「かの名文を取って、「名前はまだ無い」と言っておこうか。君は今まで通り、黒猫君と呼称してくれれば有り難いよ」

「じゃあ、君はこれが夢や妄想、幻覚だと思うかね?」

「それを私に聞いて意味はあるのかい?」

 また、質問で返してきた。黒猫は、尻尾をいつも通り左右に振って、こちらをちらりと見つめる。目は鋭い。

「確かに、これを夢や妄想だとすると夢の住人である君に聞いたところで何の役にも立たないかもしれない。しかし、君に確固たる自我が存在しているか感じたいのだ」

「確認ではなく感じると表現したね、何故なのか?」

「僕はこの出来事を主観的に見たいから、ただそれだけなのだ」

 一人称の大切さというものをこの黒猫との会話で知った。この出来事が百鬼夜行の一部であろうが、僕は惹かれる。確認などと言ってしまっては、三人称的な論理性が含まれてしまうであろう。

「君はどう思う? さあ、答えてくれたまえ」

「実は私にもよくわからない。もしかすれば夢の住人なのかもしれぬがな。そうとなれば、君だって夢幻に住まう者という仮説も出てくる」

「それは嫌なものだ」

 微量の嫌悪感を抱いた僕は、少しの間黒猫から目を逸らした。近くの駅が太陽に照らされ、まるで絵画のように映る。僕はこの猫に恐怖を抱いているとも言えるし、敬意を持っているとも言える。本当のところはどうなのだろうか。

「ところで、学校のほうでの研究はうまくいっているのかね?」

「いや、結局のところ僕の研究テーマは却下されてしまったよ。無知なものばかりだ、全く」

「相変わらず、その傲慢な態度は変えようとしないのだね。私に諭されて心を入れ替えたのかと考えていたが」

「まさか、そんなことはあるまい。僕は間違っていることは言っても、筋が違うことを言うつもりはないのだよ、黒猫君。事実、僕は君に恐怖してもいるが、この態度を改めるつもりもない」

 黒猫は、目を見開いて座り込んだ。そうした後に、積んである段ボールの山の上にさっと乗る。実にこの黒猫は素早い。

「君、本当に人間以外のものになるのかもな?」

 恐ろしく変なことを言う猫である。変身するということか。

「中島敦の山月記を読んだのか」

 僕は、腕を組んで猫と目線を合わせた。

「そうさね。自意識や、自尊心に苛まれて、君の場合、私のような奇怪な猫になるかもしれない」

「全く、面白いことを言う黒猫だ。このままいくと、君のようになる、か。なるほど、よく言ったものだ。確かに君のようにはなりたくない」

 しかし、僕は怪奇短編でよく見かける場合を思いついたので、直接黒猫に尋ねた。

「もしかして、君がその実例なのかね?」

「いや、さっきのは本当に冗談なのだよ。君が私のようになって、私が人間となるなどということは起こらないさ」

 黒猫はそういった後に、大分間を開けて、こう告げた。

「では、また今度。明日会おう」

 黒猫は、僕が返事をすると路地裏の奥へといった。僕はまた、追いかけることをしなかった。

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