猫夢(2)
三日目。
僕は、校門を出てまっすぐ進む。今日は文芸部の活動が久しぶりにあった。皆、僕などはとても及ばないような文化人で、小説の質もよい。そして、昨日の通り、蜜柑が印刷されている段ボールが積んである、路地裏に来たのだ。
「やあ、待っていたよ」
例によってその猫は存在していた。勿論、僕の妄想にすぎないという説が否定されたわけではないのだが。そしてこれもまた例によって黒猫は、その輝く双眸をこちらに向ける。決して表情はあまり変えない。紳士のような固い声で、その黒猫は僕に語り掛ける。
「今日は何を話そうかね?」
今日話す内容など昨日会話を終えたときに決まっていた。この猫ならば理解してくれる。
「二変数関数の研究を学校で上げたのだが、数日前他のクラスメートに嗤われてしまってね。どうしたものかと悩んでいる」
「ほう」
すると、この黒猫は初めて考えるようなそぶりを僕に見せた。それは意図的なのかごく自然なのかはとんと判別がつかなかった。この黒猫の妙な理由が分かった気がする。動物好きが言う、愛らしさなるものがまるで感じられない。僕が単に動物嫌いである故ではない。この猫の動きや、面白おかしそうに人間を見つめるその眼差しが、万人にそう感じさせるだろう。
「君の考えは、少々小難しいところがあるね。二変数関数の曲面については様々な研究がなされているが、大学の分野にも足を踏み込まねばなるまい。そこらの高校生が調べられるような研究材料など無に等しいのだろう」
「しかし、僕達は都内で一番の進学校の生徒なのだ。それくらいはできるのではないのか?」
「君は、自慢がしたいのか、嫌味が言いたいのか解らない。高等数学が理解できない生徒がいることがどうして予測できないのかね? それとも、単に自分の理解力の凄さを誇示していたいだけなのかね?」
また、腹が立つ。しかし、すぐに頭の熱は消えた。この猫の言葉には、人間を冷静にさせて、知力が伴う会話に誘導する、怪しげな力が存在するような気がする。
「いや、純粋に腹が立っただけなのだ。理解ができないことにではない。それを、おふざけにまでもっていったことなのだ」
「それじゃあ君は傲慢だよ。非常に傲慢な人間だ」
この黒猫の言う意味が解らない。この意見の何が傲慢なのだろうか。驕り高ぶっている自覚がないだけなのだろうか。
「今の話を自尊心の向上に使うようであれば、君は嫌味な人間だ。ただ怒りをぶちまけたなら、君は傲慢な人間だ。そして、無感情に口走ったのであれば、君は無知な人間だ。どれをとっても、そんなことを思った時点で、君は大分恥じなければならない」
黒猫は、高く積みあがった段ボールの上まで素早く登り、僕を澄んだ瞳で見下しながら、そう言った。黒猫は、あたかも自分が哲学的才能を伴った文豪かのように、そして諭すかのように言い放ったのだ。
「僕は恥ずべき人間だとでも?」
思わずそう聞き返す。
「いや、君が恥ずべき人間なのかどうかではない。さっきの発言が恥ずべきところであり、君がそれに気づいていないようだから、私は言ったまでなのだ」
今日は、昨日同様曇り空なので、黒猫の虹彩は暗闇の中、丸く広がっている。その眼を強調させるかのように黒猫は、ぐいっと顔をこちらに寄せ、また口を開く。
「それにしても、君はなんと煩雑な思考を有していることだろう」
「どういう意味だね」
煩雑なのであろうか。少なくとも僕にその認識はない。黒猫は、座るのをやめて僕をじろりと睨めつけた。
「この話は次にしようか。今日はもう帰るといい。どうも有り難う。おかげで君に俄然興味が湧いた」
ゆったりとした口調で黒猫は言うと、すたすたと路地の奥へ消える。僕は追いかけることをしなかった。この興味深い幻想が終わってしまうような気がしたからである。そのあとは、いつもどおりの無難な日常を過ごした。その後。深い眠りに落ちていった。
四日目。
今日は木曜日である。疲れが溜まるところなのだが、黒猫との会話のことを考えると、何故だか活力が湧いた。昨日の如く駅の近くの路地裏へと向かう。しかし、黒猫の姿は探しても見当たらない。すると、路地裏の奥からしなやかなその猫が歩いてきた。
「おお、今回は君のほうが早かったようだね。遅れて済まない」
猫は礼儀正しくちょこんと座る。そのときの動作が御辞儀に見えなくもない。
「煩雑な思考というのはどういう意味なんだい?」
僕は、猫に素早く質問する。今日は雨なので、僕は傘をさして段ボールの山に座った。黒猫も同じようにして、段ボールの陰に座っている。
「そのままの意味だよ。君は高度な才能を持ちながら、それを他の人間にも強要する。または、強要したがる。それの何が楽しいのかね? 私はわからない」
「楽しくなんかないさ。向上心の無さに怒っているのだ、僕は。もっと努力をすれば、得られる知識や世界があるのに、それをしない人間が許せないのだ」
「では、ますます煩雑だね。そんなことではこの先楽しく生きていけないのは解っている筈だよ。それでもその主義を主張して他人に押し付けようとするのは、君の芯が強すぎるからだ」
猫は、また僕を嘲笑するような言い方をする。ひょっとして馬鹿にされているのではあるまいか。
「どうすればいいのかね?」
「簡単なことさ。君自身のレゾンデートルは、向上にある。それをもう少し柔軟にすればよい」
「例えば?」
「向上ではなく、あくまでも向上する姿勢としてはどうかね? クラスメートに勧めて冗談の種にされるようであれば、そのクラスメートの姿勢を受け入れるのだ」
「まあ、努力をすればそれで良い、ということだね?」
「その通りだよ。やはり君は頭が良い」
黒猫はそういうと、段ボールの陰でまた、欠伸のような動作をした。
その様子を眺めていた僕は、顎に手をやった。いったい、この状況の何がおかしいのだろう。猫と会話をしている。それは解っている。真面目に科学的に思考すれば不可解、いや不可能であることがいくつでも思いつく。しかし、僕の精神はそのことを安易に受容し、尚且つ冷静にこの奇怪な黒猫と言葉を交わしているのである。
「君は、僕へ助言をした。そこに何の意図がある?」
「何の意図もない。純粋に君への興味だ」
猫は、座るのをやめて、また歩き始めた。
「今日はここまでとしようか。また来るといい」
その後は、昨日と全くと言っていいほど同じ、無難な日々を過ごした。
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