K-sukelemonの短編集

玲門啓介

猫夢(1)

 猫夢              

                              K-sukelemon


 一日目。

 実にまずまずの日々であった。空虚な日々だった。今日の学校も、何事もなく無難に終わった。

 僕は、高校二年生だ。都内屈指の私立進学校へ通い、勉学に励む高校生である。しかし、少々腹の虫がおさまらぬことがあったのは嘘ではない。

 今日の二時間目のことだ。学校の総合学習の時間に、僕は研究テーマの候補に二変数関数で表される曲面の研究を挙げた。少なくとも、理系クラスで都内一の学校の生徒である。少しは興味を示してもらえるとそう思っていたころが僕にもあった。

 あの者どもは、馬鹿にした。

 冗談の種に二変数関数を使ったのである。

 事細かに説明したほうが良いのはわかっているつもりであるが、これ以上説明するのは嫌になるほどに、腹が立った。

 しかし、腹を立ててばかりもいられぬ。馬鹿にするほどに無知なあの学徒どもに数学の面白さをプレゼンテーションできなかった僕も、また悪かった。今度こそは、理解を示してもらおう。そう心に決めた僕は、ずんずんと歩いて、聳え立つ白色の学校を後にした。

 やがて駅に着いた。この電車に乗って家まで帰る。いつも通りそうなる筈であった。しかし、自分は。そう、何を血迷ったのか知らぬが、急に近くにある路地に入り込みたくなった。ただ狂気に駆られたわけではない。なにか、物音がしたような気がしたのだ。僕は、すぐさま、その音の正体を掴もうとリュックを背負ったまま、路地裏に入り込む。特に運動がうまいわけでもない。リュックを背負ったまま駆け出したので、胸が痛む。貧弱な生徒だ。そして、あたりを見回した。

 特に何もない。人の気配もない。

 そう、人の気配はなかった。

 しかし、奇妙なことだ。そこらに置いてあった、段ボールのそばから、音がする。

 ここで説明しておくと、わざわざ古風な表現、例えるなら、明治時代の文豪のような表現をしているのは、単に僕が好きだからである。これでも、平成の春に生きている一六歳。普段から、古風な表現など使いはしない。

 音はしばらくするとやんだ。

 しかし、またしても僕はここで止まっていた。普通なら数秒もせずに、気のせいかと納得して帰るところであろう。しかし、僕は止まっていた。なにも、僕には常人には見抜けぬものを見抜く才能があるなんぞ言いたいわけではない。ただ、興味があるものには、悉く心を掴まれるものなのだ。ただじぃーっと。眺めているだけである。その段ボールには蜜柑が印刷されてあった。

 路地裏から空を見上げると、絵に描いたように豊かな青空が、こちらを向いている。正確に言えばこちらを向いているような気がした。こんな路地裏に来るのは、煙草を吸いにきたサラリーマン程度のものだ。僕はここで何をやっているのだろう。そろそろ、自分で自分がばかばかしくなってくる。電車はとうの昔に行ってしまい、僕はただ、次までの時間をとぼとぼと歩いているような気がする。

 数分経っても僕はそこにいた。いったいなぜそこに惹かれるのだろうか。すると、段ボールの陰から、黒い丸みを帯びた何かが、物凄いスピードでかけていったのだ。なんなのだろう。実に不思議な感覚だった。今までの答えがそれである気がしないでもない。その黒い何かが、過ぎ去った後を追いかける。しかしもう、その黒いものは姿を消していた。もう帰るしかないのか。僕は帰りたくなかった。もう少し、情緒的なこの学校の風景とやらを見てから帰ろうか。何かは知らないが、僕は何かと理由をつけて家に帰るのを遅らせる傾向にあるようだ。と、分析に臨む。顎に手をやって、しばらく考える。二変数関数の面白さを教えるにはどうしたらよいか、そればかりが頭に浮かぶ。

 すると、視界にその黒いものが飛び込んだ。まただ。そして、すかさず黒色の何かを眼で追った。今度はその輪郭をはっきりと鮮明にとらえた。そして、黒いものは、長い尻尾でバランスを取りながら、積み上げられた段ボールの塊に、ちょこんと座った。まさしく、ちょこんという言葉が適切であった。

 猫である。

 本当にただの黒猫だ。

 しかし僕はここで、なんだ猫か、とは思わない。別段、猫が大好きというわけでもない。と言うよりか、ほんの少し、嫌いである。しかし、しかし僕は、猫に話しかける。

「二変数関数は、面白いものだろう?」

 猫からの返事はない。当たり前だろう。

「そうは思わないかね?」

 やはり返事はない。当たり前だ。自明であった。そもそも、猫が二変数関数を理解し、尚且つ(六)面白いなどと言ったら、あの無知な学徒どもはこの猫以下ということになってしまう。いや、以下という言い方はおかしいか。価値観が違って面白いと感じないならば、それは多様性である。安易に上下をつけてはいけない。そして、その前に猫が人間の言語を論理的に理解し、自ら話すなどという非現実的なことは、起こり得る筈もない。

 そして、猫は動かず僕を見つめる。首輪がついていないので、そこらの野良猫だろうか。それともただの放し飼いだろうか。どちらにしても、肝が据わった猫である。普通、逃げると考えられるのだが、この黒猫は、そのきらりと輝く両目をこちらへ向けつつ興味深そうな表情で、眺める。僕の何が物珍しいのだろうか。

「うちのクラスメートは二変数関数をこれっぽっちも解っていないくせをして、冗談の種にして笑うのだ。ひどいだろう?」

また、話しかける。しかし、黒猫は動かない。ただじっと僕を見つめるばかりである。にゃあとも鳴かないその猫は、きちんと両前足を揃えて、品が良さそうにこちらを向いたままだ。

 動物は、話を黙って聞いてはくれるが、決してこちらに言葉を返してはくれない。聞き役にはなれても、言語でコミュニケーションをしていく、相談役にはなり得ないのだ。そのことをわかってはいるが。

「僕の崇高な考えに理解を示してくれない、などというつもりはないのだ。ただ、少々興味を持ってくれればと、そう思う」

 ついつい、話しかけてしまうものだ。人間に話しかけ

ることに疲れたのかもしれない。

 僕がこの路地裏に来てから、数分が経つ。この猫はいつまで僕の話を聞き、そして物珍しそうな眼をこちらへ向けるのだろうか。いっそ、どちらが先に諦めるか根競べをしてみようか。そのような気にもなる。

「僕は、学校で疲れているのだ。黒猫の君。人間に代わって、生徒であるこの僕に、労いの言葉でもかけてはくれないか?」

 すると、声が聞こえた。

「そりゃあ、毎日疲れていることだろう。勉学に励んでいることだろう。無理をしないように」

 男の教師のような声が、聞こえたような気がする。僕は、すぐさま後ろを振り向いた。しかし、予想したとおり誰もいない。すると、この黒猫か。

「もしかして、君なのか?」

 非現実的なことだと頭では解っているが、猫に柔らかく話しかける。すると、また大人の男性の声が帰ってくる。

「君は、何故そうだと思う?」

 妙な返し方だ。疑問文に疑問文で返してくることではない。古来より、動物が人間の言語を使って話しかけてくるような物語、御伽噺でこの質問をすれば、肯定の言葉がすぐさま返されると相場は決まっているのである。しかも、この猫。声がするときに、口がまるで動いていない。時折、欠伸のような動作をするのだが、それもまた、出てくる言葉と合っていなかった。

「労いの言葉を掛けてくれと言ったのは、猫に対してであるから、君だと推測した」

 僕は、少々時間をおいてからこう答える。すると、猫はこう言った。まだ、言ったと確定したわけではないが、僕はこの猫が話していると考えるので、猫が言ったと表現する。

「なるほど、君が振り向いたときに周りには誰もいなかったからな」

 納得されると、かなり気味が悪かった。しかし、黒猫は、そのしなやかな体を伸ばすと、僕の前まで移動してきて、ちょこんと座る。

「この話の続きは、明日にしないかね?」

 黒猫はそう僕に言葉を告げると路地裏の奥に駆けて

いった。これも何故だか解らないが、僕は、その猫を追いかける気がしなかった。そのまま帰った後、夕飯と風呂を済ませて、ベッドに突っ伏し眠りに落ちていった。

 二日目。

 気付けばもう放課後である。僕は、文芸部に所属しているのであるが、今日はやることも別段忙しいこともない。すぐに駅へ向かう。今日はどうやら曇り空が続くようだ。どんより、というよりかは、ねっとりとした鼠色の空が、上方を埋め尽くす。

 そうして、歩くと昨日あの妙な黒猫に出くわした路地が見えた。すたすたと僕はそこへ向かう。もしかすると昨日は疲れていたからかもしれない。塩梅が良くない故に虚像を自身の頭に浮かべていた。などということも考えられる。そうして考え事をしているうちに、足が蜜柑の段ボールの角にこつんと音を立てて当たった。

「やあ、昨日の夕方ぶりだね」

 また、声が段ボールの陰から響く。猫、黒猫だ。昨日

の通り、鋭くきらりとした双眸。しなやかな脚と尻尾。品の良い毛並みを持っている。

「待ちくたびれたものだよ。今日は学校が終わるのが遅かったのかね?」

 黒猫はまた僕に対して言葉を発した。品の良さげなところを見ると英国紳士のようだと例えることも出来よう。僕も、言葉を返し興味深い会話を開始した。

「ああ、火曜日は時限が七つあるからね。どのくらい待ったのかい?」

 すると、猫は尻尾を滑らかに振ってこう答えた。

「ちょうど八つ時半ぐらいからここで君を待っていたよ。そうだねぇ。一時間ほどかね」

 八つ時など、江戸時代のような言葉を使う。しかし、文明開化の日本の紳士のような雰囲気を醸し出してもいる。簡単に言えば、古風でありながらこの黒猫は洗練されているのだ。

「さあ、昨日の会話の続きをしようか」

 黒猫は言った。そして、僕はそれに答える。

「僕は、質問がいくつもある。その中で最も聞きたいことは、何故君が僕に声をかけているかということだ」

 黒猫は、少々目を見開いた。

「どうやって、ではなく、何故なのかね?」

「ああ、そうだ」

「普通ここは、どうやって自分に話しているのだ、猫のくせに、と聞くところではないか?」

「そんなことは説明のしようがあるまい」

「なるほど」

「さあ、質問に答えてくれ、僕は急いでいるわけではないが、時間は金なのだ」

 どうやら、この黒猫は質問に質問で返す癖があるようである。そこに関しては紳士的とは言えない。黒猫はこう答える。

「君を興味深い人間であると感じたからなのだよ」

 僕のどこが興味深いのであろうか。確かに、知識人、文化人を気取ってはいるもののそこまで魅力はないと考える。

「どのような点で興味深いんだい?」

「例えば、私の質問への答え方などだよ。君と話をした

くなったのだ」

「そんなに話がしたいのか?」

「例えば、この出来事は起こっているのではなく、君が猫と話していると思い込んでいるにすぎないとする可能性は、無きにしも非ず。と、言ったところかね?」

「なるほど」

 ついさっきまで僕が考え込んでいたところである。妄想であると説明されても合点がいく。

「しかし、僕はそれでも面白いと思うのだ。夢であっても、この出来事は非常に面白いものだと、そう思う。だから、黒猫である君に僕も興味がある」

 僕は確信をもってそう答えたのだ。夢であろうが現実であろうが、興味深いものは興味深い。こうして、この奇妙な黒猫と僕は会話を始めたのだ。

「まず、何から話そうか」

 黒猫は、毛並みが良い尻尾を左右にゆらゆらと振り、ちらりと僕のほうを見る。

「君は雄なのか、それとも雌なのか」

「声で雄とは思わないのかね?」

「現に君の口は動いていないだろう。合成された音声なら実際の性別は関係ない」

「なるほどな。では、雄としようか」

 雄とする。奇妙な言い方だ。自分の性別くらい分かるだろうに、この猫はあたかも、今がした性別を自ら決定したかのように口にした。

「怪訝な顔だね。今の言い方に何か引っかかるところがあったと見える」

 黒猫は、まさに今の感情を当てて見せた。

「雄と決めるというのは?」

「そのままの意味だ。性別なんて案外意味のないものだよ。生殖は例外だが」

「そういうものなのかね?」

「そうさ」

 不思議な猫である。そして、会話が続く。

「君は本当に猫なのか?」

「百人が私を見れば、百人がただの黒猫と思うだろうに、

何故そんなことを質問する?」

「猫の皮を被った悪魔ということもあるだろう」

「まさか」

 黒猫は、不意に笑った気がした。もちろん実際の表情

はわからなかったが。

「僕の妄想なのだとしたら、猫らしく語尾に、にゃ、とでも付けてほしいものだがね」

「そんな、ばかばかしい真似を私はしないよ。何故見た目で猫と判別できるのに、語尾に特殊な言葉をつける必要があるのだ?」

 この猫は、非常に合理的である。寧ろ、感情があまり見られない。この僕を、嘲笑するかの如く、または冷笑するかの如く、見据えながらその言葉を口にした。

「では、本物の猫だという証拠は?」

「君の妄想だとしたら、どうとでも言えるさ」

 何か癪に障るような言い方だが、確実、且つ明確でまぎれもない真実であった。僕は、こう続ける。

「君は僕がどういう人間だか詳しく知っているのか?」

「いや、君がこの近くの有名な高校の生徒ということしか知らない。しかし、どうも物理学や数学が好きなようだ。趣味で小説なども嗜んでいそうだ」

「そのとおりだよ。僕は、そこの高校の二年生だ。理系の科目が好きであるのも、小説を書いているのも当たっ

ている」

「猫は好きではなさそうだな」

「驚いた、そこまでわかるのかい?」

 猫は双眸をこちらへ向けて光らせる。曇り空なので光が路地にあまり入らない分、目の輝きがいっそう強調される。

「君が怪訝な目でこちらをじろじろと見ているからね。しかし、そうだね。古来より哲学者や物理学者は、猫好きだと決まっているものと思っていたのだが」

「憎たらしい猫だな。いっそ、毒ガスが入った箱に入れて実験台にしようか」

「シュレディンガーの猫のことかね?」

「よくわかったものだ。まさかとは思ったが」

「これでも、知識は並にある」

 博学多才という言葉がよく似合いそうな猫だ。まさかかの有名な量子力学の思考実験である、シュレディンガーの猫を知っているとは。

「どこで知ったのかい?」

「どこで知ったのだろうな」

 また、曖昧な答え方である。物心ついた時に覚えていたとでも言いたいのか。

 やはり夢なのではないか。そう思えてくるものだ。脳の細胞一つ一つがじわじわと狂気に蝕まれていくのが分かる。いや、夢ならまだいい。悪ければ妄想、幻覚などもありうる。しかし、僕はそれでも良いからこの猫のことをもっと知りたいと思った。この感情はどこから来るのだろう。なぜこのような思いが出てくるのだろうか。まだ、わからない。僕は眼鏡をずり上げて位置を直し、冷静に猫を見つめ返す。やはり、どこからどう見てもただの猫である。

「ふむ。君ともう少し話をしたいところなのだが。私にも事情というものがある。今日はもう遅いから帰るといい」

 黒猫はそう告げると、僕のほうをちらりと振り返った後に路地の奥へと消え去っていった。僕はそれを見届ける。その五分後の電車に乗って、僕は帰宅した。

 家に帰るとどっと疲れが押し寄せる。掻いている汗は冷や汗かそれとも、ただの疲れからくる汗か。不可思議だ。実に不可思議な体験だった。そのまま奈落へと落ちるように僕の意識は途絶え、眠りにつく。

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