【3/両目はお飾り。頭はお花畑。】
『気持ち悪い』
『ねえお母様。なんでこんな奴がリトス家にいるの? そこらへんにいるねずみの方がまだ価値があると思うわ』
『ははっ。でもこいつを殴るとなかなか爽快だぜ? 気持ち悪い声をあげて、正直耳障りだけどな』
『最近餌あげてないけど大丈夫かな? 死なれたりしたら迷惑だわ。死体って不愉快な匂いを放つじゃない。放っておくと腐ってしまうもの』
『大丈夫だと思うよ。これぐらいじゃ死なないよ。こんなに痩せ細ってるのに、息をしているんだからさ』
イーニッドは本を閉じた。
『館』に戻ってきてから汚れているドレスを着替え、特にすることもないので自分の部屋に戻って読書を始めたのだった。しかし、過去の記憶が何故か次々思い起こされてしまい、内容が頭に入ってこない。
彼女は小さくため息をついて本を本棚に戻す。少しだけ早くなった動悸を無理やり抑えつけ、深呼吸をする。
胸に手を当て、大丈夫。大丈夫と言い聞かせる様に。
「ニッドちゃん。いる?」
扉の向こうから、イーニッドを呼ぶ声がした。シェールだ。
イーニッドは立ち上がると扉を開けた。薄暗い廊下にシェールは、浮かび上がる様にしていた。『館』の廊下は幅が広く、赤い絨毯がひいてある。
絨毯は血で染めたかのように赤く、イーニッドはこの絨毯を見るたびに気分が悪くなり、『館』の主人であるアルベリクは実に悪趣味だと思うのである。
「どうしたの?」
「あのねー、レイくんを探しているんだけれど、見つからないんだよ。知らない?」
イーニッドは少しだけ宙を見つめて考えるそぶりを見せたが、すぐにシェールに視線を戻して「知らない」と首を横に振った。
シェールは残念そうに肩を落とす。
「そっかぁ。どこに行ったんだろね」
「どうしてフレイを探しているの?」
「僕借りる本間違えちゃったんだよ。表紙が似てるからさ、部屋に持って行って本を開くまで気づかなかったんだね。それで、目当ての本と交換してもらおうと思って探してたんだよね。レイくんは本の並びとかも結構気にする方だし、大体目当ての本がどこにあるかわからないから、レイくん探したほうが早いかなーって思って。でも『図書室』にもいないし、どこにいっちゃたんだろう」
シェールは困った様に腕を組んだ。イーニッドはフレイが『図書室』にいないだなんて、珍しいこともあるものだな、とぼんやりと思った。
「『館』の中歩き回って見つからないからさー、こうやって皆に聞いて回っているんだよね。アルさんにもラーさんにもリーさんにも聞いたんだけど、みんな知らないっていうんだよね。ナノちゃんとジャッくんにも聞こうと思ったんだけど、ナノちゃんはたまたま台所にいなかったし、ジャッくんはレイくんとの喧嘩の後で、機嫌悪そうだから聞かなかったんだ」
「……おかしいね。この『館』から出てどこかへ行くなんて事、考えられない」
もちろん例外はある。『食糧調達』担当のクロエが月に何度か街に降りて行くことがそれだ。
街にはドーテがいるので、吸血鬼であることが発覚すると直ちに『駆除』されてしまう。あるいは拷問を受け、他の吸血鬼のいる場所を吐くように強要される可能性もある。
そうなった場合、『館』の吸血鬼は全滅してしまうだろう。それは避けなければならない。
だから、例外を除いてほとんどの『館』に棲む吸血鬼は『館』を離れてはいけないという、暗黙の
「だよね。『館』の周りでも散歩しているのかなあ。でもレイくんってあまり外出ないし……」
イーニッドは妙な胸騒ぎがした。
何か確たる証拠もないのに、これからよくないことが起こるのではないかという予感。不安。イーニッドは首飾りを無意識にぎゅっと握りしめた。
「……部屋は探したの? フレイの」
「ううん。探してないよ。ノックしたけど返事がなかったし、無断で入るのってあまりよくないかなって」
「……フレイの部屋に行ったほうが、良いかも」
シェールはどうして? という風な目でイーニッドを見たが、彼女の不安そうな表情を見て、何かを感じ取ったのか「分かった。行こう」と頷いた。
二人はフレイの部屋に向かって歩き始めた。
分厚い絨毯のせいで二人の足音は響かず、つかの間の静寂が舞い降りた。時折、窓の外からかすかに木々の擦れ合う音がするのみである。
フレイの部屋の前に着くと、イーニッドは扉をノックした。返事はない。
僅かの間をあけ、もう一度ノックするものの、返事はない。イーニッドは一瞬だけ躊躇したのち、
「フレイ、いるの?」
と扉の向こうに問いかけ、ドアノブを回した。鍵はかかっておらず扉はかすかにきしむ様な音を立てて簡単に開く。
「部屋にもいないみたいだねー」
二人は部屋の中に入った。
暗闇の中、イーニッドは目を凝らす。そして机の上にある一通の手紙に目を留め、恐る恐るその手紙を手に取った。
「手紙……だね。宛名、なんて書いてあるんだろう。読めない……」
封筒の隅に整った文字で『Df,kimqxpreia』と書いてあった。その文字を、二人は読解できない。シェールは何かを思い出した様に、「あー」と呟いて続けた。
「そういえば、レイくんってキラトレジの出身だっけ。あそこって独自の言語があるんだよね。普段は僕らと同じナトレ語を話しているけど、母国語は違うんだった。レイくん、ナトレ語上手いからたまに忘れちゃうよね」
「でもなんで、ナトレ語じゃなくて、キラトレジの言葉で書いてあるの?」
イーニッドの疑問に、シェールは意外そうな表情を浮かべて答えた。
「あれ、知らなかった? ナトレ語喋れるけど、書くことはできないんだよ。でも喋るのだったら、ずっと使っているナトレ語の方が上手いみたいだけど。ジャッくんは逆なんだっけ。確かクロさんなら読めるはずだから、クロさんに聞いてみようよ」
「何か、お呼びでしょうか」
唐突に背後から声がしたので、シェールは大げさに驚いたそぶりを見せて振り向き、イーニッドは特に驚いた様なそぶりは見せずに振り向いた。
「わあ! びっくりしたよ。クロさんってば神出鬼没だねえ。気配を全く感じなかったよ」
「そうですか」
クロエは表情を変えずにそう言った。そして、イーニッドの手にしている手紙に目を落とし、「それは?」と怪訝そうに呟いた。
イーニッドは手紙をクロエに差し出し尋ねる。
「これ……読めるの?」
「はい。キラトレジ語ですね。『
シェールは感心したような表情を浮かべ、「じゃあ、僕たちが読んでもいいってことだよね。開けてみよう」と、クロエから手紙を受け取り封を切った。切り口はあまり綺麗ではなく、シェールの不器用さが浮き彫りとなった。
彼女は四つ折りにされている手紙を開き、いつになく真剣な表情でそれを見つめた。
「クロさん」
「何ですか?」
「読めないから読んで」
シェールの言葉にクロエは呆れたように肩をすくめて、手紙を受け取った。
「それならば、封筒を開けるのも私に任せてくださればよかったのですが……。シェール様は不器用であられますから。……『僕の両目はお飾りじゃないし、頭はお花畑じゃない。それに掲げているのはできもしない理想じゃない。それを僕が証明する』……と書いてあります」
イーニッドはこの時、彼女が先ほど感じた予感が的中したことを悟った。
「……フレイは、もしかして…………」
「ええ、もしかして……」
イーニッドとクロエは互いに顔を見合わせた。
シェールはそんな二人の様子に、困惑したような表情を浮かべる。状況が理解できていない様だ。
「ねえ、一体どういうこと?」
「…………フレイは、人間の街にいったかも、しれない……」
イーニッドは言いにくそうにそう呟いた。
「そ、そんな! 一体どうして!? どうしよう、ドーテに見つかったらレイくん殺されちゃう! 早く連れ戻さなきゃ!」
シェールはそう焦りながら叫ぶと、いきなり廊下を『館』の出口に向かって走り始めた。クロエはいたって冷静な顔でシェールの腕を掴んで彼女を留めた。
シェールは前につんのめり、停止する。
「何で止めるの! 早く探しに行かないとっ!」
「落ち着いてくださいませシェール様。一人で先走るのは良くありません」
「でも……」
それでもまだ納得できないような表情をするシェールにクロエはため息をつき、少しだけ微笑んで見せた。
「シェール様はフレイ様を大切に思い、心配しておられるのですね。そのお気持ちは分かりますが、まずは冷静になってください。貴方一人が闇雲に探したところで、フレイ様を見つけることができますか? 答えは否です。それどころかドーテに見つかり、貴方だけではなく私たちの命まで危なくなってしまうかも、しれません。その様な事態を避けねばならないことぐらい、分かるでしょう?」
クロエの、優しく諭す様な物言いにだんだんとシェールも冷静になってきた。取り乱していたことを恥じる様に少しだけ頰を染め、さらに落ち着こうと深呼吸をしたらむせた。
「おい、騒がしいがどうかしたのか?」
「あ、ジャッくん」
廊下の向こうから、いつも通りの苛々した様子でジャックがこちらにやって来た。何故か髪が乱れている。
「俺は眠ろうとしていたのに、お前らがうるさいから眠れないじゃないか」
「あ、寝起きだから髪の毛乱れてたんだね。ていうか、まだ夜じゃん。なんで寝るの?」
「うるさいな。苛々してたんだよ。ほっとけ」
ジャックの不機嫌さの度合いは更に上がっていくものと見えるが、シェールはそれを見て、上機嫌そうに笑った。
「なるほど! ふて寝だね!」
ジャックはぎろりとシェールをにらんだが、シェールはどこ吹く風といった様子で更に楽しそうに笑った。
「シェール様にジャック様、今はその様にふざけている場合ではありません」
「ん? どういう意味だ?」
ジャックの問いに答える様に、クロエは手紙を無言で差し出した。ジャックは疑問そうに首を傾げ、それを受け取る。
ジャックは手紙に目を落とした。眼球が右から左へと動き、文字を追う。
ジャックの表情はだんだんと険しさを増していくようだった。眼光の鋭さもそれに比例するように増していき、隣でジャックの様子を見ていたシェールは震え上がった。
唐突に彼は怒りに震える手で手紙を二つに引き裂き、叫んだ。
「Fldgy!! Wfjsua vnklp ty disloyal!? Dm kipaf ty wfjsua!! Rlpa fffly!!」
「ジャ、ジャッくん!? 落ち着いて! それとナトレ語で話して!」
怒りに満ちた声で、まくしたてるようの叫ぶジャックにしがみつき、シェールは言った。
「ジャック様がお怒りになりのも分かりますが、ひとまず冷静になってください」
「冷静になれるわけないだろう!? なんなんだあいつ! 早く探さないと!」
「あ、ナトレ語に戻ったってことは、落ち着いてきたんだね。良かった良かった」
シェールは場違いにも安心した様子で微笑んだ。
「さて、フレイ様を探しに参りましょう。私、イーニッド様、ジャック様、シェール様で探しにいくのが良いかと思います」
「それはどうして?」
イーニッドの問いにクロエは人差し指をすっと立てて答えた。
「はい。一つ目の理由は人数です。シェール様、只今この『館』に何人いるかご存知でしょうか?」
「うん! えっと……僕、ジャッくん、ニッドちゃん、クロさん、ダリアちゃん、アルくん、ナノちゃん、リーさん、イリさん……九人だね!」
シェールは指折り数えながら答えた。クロエは「その通りです」と頷く。
「さて、フレイ様がドーテに捕まってしまったら大変ですよね、ジャック様」
「は? 当たり前だろうが、何今更いってるんだ!?」
掴みかからんばかりの勢いでそういうジャックを、クロエは諌め、続ける。
「そうです、大変なのです。だから私たちはドーテに見つからない様に、人間たちの街に向かい、フレイ様を連れ出しますね? すぐに連れ出したいところですから、大人数、それこそこの『館』の全員で探した方が良いと思うかもしれません。しかしそれでは目立ちます。フレイ様を見つけるどころじゃありません。私たちは全滅です。ですからこの人数は丁度良い人数なのです」
ジャックは少しだけ呆れた様にクロエを見た。クロエはそれに対して、「なんでしょう?」というふうな表情を浮かべる。
「なんていうかまあ、随分と回りくどい言い方をするんだな。始めっから『丁度良い人数だから』じゃ駄目なのかよ」
「申し訳有りません。性分なもので。——もう一つの理由は実に
シェールは「もちろんだよ!」と大きく頷いた。
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