第58話
「――去ってしまわれるのですね、クリス」
熱狂的に論文を書き上げた1週間を終え、その日は訪れていた。
そう、ボクはこの朝にグリューネバルト領を後にする。
「ええ、論文も書き上げましたからね。とても良いものが出来たと思っています」
「”慈悲王ベアトリクスが見たスカーレット王国建国史”ですよね、私も拝読しました。とても意義深いものだと感じます。今に残るこの国の制度、その意味がよく分かるようになりました」
――フラウ殿下が仰られているのは、おそらく”政魔分離の原則”のことだろう。
ゴットハルト先輩とフラウ殿下の運命を二転三転させている、あの制度。
建国史を紐解けば、当然にその話もすることになるから。
「ッ、ですが、フラウ。ボクは思うのです。
建国から続くものとはいえ”形骸化した制度”を変えることもまた必要なのではないかと」
ボクの言葉に、フラウ殿下は浅い笑みを浮かべる。
その表情はとても儚げで、胸が痛い。
もう、彼女はヘイズに乗っ取られているわけでは、ないはずなのに。
「魔術師が、領主になってはいけない――その制度自体は、形骸化などしていませんよ、クリス」
確かに、フラウ殿下の言うとおりだ。
『魔法王の再来を防止する』ことを考えれば、この政魔分離が形骸化する日は、来ない。
でも、ボクは思っているんだ。少しだけ、別のことを。
「それは、そうでしょう。けどボクは思うんです。
ゴットハルト先輩が、領主に向いていないなんてことはないんじゃないかって」
ボクの言葉に、息を飲むフラウ殿下。
「……ふふ、そうね。私も、そう思っています。
きっとあいつは、私の何倍も領主に向いているのでしょう」
自嘲気味に笑う殿下の姿に、ボクは初めて彼女の弱さを見た気がする。
彼女もまた”人の子”なのだ。自らの背負った運命に悩んでしまう、人の子だ。
「けれどね、クリス。ハルトが領主になることはあり得ない。
そんな無茶を、させるつもりはないの。
――私は、あいつに、自由な人生を生きて欲しい。生まれ持った”才能”で」
ほう、強いな。この事においてフラウ殿下は、強いぞ。
「だから、今回のことは大失態ね♪
ハァーぁ、あいつに下手な心配をかけて、いえ、あいつに私を殺せとまで言って……生き残っちゃったんだから、恥ずかしいよ」
年相応の女の子みたいに、ぺろっと舌を出すフラウ殿下。
彼女とここまで親密になれたことも、論文を書き上げるための1週間で得た大きな成果です。
「まぁ、生きてる限り”恥”はつきものですよ。
けれど、生きていることこそに価値がある。違いますか?」
「……違わない。良かったと思ってる。生きてて良かったって。
ありがとね、クリス」
決してボクだけが手繰り寄せた成果ではない。
そんなことはもう、ボクも殿下も分かっている。けど、それでも、だ。
それでも殿下はボクに感謝を向けてくれているんだ。なら、ボクの答えは決まっている。
「フラウ殿下に感謝をいただけるとは、光栄であります」
「ふふ、なかなか様になってきたんじゃない? そういう振る舞いも」
「えへへ、すっかりボクも”英雄”に仕立て上げられちゃいましたからね」
――そういえば、その張本人は?とフラウ殿下が呟く。
「寝てるんじゃないですか? 昨日はさんざん遊び倒しましたからね」
「ふぅん? 良いの? 最後の挨拶、しなくても」
「……良いんです、湿っぽくなっちゃいそうですから」
ベアトと過ごした時間は2週間とちょっとだ。
たったそれだけなのに、あまりにも濃い付き合いをしてしまった。
おかげで名残惜しくて仕方ない。
……あーあ、ベアトがベティのままだったら、アカデミアに連れ出せたかもしれないのにな。
「そう、ハルトの奴も来てないし、男って薄情ね」
「ふふっ、言われてみると、そうかもしれませんね」
ベアトのことを真っ正面から”男”というフラウ殿下がおかしくて、少し笑ってしまう。
分かってる、分かってるんだけど、ベティさんの身体をしたウィアトル君を、なかなか男の人だと認識できてないボクもいるんです。
「それでは、フラウ殿下――名残惜しいですが」
ボクの言葉に頷くフラウ殿下。
彼女に見送られながら、ボクは後にしたのです。
グリューネバルトの屋敷を。愛馬・ウマタロウとともに。
「さぁ、行こっか、ウマタロウ。また少し、長い旅になる」
「ヒヒン、ヒンヒン」
嬉しそうにこちらに甘えてくるウマタロウのたてがみを撫でながら、ボクは少し感傷に浸る。
タルド・ブラックベリーと名乗っていたゴットハルト先輩との出会い、ドラコ・ストーカーとの戦闘、ベティと過ごした1週間、ベアトと過ごしたもう1週間。
本当に、濃密すぎて、名残惜しいのです。この旅先の土地、グリューネバルトを、旅立つことが。
(……ぁあ、そういえば、こんな風に2週間も旅先にいたのも、初めてなんだよね)
ブランチを食べることが殆ど初めてだったように、ボクには初めてのことばかりだ。アカデミアの学院生になってからというもの。
いつかは、慣れるのでしょうか。
この切なくも晴れやかな別れの感触というものにも。
そんな日が来るなんて、ボクには、まだ想像もできないのです――
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