第32話

 あの日の姉さんの言葉が、彼女に掛けられた”支配”が、オレを生かし続けた。

 本来なら、彼女の身体で150年もの時を生き続けるなんて真似、オレができるはずがない。

 そして、300年前のあの日、魔法王という存在の終わりに直面しながら”眠りに着く”なんて半端な決断をするはずもない。


 全ては、ベティ姉さんの残した呪いと、それを振り払えなかった自らの弱さ故――

 だが、今は、この弱さを誇ろう。

 ヘイズ・グラントという男を、殺し損ねた仇敵を、殺すことができるこの巡り合わせを。


「分かったよ、ベティ。ボクは、帰るんだね、アカデミアに」


 濁りきった真紅の瞳で、クリスが呟く。

 そう、これが”支配”の魔法の反動。450年前の自分も陥ったそれだ。

 短期的な命令ならばともかく、長期間に渡って他者の行動を縛るような命令を下せば、それが完遂されるまで、その者の自由意思は限りなく薄弱なものとなる。

 その者が持つはずの本来の力は、発揮されない。


「ああ、そうだよ、クリスティーナ。

 君は帰るんだ、最も安全な方法で、最も安全な場所へとね」

「……うん、じゃあ、出発は、明日だね」


 ――しかし、このクリスという少女は只者じゃない。

 オレがベティ姉さんに支配されていたときは、いっさい喋れなかったんだ。

 それなのに、クリスは言葉を紡ぎ、自らの思考を回転させている。

 いったい、この娘は何者なんだろう。

 魔術師でないのだけは知っている。だけど、それが一番信じられない。


「……帰ろうか、クリス。今夜で”お別れ”だ」

「うん、寂しいな……ベティ」


 ッ、そうか、まだ彼女の中でオレは”ベティ”なのか。

 ならば、良いだろう。

 下手に彼女の中での”違和感”を増長させて、支配から逃れられてしまっては事だ。


「そうね、私も寂しいわ。今回のことが終わったら、遊びに行くから。

 学院生とやらをやっているクリスも、見てみたいし」


 この1週間のことは、記憶を失っていたオレが”ベティ”だなんてトチ狂った名前を使ってしまって重ねた記憶は、よく覚えている。

 見ず知らずの小娘相手に、クリスは本当に良くしてくれた。


「別に、見て面白いものじゃないよ」

「いいの。いいのよ、それで」


 クリスの右手を握る。その力のなさに、背筋が冷える。

 自らの行いに恐怖する。この選択は、本当に正解なのだろうか?

 そんな疑念がふつふつと沸き上がってくる。


「ねぇ、クリス。教えてくれない? 貴女は、どうして魔術史学科に?」

「……ボク、余所者なんだ。この世界の歴史を、何も知らない。

 だから、知りたく、なったんだよ」


 余所者……? なんだろう、彼女らしくない言い回しだな。


「余所者?」

「……いや、なんでもないんだ、なんでも」


 明らかに”何か”がある。

 そして、支配下にあってもなお隠そうとすること。それができること。

 ……しかし、ここで無理に聞き出すような真似をできるほど、オレも無神経ではない。



 ――そこからは、もう、何の言葉もなかった。

 彼女らしくない濁りきってしまった瞳を見ていると、オレは口を開けなかった。

 力のない彼女を見ていると触れていると、この選択への後悔が渦を巻いた。

 クリスという少女の意思をねじ曲げるような真似が、許されるのか?

 だが、この先にある危険から、彼女を遠ざけることが、間違いであるはずもない。


「……眠らないの? ベティ」


 既にヘイズの手が回った、グリューネバルトの屋敷。

 そこに用意されたオレとクリスの客室。

 先にベッドの中へと入っていたクリスが、腕を開いて、こちらを招く。


「ああ、眠るよ、クリス」


 この1週間、何度も繰り返してきたやりとり。

 彼女の腕に抱かれる感触が、本当に心地よかった。

 今、思えば、オレはクリスにベティ姉さんの面影を見ていたのだろう。


「明日は、気をつけてくれ。アカデミアへの旅は長いんだろう?」

「……別に、大丈夫さ。一度ここまで来たんだから、慣れてるよ」


 言いながら、オレを抱く両腕が強くなっていく。

 彼女の体温が直に伝わってきて、その暖かさに泣きそうになる。

 ベティに抱かれて以来、オレは意図的に人を遠ざけてきた。

 慈悲王として振る舞うのに都合も良かった。


「っ……クリス、クリスティーナ……」

「どうしたの? ベティ。泣きそうな顔、だよ?」


 言いながらクリスが、自分の胸を貸してくれる。背中を撫でてくれる。

 自由意思を失ってなお、ここまで……。


「なんでもない……なんでも、ないんだよ……クリス」


 ああ、どうして、どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 ヘイズさえ、あいつさえいなければ、オレはこの娘を手放さなくてよかったのに。

 きっと、クリスは怒るだろう。アカデミアに帰って、オレの支配が解けたときに。

 このグリューネバルトまでの距離に絶望し、自らの意思をねじ曲げたオレに怒るはずだ。

 だからもうオレに、彼女に合わせる顔はない。ヘイズとの戦いに生き残れたとしても。


「許して……っ、許して、ほしい、クリス……」

「――ふふ、ボクは何も怒ってないよ、ベティ」


 そんな風に微笑む、クリスの瞳。

 真紅のそれが濁っていることが、どうしようもなく、辛かった。

 そうさせてしまった自分が、今はとても、憎らしかった。

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