第26話
――昨日の夜だ、部屋の外が騒がしかったのは。
音を頼りに、ボクは目を覚ましたのだけれど、驚いたのはそこじゃない。
ベティが”先に”起きていた。起きて完全に臨戦態勢に入っていた。
(……この娘、いったい何者、なんだろう)
意を決して、ボクが扉を開いたときには向こう側には誰もいなかった。
だから不安だけれど眠り直して、今が次の朝。
ベティも、こうして無防備な寝顔を見せてくれている。
頬にかかる前髪が、触ってくださいと言っているみたいで、ボクは彼女の髪を撫でてしまう。
(敵は既に駒を揃えている。必ず動く)
目的は何にせよ、動くタイミングは生誕祭と見て間違いないだろう。
このグリューネバルトに最も人が集まる日だ。
ここ1週間、この街には1日ごとに観光客が流れ込んできた。
(……くそ、ボクは何をしているんだ)
フラウ殿下は既に敵の手に落ちている。
そこまで分かっていながら、彼女自身に仕掛けることは出来ない。
仕掛けたところで領兵すべてを敵に回すだけだと分かっているから。
けど、だったらどうする?
これだけの危機的な状況を知っておきながら、手をこまねいているだけだなんて……!
「どうしたの、クリス? 酷い顔をして」
目を覚ましたベティちゃんが、ボクの顔を見つめていた。
ああ、そっか。
今のボクは、この娘に見抜かれちゃうくらい酷い表情、してるんだ。
「いや、この状況で、何も出来ないのがもどかしくてね……」
「仕方ないわ、ここまで巧妙な敵が相手なんだもの」
何気ないように語るベティちゃん。
その姿に、今までに感じたことのない力強さを感じる。
「それよりもクリス。遊びに行きましょう?
論文が終わったら私に付き合ってくれる。そういう約束だったはずよ」
――どこか挑発的に笑う彼女に、ボクはドキリとさせられてしまう。
その笑みが歳不相応に不適で、大胆で。
敵に対してどう動くか? それだけでいっぱいいっぱいなボクとは大違いだ。
「ふふ、そうだったね。良いよ、どこに行きたい?
ボクが案内してあげようじゃないか。ベティお嬢様――?」
ベッドの上で、彼女の右手にキスをする。
陶器のように白くて、なのに驚くほど柔らかくて。
「……レイモンドの真似?」
なんてジットリとした視線を送ってくるベティちゃんを横目に、ボクは立ち上がる。
外に出る準備をしなくちゃいけないから。
「――賑やかね。ここが”300年後”だなんて、今でも信じられない」
ベティと2人、グリューネバルトの屋敷を出て街を歩く。
街の中には、至る所に”慈悲王ベアトリクス”の生誕を祝う旗や装飾が施されていて彼女の人望が伺える。
「ベティが生きた時代は、どうだったの? やっぱりこれくらい賑やかだった? ベアトリクス様の生誕祭は」
「……どう、なのかな。明確には思い出せないけれど、それでもここまで賑やかではなかったと思う」
へえ、意外な答えだね。
記憶を思い出しかけているということもそうだけど、300年前の方が賑やかな気がするのに。
「だって、300年前は”この領土の外”から人が来るなんて殆どなかったもの。来ても、せいぜい他の魔法王からの使節くらいよ」
「なるほど。確かにそれは、そうだよね」
今のスカーレット王国では、地方領主が地域地域を治めているとはいえ、地域間の移動を縛る制度は存在しない。
下手に人を縛るような制度は、魔法王時代の命を単位と見なす時代に繋がると忌避されているからだ。
けれどまぁ、交通手段も発達していないんだから、実際のところは領土を移動するような一般人は決して主流派ではないのだけれど。
「だから、クリスみたいな人もなかなか居なかったわ。学問として他の領土を調べに来るだなんて警戒されておしまいだもの」
「ふむふむ、それは良い時代になってくれたものだね。ボクとしては凄くやりやすかったからさ」
ドラコ・ストーカーなんてものが動いてなければ、本当にあっさり終われたのに。
なんて迷惑な話なんだろうか。
「ねえ、クリス――」
雑談というには、少し特殊な、それでも確かにボクと彼女にとっては雑談に過ぎないそれを続けていたときだ。
急に、ベティの目の色が変わった。興味というものに火がついた目になった。
「――私、あれが食べたいわ」
にっこりと笑ってボクの手を引くベティ。
その先には、氷菓子の露天が出ている。
意外と子供っぽい趣味なんだなと思いつつ、そんなところに少し安心してしまう。
「仕方ないなぁ。ボクが奢ってあげようじゃないか」
「ふふっ、当然よ。クリスは私のお姉ちゃんなんだから」
天真な笑みに、ドキドキしてしまう。
なんだろう、こういう風に素直に甘えられるのって、気持ちがいいものなんだなと実感する。
「おじさん! レモン2つ♪」
「はいよ。元気がいい妹さんだね、お姉ちゃん?」
ベティを見ながら、ボクを見てくる露天商のおじさん。
そうか、今のボクは”お姉さん”に見えるのか。……悪くないな、こういうの。
「ええ、自慢の妹ですから」
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