第25話

 ――草木も眠る頃合い。女神の加護が最も遠のく時間。

 そんな闇の中で、男は、自らの顔を仮面で隠す。


(半年ぶりの”我が家”で、何をやっているんだろうな? 俺は)


 自らの忠臣が情報をもたらした。

 ドラガオンの遺体が、クリスとベティを襲ったと。

 生誕祭までに訪れる朝はあと2回しかない。

 局面は動き続けているし、敵の動きは明らかに変わった。


(嫌な、予感がする)


 ――フラウフリーデ・グリューネバルト。彼女とは、姉弟のように育った。

 俺という子宝に恵まれていなかった両親に業を煮やして、先代が用意した世継ぎの1人。それが彼女だ。

 俺が生まれて、そんな役目も必要なくなったと思われたが、結局のところ俺が魔法に目覚めてしまったから彼女の存在が必要になった。


(……フラウには、本当に迷惑ばかり掛けてきた)


 俺は、二度も彼女の人生の有り様を変えてしまったのだ。

 一度目は自らの出生によって。二度目は魔法への目覚めによって。

 そんな俺のことを、彼女は恨んでいるのではないだろうか。


(――フラウ、俺は、)


 そんな彼女から届いた手紙。それを読んだときからの寒気は、今も続いている。

 ヘイズ・グラントを思わせるような傷口。自らの意識が混濁し、記憶に空白が生まれていく恐怖。

 彼女の文才も相まって、克明に書き出されたそれは、どんな物語よりも性質が悪かった。


(やはり、か――)


 レイモンドからクリスとベティの部屋は、聞き出している。

 そして、こちらの予測通り、その前に1人の影が立っている。


「あらあら、こんな時間にどなたかしら? 仮面で顔を隠すなんて無礼な人」


 眼鏡の下、群青色の瞳は濁りきっていて、それが彼女でないことがよく分かる。


「――お前こそ、こんな時間に何をしているんだ?」

「何を、って決まっているじゃない。仲間は増やさなきゃいけないもの」


 竜魔法王ヘイズ・グラント、歴史に残された彼の魔法。

 それは身体の乗っ取りだ。傷をつけ、蝕み、術式を埋め込んで支配する。

 支配された”子”もまた、他者に傷をつけて後は”ねずみ算”。

 そんな力で450年前に築かれていたのが、ヘイズの王国だ。

 そこがどんな地獄だったのか? それは今、目を見開いているだけで分かる。


「フラウ、俺の目を見ろ」

「ハッ、何を――!」


 ”支配”の魔法は、使わない。これは切り札だ。まだ切らない。

 その代わりに使うのは、魔法よりも慣れ親しんだ、ひとつの技。


「ッ……!」


 ごく細い鎖を持って、ナイフを持つ右手を縛り上げる。

 そして、相手が驚いている隙に、さらに鎖をその身体に巻き付ける。


「おいおい、フラウ、お前なら抜けられるはずだぜ。こんなもので止まっているお前じゃないだろう? 縄抜けの遊びを何度やったと思ってる?」

「ッ――邪魔を、しやがって……!」


 言葉遣いに、乗っ取っている”敵”の本性が見えてくる。

 いったい敵の”乗っ取る”という魔術に、どういう規則性や制約があるのか分からないが、どうも毛色が変わってきた。


「こんなもので、縛れると思うな――」


 走る術式、腐食して砕け散る鎖。なるほどな、これがこいつの力か。

 砕けた鎖を投げつけながら、右手のナイフを蹴り飛ばす。

 これで傷を付けられる可能性は、低くなった。


「――縛れないから、なんだって言うんだ?」

「ッ……! 貴様!」


 丸腰になったフラウの胴を蹴り飛ばし、その身体を地面に押しつける。

 後は馬乗りになるだけだ。ほら、完全に拘束できた。

 だが、どうする? ここから、どうする……?


「ハッ、良いのか? こんなに近づいていて――!」


 鎖を腐食させるほどの魔法の使い手。

 接近戦は、不利。分かっている。

 これがただの敵ならば、この首筋をかっ捌いてしまえばいい。だが!


「ッ――!」


 扉の向こう、部屋の方から音がする。

 きっと、クリスが目を覚ましたのだろう。あれはそういうことができる類の女だ。


「フン、今日は、ここまでにしようか――」


 フラウの顔をしておきながら、フラウのものとは思えない声。

 本当に、背筋がゾッとする――!


「チッ……!」


 ……濁っていた瞳が、本来の輝きを取り戻す。

 瞳からこぼれ落ちる涙に、罪悪感を掻き立てられる。

 フラウを組み伏せていることへの罪悪感が、湧いてくる……ッ!


「……ハルト? やっぱり、帰ってきて、いたのね」


 仮面で隠れているはずの俺の顔を見つめながら、フラウが言葉をこぼす。

 そして、その群青色の瞳に力が宿る。


「――ねぇ、ハルト、殺しなさい。

 貴方が私を組み伏せているんだもの、そういうこと、なのでしょう?」


 やはり、か――あの手紙の文面は、こう閉じられていた。

 『愛しの弟よ、私を殺しに来てほしい』と。

 馬鹿な話だ。そんなこと、この俺がやると思っているのか! フラウ!


「っ……腰にナイフがあるでしょう?

 それを使うのよ、私の首なんて、どんな獲物よりも簡単に取れるわ」


 なんて顔で、なんて話をしてやがる……!


「――断る」


 答えは、最初から決まっている。我が姉公も、存外とバカな女だ。

 この俺が、貴女を殺すことがあり得ないという当然を分かっていない。


「どうして……っ!」

「何か勘違いしているようだが、俺は貴女を殺しに来たんじゃない」


 俺の腰からナイフを引き抜こうとした彼女の手のひらに、こちらの手のひらを重ねる。


「――貴女を助けにきた。必ず救ってみせる。必ずな」


 子供の頃から何度もそうしてきたように、本当に浅く唇を重ねる。

 俺にとって、貴女は初恋の人だ。

 たとえそれが叶わぬものであろうとも、そんなことは関係がない。


「ッ――待って、ゴットハルト……!」


 屋敷の見回りが、来る時間だった。

 だから、俺は、逃げ出した。屋敷の外、夜の闇、その中に身を落とした。

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