第19話
――ドラコ・ストーカーの基地を襲撃、その首領を倒し”慈悲の王冠”を奪還した。
そんな輝かしい”勝利”は、既に街中に広まっていた。
いったいこれは、誰の企みか。
単純に領軍が偽りを掴まされたのか、あるいは、領軍の誰かが考えた苦肉の策か。
「どちらにせよ、今は推移を見守るしかないでしょうね。
――クリス、貴女は帰った方がいいかもしれないわ、アカデミアに」
タルドさんにも、言われたことだ。
あの時には断った。論文を書き上げたかったから。
でも、それはもう完成まで間もない。つまり今のボクを縛るものは、ない。
「――ベティを、置いて、ですか?」
「……貴女、まさか、ベティを連れて行くつもり?」
眼鏡越し、群青色の瞳に、ボクの真紅の瞳が映り込んでいる。
――昔なら、一昔前のボクなら、こういうように真正面から相手と向かい合うなんてこと出来なかった。
けど、今は違う。望むことのためなら、誰とだって戦える。
「そうだ。と答えたら? それが一番、彼女にとって安全ですよ」
ベティを連れて今すぐ逃げろ、そう言われればボクは喜んでそうしよう。
あのビルコと、それとは異質な別の”誰か”の企み。そんなものの渦中にボクは居たくないし、こんなところにベティを置いていけない。
「ッ、それは認められない。彼女は、私たちの領土にとって最も重要な人物よ」
――そう、来るだろうな。
そして、正攻法でこれを覆すのは不可能だろう。
なら、ここでの説得に意味などない。
「でしょうね、ならボクも残ります。
乗りかかった船だし、何よりもあの娘に情が移ってしまったんです」
「分かったわ。くれぐれも、お願いします」
――”こちらで打てるだけの手は打つ。
だから今は、ベティを守ることだけを考えていてくれればいい”
フラウ殿下は、そう言った。そしてボクは腹の中で全く別のことを考えていた。
(ベティを連れて、アカデミアに出発するのなら、どのタイミングがいいだろうか)
夜か? 昼か? 足はどうする? ウマタロウを使うか? それとも別の手を考えるか? フラウ殿下やグリューネバルト家は、どういう手を打ってくる?
今、ボクに支払われることになっている報酬の後払い分はまず止まる。
次に考えられるのは”実力行使”だ。振り切れるか? このボクに。一度や二度、退けられたとしても、相手の数は多いぞ。
「クリス、どうしたの? 怖い顔、してるよ」
「……いや、ねぇ、ベティ」
フラウ殿下とは既に別れていて、今、周囲に人はいない。
目の前にいるベティだけだ。
「ボクと一緒に……」
――アカデミアまで逃げてくれないか? そう、聞こうと思った。
けど、ボクは聞いたんだ。こちらに向かってくる”1人の足音”を。
「――失礼、お邪魔でしたかな?」
その声には、聞き覚えがあった。でも、その声色に覚えがなかった。
その人には、見覚えがあった。でも、その装束に覚えがなかった。
「おじさん……?」
「ええ、今朝以来ですね? クリス様」
燕尾服という正装に身を包み、うやうやしく頭を下げる食堂のおじさん。
いや、もう、食堂のおじさんなんて呼ぶのも失礼でしょうか。
「――グリューネバルト家、料理人筆頭レイモンド・マクスウェル。
たってのお願いがあるのです。
お時間を、いただけますか? クリスお嬢様、そしてベティお嬢様」
レイモンド・マクスウェルというのか。
1週間お世話になっていたのに、ぜんぜん知らなかった。
「いったい、どうしたんですか? こんなに畏まって」
「いえね、私の坊ちゃんが”失礼のないように連れてこい”とうるさくて」
言いながら、ボクに右手を差し出すレイモンドさん。
その手を握り、ついて行くという意思を示す。
「では、ベティさんも」
「……ぎょーぎょーしい」
「ふふっ、こういうのが趣味なのですよ。ご容赦ください」
ベティの手も取って、ゆっくりと歩き出すレイモンドさん。
その立ち姿は、完璧な執事そのもので今までとは別人にしか見えない。
おじさんというよりお兄さんに見える。
「凱旋した領兵さんたちのご飯は、間に合いました?」
「ええ、仕込みは終わらせていますよ。食べるところまで見届けたかったのですが、坊ちゃまの頼みとなれば仕方ありません」
流石に仕事が速い。大人数分の料理を用意した上で”坊ちゃま”とやらの頼みを聞いて、着替えた上でここにいると言うんだから。
「……レイモンドさん、どこに行くんですか?」
グリューネバルト家、その屋敷を出たところで、ボクは聞いていた。
レイモンドさんの言う”坊ちゃま”というのがそもそも誰か分からないし、屋敷の外に出るとなると本格的に分からなくなってきたぞ。
「ふふ、ついてきていただければ分かりますよ」
そんな風にはぐらかしながら足を進めるレイモンドさん。
シルクハットの下の瞳には鋭利な笑みが浮かんでいる。
……悪意はなさそうだけど、どうにも読めないな、この感じ。
(ベティは、フラウさんの時みたいに怯えてはいない、か)
まぁ、ベティはボクよりもレイモンドさんと話してたもんな。
当然と言えば当然か。
「ねぇ、おじさん。そういう格好が趣味なの?」
「ええ、貴女のような可憐なお嬢さんをエスコートするときには、特にね」
「……気持ち悪い。いつもの感じがいい」
これまた直球をぶん投げてるなぁ、ベティ。
「んー、そう言われてもなぁ、こういう方がいいのかい? どう思うよ? クリスの嬢ちゃん」
「……どっちでも良いですけど、まぁ、ボクは丁寧な方が好きですかね」
声色が変わって、いつもどおりの雑なおじさん口調に戻すレイモンドさん。
なんというか、凄い演技力だし、燕尾服で雑な口調で話されると違和感が凄い。
「ふむ、やはりそうですよね? クリスお嬢様。ということで、今日はこのままです。ベティ」
「……ふぅん? まぁ、良いけど」
そんな話をしている中で、ボクは、レイモンドさんが導く道に覚えがあることに気づき始めていました。
この道、前にも歩いたことがある。見覚えがある。そう思って、気づいたのです。彼の歩いていく先に、辿り着くであろう場所に。
「――レイモンドさん、この道って、まさか」
「言わずとも、もうすぐ分かりますよ。
ええ、貴女にも覚えのある場所のはずですからね」
――このボクが、グリューネバルト領という街の中で覚えている場所など一握りしかない。そしてこの角を曲がった先、見えてくる場所は、ひとつだ。
「……黒苺の停留所」
どうして? どうしてここに?
「さぁ、クリス様、ベティ様。私の主人がお待ちです。こちらへ――」
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