第三章 キュベレ山の戦い 5

 楓の行く道に併走しているのはアスマラ川だ。キュベレ山からグロイスに向かって伸びるカール島随一の大河だが、キュベレ山を流れる間はまだほんの小川である。ちなみに、カラハリが凍ったまま放り込まれたのはアスマラ川のさらに上流にあたる。生活用水として使いやすいように、また村の子どもたちが水泳を学べるように、村の先人たちが川底を掘って水位を確保し、川幅を広げて流れを緩やかにする治水を行ったことで、村の水源として十分な役割を果たしていた。白烏の森に端を発するアスマラ川は、こうしてプレーリー村を縦断した後にグランドウッドへ至ることになる。

 グランドウッドを抜けるには川沿いを進むのがほぼ唯一のルートであった。数日がかりの旅なので水が近くにあった方がいいし、何より道に迷わずに済むからである。

 パックは神経を研ぎ澄まし、敵の気配を探っていた。探索用の魔法なしでも気配だけで敵の位置を特定するくらいのことは、パックには造作もない。果たして、マントの男の気配を川沿いのはるか先から感じていた。森に身を隠してやり過ごすよりも最速で魔法陣圏外へ抜けることを選んだか、あるいは彼の次の目的地がグロイスで、ただ向かっているだけかもしれない。

 もう一つの可能性としては……俺たちを待っている。

 いずれにせよ逃がすつもりはない。

「先生、方角合ってるんですか?」

 後ろから訝しがる声が聞こえた。今更すぎる質問に、パックは楓のたてがみに突っ伏しそうになった。

「気配読め、気配!」

と一喝し、裏拳でジョージのデコを打った。いっでぇぇ! と呻く声の主にオマケでもう一発見舞ってやる。

「いいか。気配が読めれば索敵に役立つだけじゃない。死角がなくなるようなもんだから複数を相手にだって立ち回れるし、視認できない高速戦闘にだって対応できる」

「オレだって全然気配読めないわけじゃないですよ、先生の索敵範囲が異常なだけですって」

 ジョージは必死に抗議した。

「だって、グロイスにいながらマントの男が村に来たの気付いたんでしょ? 馬で五日の距離ですよ、五日!」

 パックは「言い訳すんな!」と一蹴する。

「俺がすげぇのはわかってる」

「自分で言っちゃったよ! 実際すげぇけど」

「目標は高く持てってこった。師匠やべぇ、追いつけねぇ、じゃなくて、超えてやるくらいの気概を持て」

「言われなくても」

 ジョージは鼻を鳴らした。

「オレの目標は先生を叩きのめすことですから」

「ほー言うねぇ。残念ながら来世に期待だな」

 励めよ、と続けたがジョージに届いただろうか。


 グランドウッドへ差し込む木漏れ日が西日に変わっていた。ただでさえ薄暗い森が夜のとばりに包まれようとしている。

 楓はすでに四時間以上走り続けていた。普通の馬の倍くらいの距離を走破している。楓はどんなに悪路であろうとも高い脚力を百パーセント発揮することができるし、従って、道を選んで迂回する必要もない。木が馬に道を開けてくれると錯覚するほどの、アーレンの馬に特徴的な踏破力が如何なく発揮されていた。

 迷いなく一直線に馬を駆るパックには敵の位置が感知できているようだが、ジョージはまだ黒いマントの男の気配を捉えられてはいなかった。気配読め! と一喝されて必死に神経を尖らせていたものの、無理なものは無理である。だからといって落ち込んでも仕方がない。こうやって鍛錬を続けていればそのうちパックみたいになれるだろうとジョージは楽観的だった。

 パックの索敵能力があればマントの男はすぐに見つかるだろうし、パックの強さがあればすぐに片も付くはずだ。キユリは広大な森から敵を探さないといけない労力を考慮して「引っ越すまでに帰ってきて」と期限を切ったのだろうし、ジョージも感傷的だったので「絶対に見送りをするんだ!」と心に誓っていたのだが、よくよく考えればほんの数日で村に戻れてもおかしくはない。口笛を吹きたくなるような心の余裕が生まれていたが、また裏拳が飛んできそうなのでジョージは神妙にしていた。

「先生、そろそろ野宿の準備しますか?」

 楓の旅荷のなかにはテントも積まれているし、パック流剣士たる者、野営訓練も受けている。

「いや、このまま行く」

 楓の手綱を握るパックはにべもない。そろそろお尻が痛くなっていたジョージはがっくり肩を落としたが、

「もうすぐ追い付く」

 お尻の痛さは彼方へ吹き飛んだ。追い付くって……、

「準備しとけよ」

 ほら来た、とパックが呟くや否や、突如見えない壁に圧し返される感覚がジョージを襲った。

 ビリビリと身体に響く圧力だった。気配などという生ぬるい代物ではない。憎悪の念のこもった圧倒的な殺気が一気呵成に攻め込んでくる。

「先生……!」

 自分でも気付かないうちに、左手はパックの服の裾を握りしめていた。右手は不知火の柄に添えられている。いつでも抜ける。

「伏せろ」

 鋭い声を発したのはパックである。同時に、ジョージの頬を何かがかすめた。切れた肉から血が噴いた。

 はるか後方から激しい爆音が響く。山肌に着弾した「何か」は、目算で半径百メートル圏内の木々を一瞬で灰燼かいじんに帰し、むき出しになった大地は深々とえぐり取られていた。

 ほんの数センチずれていたらどうなっていた。頬から出血するくらいじゃ済まなかっただろうと想像し、ジョージは背中がぞわっと冷めた。

「先生、対魔法結界は!?」

 あれはおそらく魔導砲だろう。もっとも、村で食らった時とは桁外れの威力だ。

「効いてるはずだぞ? 俺は魔法使えねーし。ほら見ろよ、火もつかん」

 パックは指をパチパチ鳴らして見せたが、確かにうんともすんともである。ジョージは眉をひそめた。魔導砲も魔法の技だから結界の効力で使えないはず。

「おい。ちょっと手綱頼むわ」

「は?」

 パックの服の裾を掴んでいたはずの左手は、気づいた時にはいつの間にかただの握りこぶしになっていた。ジョージは動転しながらも空席になった鞍の前方にずり寄り、急いで手綱を取った。楓は耳を小刻みに動かしながら、徐々に速度を落としていく。

 不意に真っ赤な夕日が飛び込んできた。パックとマントの男の戦いの余波で、西の木々が一面粉微塵に切り刻まれ、視界が開けたからであった。

 何が何だかわからない。

 戦いの状況は全くの不明なのに、周りの森だけがどんどん荒れ地と化していく様は脅威だった。

 楓は戦いの巻き添えを避けるように走っていた。急に方向転換したかと思ったら、その先の地面に亀裂が走り、底も見えない地割れとなった。ミシミシと音を立てながら、根がむき出しになった木々が地割れの谷に飲まれていく。ついさっきまで自然豊かな山の斜面だったのに、対岸まで幅二十メートルはあろうかという底なしの崖に変わっていた。

 地形が変貌していく。

 のっけからしてジョージに手が出せる次元の戦いではなかった。上空で激しい金属音と激突の明滅が繰り返されているが、その音と光以外に戦いの様子はうかがい知れない。

 楓が急に足を早めた。楓には、二人がどこを飛び回っているか分かっているのだろうか。

 速度を上げた楓が向かった先で、ジョージは目をしばたかせた。信じられない光景だ。地面に突き刺した剣を支えに、やっとという様子で立っているパックの姿がそこにあった。

 白木の柄の美しい片刃の刀、破邪剣。パック専用の剣である。パックが破邪剣を抜くことはめったにない。剣なしでも大抵片が付くからだ。そんなパックが、剣を手に息も絶え絶えに膝をつきそうになっていた。

 相対するはマントの男。所々破れてはいるものの、身を包む黒いマントも、顔を覆うフードも健在だった。

「先生!」

 ジョージは加勢しようと不知火を抜いたが、

「来るな!」

 パックは物凄い覇気をはらんで叫んだ。師匠の指示はジョージの体を条件反射でフリーズさせた。

「近寄るな! そこで見ていろ!」

「逃げろ、の間違いではないのか。小僧をかばっていてはお前も満足に戦えまい。私を失望させてくれるな」

 嘲るように鼻で笑ったのは黒いマントの男だ。パックはマントの男を鋭く睨んだ。

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