第6話 正しい反逆のやり方

「まだか、まだネルソンは出頭せんのか!」

 すでにここ数日の使用でひび割れ始めた木製の肘置き。

 国王が腰掛ける歴史あるその玉座に向かい、宰相のムラーラはまったく容赦することなく拳を振り下ろす。


 王の間に響き渡るギシリと歪む音。

 それを耳にした軍務大臣のバフォランと、同席していた治安部隊長のガルティンは、首をすくめながらお互いの顔を見合わせる。

 そしてバフォランが小さく頷くと、ムラーラに向かい恐る恐るその口を開いた。


「部下の報告によりますと、前王の墓石に祈りを捧げてから参りたいと言っているらしく、流石にそれを無理やり拒否するのは……」

「既に死んだ人間のことを優先し、生きている者を軽視するのは愚か者の所業だ。ましてやこのわしをな」

 不快だった。

 元々ネルソンはムラーラに対し従順な人間ではない。

 だがネルソンが自分に対し不敬な発言や行動を取りえたのは、英雄として彼を可愛がる前王の存在があればこそであった。


 そして既に前王は存在しない。

 となれば、ネルソンが彼に跪いて、今後の忠誠を誓うことが筋であるとムラーラは考える。


 しかしながらすぐに頭を下げに来ねばならぬはずのネルソンは、彼よりも前王を優先し即座の出頭命令に応じていなかった。


「陛下、前王への祈りと言えば、実は一つ気になることが」

「何だ、ガルティン」

 未だ正式なものではないものの、陛下という呼称で呼ばれたことに僅かに気を良くしたムラーラは、治安部隊を率いるガルティンに向かい先を促す。


「部下たちを貼り付けている旧軍上層部の面々なのですが、そのいずれもが本日外出致しております」

「……どういうことだ?」

「わかりません。しかしただの偶然とは思いかねます。どこかでネルソンに接触し、良からぬ企みをするつもりかもしれません」

 ムラーラの問いかけに対し、ガルティンは畏まりながら自らの私見を述べる。

 すると、ムラーラは軽く顎を撫で、その後に重々しい声で一つの方針をその口にした。


「やはりこの国における災いの元凶はネルソンの存在か。結局は排除するしかないということだ」

「はい。ですが、それはあくまで騎士国相手に使い潰した後が良いかと」

 軍務大臣を務めるバフォランは慌てて口を挟む。


 現在のところ、彼らはどうにか騎士国の侵攻を押し留めてはいる。

 しかしながらそれは地の利を最大限に活かしたからであり、一人の厄介な男が最前線に出てくれば簡単に覆る程度のものであった。


「危惧はわかっておる。あの天枢のギルゴロスがいる限り、あの男には利用価値がある。もっとも、できることならば共倒れしてくれれば、手間も省けて──」

「宰相閣下。ネルソン提督一行が閣下とのお目通りを願い、たった今到着いたしました」

 ムラーラの発言を遮る形で室内に姿を現した警備兵は、頭を下げながらそう報告を行う。


「ふん、ようやくか。いいだろう、中へ通せ」

 軽く鼻息を立てながら、ムラーラはわずかに口元に嘲りの笑みを浮かべつつそう告げる。

 そしてすぐさま、警備兵に先導される形でネルソンが凛とした佇まいのままその姿を現した。


「遅かったな、ネルソン」

「陛下の墓標を参っておりましたもので、申し訳ありません」

「そのことを咎めているのではない。貴様の仕事が遅いという意味だ。あれだけの戦力を用意してやったにも拘らず、報告によるとどうやらダグラスを落とせなかったそうではないか」

 ムラーラは意味ありげな笑みを浮かべながら、嬲るようにそう告げる。


 確かにダグラスを占拠するのに支障がないだけの戦力を用意したのは事実であった。そして無駄に戦費をかけぬため、彼の国のクーデターを煽動したのもである。しかしそれは決して短期間で支配を確立できるほどのものではなかった。


 そのことをムラーラは十分に理解できてはいない。

 だが究極的にはそのようなことはどうでも良く、今の彼にとって大事なことは、目障りなネルソンの非をなじり如何に排斥するかだけであった。


 作戦失敗を咎め、より困難な任務を押し付ける。

 それが目の前の男を使い潰す上でもっとも有効な手法であり、今の状況に自然と彼の口角は吊り上がってくる。


 返される言葉は言い訳か、謝罪か。

 そのいずれかであることは明らかであり、たとえどちらであろうとも、騎士国との前線に送るだけの会話シミュレーションをムラーラは行っていた。


 しかしネルソンから返された言葉は、そんな彼の想定を大きく裏切る。


「いえ、どのような報告を受けられたのか存じませんが、宰相閣下に命じられた作戦に関しましては、支障なく成功致しました」

「ば、馬鹿な、貴様はダグラス攻略に未だ手間取っておるではないか!」

 思いもかけぬ返答に対し、思わずムラーラは戸惑いと狼狽を見せる。

 だがネルソンは表情一つ変えること無く、逆に軽く首を傾げてみせた。


「はて、そのような事実はありませんが……そうですね、実際に見ていただいたほうが早いでしょう。例の方々を連れてきて下さい」

 ネルソンのその指示を受け、後方に控えていた兵士の一人は、扉の外に待機させられていた人物たちを部屋の中に連行してくる。


 数名の警備兵の監視のもと、その両手を縛られながら姿を現した者たち。

 それは実に奇妙な面々だと、ムラーラの目には映った。


 艶やかな長い髪を有する美女に、眼鏡を掛けたボサボサの髪を有する青年、そしてまだ幼さを感じさせる少女。

 その三名の間に何らの共通点も関連性も見出すことができず、ムラーラはネルソンの意図を測りかねる。


「……此奴らは何だ?」

「ダグラス王国王女と、その配下の者たちです」

「な……王家のものを捕らえたというのか!?」

「そうですが、何か問題でも?」

 眉間にしわを寄せながら、ネルソンは何ら悪気のない表情のままそう問い返す。

 すると、ムラーラは思わず唸り声を上げた後に、急ぎ突つくことができる重箱の隅を見出した。


「むむぅ……いや、大したことではない。だが、彼の地の攻略に成功しているのならば、まずはこのわしに一報入れておくべきだろう」

「それは大変失礼いたしました。何しろ彼の地の案件が解決したのが、出頭の連絡を頂きましたまさに直前でありましたもので……その代わりと言っては何ですが、彼の国の後継者であるメア王女をこうして捕虜としてお招きしました」

 なんでもないことのようにネルソンは淡々とそう告げると、その視線をメアへと動かす。

 その視線の先、そこには顔を真っ赤にしながら怒りに震える、一人の少女の姿があった。


「ネルソン! 人さらいをしておいて、招くなどとはよく言ったものね!」

「何分、国益のために行動せよと私は命じられておりましたので、このグイネットのためにその身柄は拘束させて頂いただけです。どうかご容赦の程を」

「誰よ、そんな命令を出したのは」

 ネルソンの言い回しに不快感を覚えたのか、メアはその可愛らしい口から信じられないほどの怒りを込めてそう問いかける。

 すると、わずかに心の動揺を落ち着けた男が、彼らの会話に割って入った。


「……命じたのは私だ。何か文句があるのかね、メア王女」

 その言葉は自己顕示欲の発露の結果として、ムラーラの口から紡がれた。


 自らの判断が正しかったことを示したいという欲。

 幼い少女の見目麗しさに僅かな色を感じ取ったことによる欲。

 そして何より他国の王族に対し自らが支配者であると印象づけたいと言う欲。


 それらとネルソンに対する対抗心が入り混じり、ムラーラとしては不本意な部分が存在したものの、自らの主導を主張する以外に選択肢はなかった。


「貴方が元凶なのね」

 メアは静かな声で、ムラーラを睨みつけながらそれだけを口にする。


「人を元凶などと呼ぶとは、実に敗北者らしい言葉遣いだ。ところで敗戦国の王女、これからの支配者であるこの私に何か言うことはないのかね」

 絶対の支配者に対し、頭を下げて謝罪を口にする。

 それがムラーラの考える敗戦国の人間の姿であった。


 だからこそ彼は、メアが屈辱にまみれながら謝罪の言葉を述べることを想定し、また期待してもいた。

 しかしメアは挑戦的な態度を崩すこと無く、逆に強い口調で非難の問いかけを行う。


「他国でクーデターを指嗾し、そのまま乗っ取りの軍を送り込むとは、貴方は良心に恥じるところがないのですか?」

「ふん、負け犬の遠吠えだな。全てはなんら手を打てなかった貴様らの弱さが故だ。弱きこと、そして愚かであることはそれ自体が最大の罪。ましてや、国を預かるだけの地位にある者であればな」

 完全に勝ち誇った表情から発せられたその言葉、それは紛れもなく敗者を見下したものであった。


 グイネット城の王の間は一瞬静まり返る。

 しかしその沈黙を破ったのは、眼鏡を掛けた一人の奇妙な男であった。


「いやはや、確かに負け犬の遠吠えですね。まさに一考の価値もない。ええ、私も全く同感です。どうにも宰相閣下とは気が合いそうな気がしますね」

「……誰だ、貴様は?」

 突然発せられた追従の言葉。

 ムラーラは王女の横に立っていたその発言主を軽く睨みつける。


 しかしそんな恫喝の如き視線に対し、ボサボサの髪を有する眼鏡の男は、全く気にする風を見せず口元に笑みを浮かべてみせた。


「ただの司書にして、貴方の言葉の賛同者です。しかし、弱く愚かなことが罪という考えは実に素晴らしい。ですので、こちらも全く同じ手法を取らせて頂くことにしました」

 司書を名乗る青年はそう口にするなり、ニコリと微笑む。

 そして次の瞬間、彼らの周囲を囲む形で中へ入ってきた警備兵達は、突然王の間に控えていた周囲の兵士に切りかかった。


「き、貴様ら、何のつもり──」

「ハッ、アンタのご主人の賛同者だ。あの食えない司書が言うとおりにな」

 動揺する王の間の警備兵を一刀両断し、わずかに酒臭さの残る男はそう告げる。

 するとそんな彼に向かい、もうひとりの偽装警備兵は両手のナイフを振るいながら窘めるような言葉を放った。


「ランテル、お前の酒を抜くために時間がかかったんだ。もっと責任を感じてキリキリ働くんだな」

「へぇへぇ、グレンどののおっしゃる通りに、一先ずはせいぜい真面目に働くさ。そのほうが祝杯も、そしてこの土地のお姉ちゃんも喜んでくれそうだしな」

 軽口を叩き合いながら、動揺する王の間の警備兵たちを二人は次々と切り捨てていく。

 その光景を目の当たりにし、王都治安部隊長のガルティンは慌てて兵士たちに指示を下した。


「反乱だ。急ぎ、この者たちを鎮圧せよ!」

 ガルティンはそう指示を下すなり、自らも腰に下げた剣を抜き放つ。

 だがしかし、彼のようにすぐさま対応できるものは少数であった。


「どうした、お前たち早くこの者たちを押さえんか!」

 軍務大臣のバフォランは、苛立ち混じりに怒鳴りつける。

 しかし兵士たちの動きは鈍い。


 もっともそれは当然であると言えた。

 旧王家寄りとみなされていたかつての国王警備部隊の者たちは、現在この王都には存在しない。潜在的な不穏分子として、使い潰す目的で彼らは騎士国との戦いの前線に送り込まれていた。


 代わりにこの王の間を警護しているものは、宰相派として知られていた治安維持部隊の兵士たちである。

 残念ながら彼らは、無抵抗の被疑者に武器を振るったことはあっても、戦場や実戦で敵と剣を交わせたことがなかった。

 それ故に、圧倒的多数の警備兵たちが、たった二人の男に翻弄され押されるような無様な形となる。


 そんな惨めな光景。

 それに不満を持つ者がいた。それも二人も同時にである。


「何をしておるのだ。そんな反逆者ども、さっさと排除せんか!」

「いやぁ、やはり宰相殿とは気が合いますね。ランテルさんにグレンさん、さっさと反逆者を守る見掛け倒しの護衛を排除して下さい」

 ムラーラに続く形で、セナは彼自身何もすること無く、ただ軽い口調でそう告げる。

 途端、新たに突っかかってきた敵兵を剣で薙ぎ払ったランテルが、舌打ち混じりに苦言を呈した。


「おいおい、司書さんよ。さっさと片付けたいなら、もう少し戦う数を増やしてくれや。例えば、そこで今すぐにでも参加したそうなお姉ちゃんとかな」

「ふん、教官に言われなくとも参加するさ」

 ランテルの言葉を耳にするなり、いつの間にか縄をほどいていた長髪の女性が、セナやメアの指示を待つこと無く背中に隠していた剣を振るい始める。

 それはまさに光のごとく、不幸にも彼女の眼前に立っていた兵士達は、次々とその存在を断ち切られていった。


「な……まさか貴様ら、このわしを害するつもりか!?」

 両手を拘束された捕虜が剣を所持していた上、あっさりと縄抜けをしてみせた事実。

 それを目の当たりにして、ムラーラはセナの言葉の意味をようやく理解する。


 だがそんな企みを計画した当人は、何故か残念そうな表情を浮かべていた。


「はぁ、バレちゃいましたか。まったくクローネは本当に手が早い……せっかく混乱の中で少しずつ宰相閣下に近づいていって、あっさり事を終えようと思っていたのに」

「でも大勢に影響はない。そうですよね、セナさん」

「ええ。敵国でのクーデターとは、ただ狙うだけでは意味がありません。環境を整え、心理の裏をかき、抵抗する暇を与えず事を成す。宰相殿には今回の一件を参考にして貰えれば幸いです。もっとも今後その機会があればですが」

 眼鏡を人差し指でズリ上げながら、メアの問いかけに答える形で司書は皮肉げにそう告げた。

 一方、どこの馬の骨かわからぬ男に苔にされ、ムラーラは憤りを露わにしながらあらん限りの声で指示を下す。


「増援だ、至急増援を呼べ!」

「無駄ですよ、宰相どの。先程も申した通り、既に環境は整っているのです……つまりあなた方が増援など望めぬ環境が」

 軽く両手を左右に広げながらそう述べると、セナは右の口角を吊り上げる。


「馬鹿な、たしかに騎士国との戦いのために、城に常駐する兵士は少なくなっている。だがそれでも、貴様らを鎮圧できるくらいの数は──」

「おりませんよ。既に王城内の兵士は、目の前の仕事で手一杯です。何しろ我々がこの部屋に入ると同時に、城内と城外で同時多発的に武力蜂起が起こっているのですから」

 ムラーラの発言を遮る形で、セナは丁寧に彼らのあずかり知らぬ現状を言葉にした。

 途端、この国の仮初めの王は絶句する。


「なん……だと……」

「この国の旧軍指導者を甘く見ていましたね。彼らは日和見ではあっても無能ではない。残念ながら、仮想敵であった我々の方がその事実をよく理解できていそうです」

 動揺するムラーラに対し、セナは苦笑を浮かべながらそう告げる。


 そう、実際にこの王都の様々な地域で小規模の反乱が生じていた。

 全ては英雄であるネルソンの名前を持って、ムラーラにより軍を追われた不満分子を焚き付けた結果である。


 もちろんそれらの武力蜂起自体は、一つ一つの規模は小さく大したものではない。

 しかしボランズ騎士国により侵攻を受けている今、この王都内に残留した兵士は限られている。それ故、王の間での騒ぎを嗅ぎつけて大挙して増援に飛び込んでくることなど、とてもではないが不可能であった。


 そのことを理解したムラーラは、眼前の者たちと同じ程にボランズ騎士国を胸の内で罵る。


 しかし彼は知らない。

 現状の不利を生み出したボランズ騎士国との戦いさえ、眼前に立つ一人の男の頭の中から生み出されたものであるということを。


「軍務大臣バフォラン、治安部隊長ガルティン、そして宰相ムラーラ。あなた方を陛下暗殺の疑いで拘束いたします。抵抗なされるなら、この場にての処断も辞すことはありません。どうかご理解の程を」

 それは混乱のさなかにある王の間において、凛と響く言葉であった。

 その声の主であるネルソンに向かい、ムラーラは怒りと不快を露わにしながらただ感情のままに声を発する。


「ふざけるな!」

「ふざけているのは貴方です、ムラーラ宰相。よくも私の不在中に陛下を手にかけてくださいましたね。その罪は万死に値します」

 高らかにそう宣言すると、ネルソンはまっすぐに宰相に向かい歩み始める。


 その妨害をせんと、もはや護衛さえいなくなったガルティンとバフォランは、一斉に彼目掛けて剣を振るう。

 だがそんな彼らの剣閃は、ネルソンに届くことはなかった。


「これが英雄へ向けんとする剣なのか? あまりに生ぬるすぎる。教官が酔いつぶれた時に振るう剣と変わらんレベルだ」

 二人の剣をただの一振りで破壊してみせた美女は、露骨に残念さと嫌悪感を露わにしながらそう呟く。

 すると、無関係にも拘らず彼女によって小馬鹿にされた男は、不満げな表情を浮かべながら、その太い両腕で男たちを拘束した。


「酔っていてもこいつらよりはマシだろう。というか、俺の腕は女を抱きしめるためのもので、こんなオヤジたちを捕まえるためのものではないんだがな」

「くだらないことをぼやいている暇があれば、さっさと無力化して他の兵士の相手をして下さい」

「昔はおじさんおじさんって言ってくれてたのに、今ではまともに教官扱いさえしてくれねえ。まったくどこで教育を間違えたんだか……」

 姪から軽蔑の眼差しを向けられたランテルは、ガルティンたちを絞め落としたあと、思わずその肩を落とす。

 そしてやむなくクローネに続く形で、グレンたちとともに残敵の掃討に参加した。


「終わりです、宰相閣下」

 間近まで歩み寄ったネルソンは、眼前の国賊に向かいそう告げる。

 途端、ムラーラは目の前の英雄に向かい唾を吐きかけた。


「卑怯者が! この国を売りおって!」

 その言葉にわずかばかり、ネルソンが視線をそむける。

 すると、彼に代わって眼鏡の青年がムラーラへと答えた。


「負け犬の遠吠え……ですね。全てはなんら手を打たれなかったあなた方の弱さが故。弱きこと、そして愚かであることはそれ自体が最大の罪。違いますか、ムラーラ元宰相どの」

 その言葉はまさに先程ムラーラ自身が口にした言葉であった。それ故、宰相は顔を真っ赤に染め上げる。

 既に彼は自らの敗北を悟っていた。


 配下の兵士たちは既にネルソンたちの一行によって排除され、自らの身柄は敵の手に堕ちたも同然。

 だがそれでも、彼は認めることができなかった。


 己の人生を賭けたグイネット簒奪という一大事業。

 その完遂を目の前にして妨害され、あまつさえ愚弄されたと言う思いは、決して許しえるものではなかった。


 だからこそ、彼は腰に刺した剣をネルソンに向かい抜き放たんとする。


「無駄です、宰相閣下」

 ネルソンはそう口にするなり、ムラーラの首に剣を突きつけた。

 途端、ムラーラはその姿勢のまま固まり、最後のあがきとばかりに呪詛の言葉を投げかける。


「許さん。貴様たちを、絶対に許さんぞ」

「貴方が許そうと、許すまいとそれは構いません。ですが御自分が行ったこと、そしてこの国をどうしてしまったのかを恥じ、天にて陛下に詫びて下さい」

 それだけを告げると、ネルソンはゆっくりと手にした短剣を振り上げた。


 彼は一瞬その目をつぶる。

 眼の前にいる人物は王を殺した大罪人。

 しかしながらそれでも、王家の血筋を引く存在であり、何よりこの国の人間でもあった。


 だからこそ、僅かな躊躇が彼を襲う。

 これまで敵を無数に屠ってきた彼も、グイネットの人間に刃を向けたことだけは一度たりともなかったが故に。


 だが小さく息を吐き出すとともに、覚悟を決めた彼は短剣を振り下ろす。

 しかしそこには、既に崩れ落ちゆく宰相の姿があった。


「セナ……」

 彼の隣には、血まみれの剣を手にする一人の男が佇んでいた。

 返り血を浴びたまま小さく頭を振る彼は、いつものように旧友に語りかける。


「ネルソン、君がこんな俗物のことを思い悩む必要はない。ましてやその手を汚す必要もね」

「だけど……」

「君は最後までムラーラを説得しようとした。しかしながら説得が叶わず、その場に居合わせた別の者によって宰相は殺されてしまった。ただそれだけの話さ」

 それだけを告げると、セナはポンとネルソンの肩を叩き、そのまま王の間より歩み去っていく。

 そしてセナは虚空に向かって呟いた。


「英雄には英雄の仕事が、そして英雄になりそこねたものには、英雄になりそこねたものなりの仕事がある。ただそれだけのことさ」


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