第三章

第1話 新たな一手

「歩兵を前に進め、馬を落とそう」

「ああ……流石は海軍将どの。一筋縄ではいかないな」

 現在の盤面に置いてキー駒とみなされる馬を取られ、セナはわずかに口元を歪める。

 すると、図書室にて彼と対峙していたネルソンは、爽やかな笑みを浮かべながら首を軽く左右に振った。


「そんなことはないさ。盤面は一見不利に見えるけど、まだ諦めていない。君の目はそう語っているよ」

「まいったな。色を失ったこの目は意外とおしゃべりのようだ」

 軽く肩をすくめながら、セナは軽く笑う。

 するとネルソンは、一つの疑問をその口にした。


「しかし敗軍の将を、ここで遊ばせていて本当に良いのかい?」

「それを決めるのは私の仕事ではないからね。何しろ私はただの司書さ」

「おやおや、肩書きと握っている実権が乖離していることは、既に周知の事実ではないかと思われますが」

 顎に手を当て盤面の隅々へ視線を走らせながら、ネルソンはそう告げる。


 当然ながら彼は理解していた。

 牢に放り込まれること無く、ある程度の敬意を払って遇されているのは、間違いなく眼前の人物の手配によるものだということを。


 ただ実際のところとしては、ほぼ王国軍に被害のない一方的な戦いであったことが大きく寄与している。むしろ誰一人殺されること無く、そしていつの間にか戦いが終わっていたことに対する困惑のほうが、ダグラスの人々にとっては強かった。


「で、私をどうするつもりかな。殺すつもりかい」

「殺す? なぜ君を殺す必要があるのかな」

「敵の将であり復讐の対象。十分殺すに値すると思いますが」

 心底不思議そうな表情を浮かべるセナに向かい、ネルソンはやや呆れ気味にそう告げる。

 途端、セナは笑いながら何度も首を左右に振った。


「はは、どちらも私には関係ない話さ。もちろん誰が私を殺そうとしたのかに興味がないといえば嘘になるけどね。でも少なくとも、君は犯人ではない」

「なぜそう言い切れるのですか?」

「君の神器は弓。そして私の胸は背後から何かによって突き刺され、証拠を隠滅するかのようにすぐ引き抜かれた。となれば、少なくとも得物が矢であったとは考えられない。それが理由さ……ともかく、過去を振り返るのはここまでにしようか」

 セナはそう口にすると、改めてネルソンへと向き直る。


「これから君はどうしたい? 敗軍の将として、国に帰りたいかい?」

「質問を質問で返すのは少しズルいな。ともかく、その気持ちが無いとは言わないよ。たとえそれが茨の道だとしてもね」

 現実的には何らかの戦後交渉が終わるまで、故国に帰れるなどとは思っていなかった。そしてネルソンは、それが簡単なものではないことを理解している。

 それはグイネット海軍の今回の敗北があまりに大きすぎたことに一因があった。


 海軍の有するほぼすべての船を接収され、膨大な数の海軍兵が捕虜となった今、それらの返還に見合う賠償は到底想像もつかない。

 ましてやその中に、英雄であるネルソン自身が含まれるとすればである。


「茨の道……か。おそらく君にとっては宰相閣下の存在こそが茨だと言うべきだろうけど」

「……なるほど。我が国が負けるわけだ」

 セナがあっさりと鍵となる人物のことを口にした事に対し、ネルソンはもはや諦めの境地になりながらそうこぼす。そして改めて彼は言葉を続けた。


「……君も察しているかもしれないが、宰相殿は我々に帰還を求めない。船は別かもしれないけどね」

「だろうね。特に君は彼にとって邪魔。そういうことだろう?」

「ああ。陛下の体調がよろしくない今、軍の支持を集める私は彼にとって目の上の瘤なんだろう。もともと今回の遠征も片道切符だったからね」

 疲れたように肩を落としながら、ネルソンはセナに向かってそう告げる。

 すると、彼の眼前の男は少し迷ったそぶりを見せた後、突然思いもかけぬ内容を切り出した。


「なるほど。ならば言っておいた方がいいだろうね」

「何をだい?」

「崩御されたよ。君たちの王、ケーレック四世は……」

 一瞬、場の空気は完全に凍りついた。

 そしてそれが融解した瞬間、ネルソンはセナへと詰め寄る。


「ばかな。確かに体調は思わしくなかった。しかしそんな急に……まさか!?」

「おそらくは殺されたんだろうね。何しろ、君たちが港を出たその直後のことだったみたいだからさ」

 セナがそう告げた瞬間、愕然としたネルソンは思わずうなだれる。


「なんということだ。つまり私が引き金を引いたということなのか。私がこの地に向かいさえしなければ……」

「無意味な仮定さ。何しろ君をこの地に向かわせたのは宰相どのなんだろう?」

 その言葉が意味するところ、それは明白であった。

 途端、ネルソンは俯いたまま自らの膝に拳を叩きつける。


「ケーレック様……申し訳……ありません」

 彼の脳裏に、出発前に最後に謁見した王の姿が思い起こされた。

 病魔に蝕まれた体でありながら、遠征前のネルソンの無事を気遣う言葉を授けてくれたあの優しき賢王を。


「私は期待に応えるどころか、貴方を守ることすらできなかった……悔やんでも……悔やみきれない」

 涙は流さなかった。声を上げることもしなかった。

 ただ拳を握りしめ、ネルソンはわずかに肩を震わせる。

 部屋の中をただ沈黙だけが支配した。


「……ネルソン、私から二つ提案がある。聞いてくれないかな」

 ネルソンが少し落ち着いたのを見て、セナは彼に声をかける。

 だがネルソンは依然として呆然としたまま、言葉を返すことはない。

 しかしセナはそのまま構わずに言葉を続ける。


「一つ目の提案、それは君の部下共々この国に亡命し、一市民として生きていくことだ。敗戦後の捕虜の扱いとしては、決して不満は出ないものだと思う」

「それはつまり罪は問わないということですか?」

「ああ。実際に結果だけを見て、君たちが何かしたかい? いや、そういえば君だけは砦を壊してくれたか」

「……ありがたい話と考えるべきなんだろうね。だけど、君の本命はもう一つの方。そうなんだろう?」

 かつてのセナの話し口を思い出したネルソンは、あっさりと眼前の人物の考えを察してみせる。

 するとセナは、思わず小さく頭を振った。


「流石に君にはバレているな。その通り。もう一つの提案、それは──」

「居候、これはどういうことだ!」

 セナの提案を遮る形で、突然図書室に怒鳴り込んできた人物。

 それをセナは、視線を向けることなく察してみせた。


「君も昇進して千人長になったんだろう。もう少しマナーや礼節を重んじるべきじゃないかな」

「うるさい、今はそんなことどうでもいい」

 セナが繰り出した皮肉を、クローネは怒りのままバッサリと一刀両断する。

 そんな彼女の反応にある種の諦観を覚えたセナは、やむを得ないとばかりに話を先へと進めた。


「はぁ、それで何の用かな、千人長どの」

「何の用だと、自分の胸に聞けばすぐにわかるだろう。一体なんだこの作戦案は!」

 そう口にしながらクローネが取り出したのは、メアのハンコが押された一枚の紙であった。

 それを目にするなり、セナは満足そうに一つ頷く。


「ん? ああ、これね。ちゃんと議題に挙げられたようで良かった良かった」

「良くはない。貴様、メア様経由で私的に作戦案を持ち込んだだろう。この卑怯者め」

「卑怯者扱いされるのは少し不本意かな。まあ、ずるいと言われるのはわかるけどさ」

 心外だという表情を浮かべながら、セナは軽い口調でそう返す。

 途端、いつものようにクローネの鼻息は荒くなった。


「ええい、とにかくだ、貴様は我が国を戦争に追い込むつもりか」

「戦争?」

 思いもかけぬ言葉を耳にして、思わずネルソンが反応する。

 すると、クローネはやってしまったという表情を浮かべながら、慌てて口止めに走った。


「む、英雄どのもここにおられたか。しまった、聞かなかったことにしてくれ」

「いや、別に聞かれても構わないさ。元より彼には協力してもらうつもりだしね」

 さらりと発せられたセナの言葉。

 それを耳にしたクローネは、すぐさま彼へと詰め寄る。


「なんだと、どういうつもりだ!」

「どういうも何も、グイネットに逆侵攻するとして、どうやって兵士を送り込むつもりだい?」

「それは……いやそれ以前に、逆侵攻なんてありえない。前提条件以前の問題だ!」

「はて、どうしてかな? 向こうは攻めてきたんだよね」

 軽く小首を傾げながら、セナは真顔でそう問いかける。

 すると、クローネの顔が興奮のためか一気に赤く染まった。


「貴様我が国を滅ぼす気か。グイネットが我が国の何倍の国力を有していると思っている?」

「さあ、どれくらいだろう。せいぜい十倍くらいかな。でも一緒だよ。白黒つけるなら勝ちか負けしかない。つまり結果だけで論じるならば二分の一が勝利さ」

「そんな訳があるか、また私を騙すつもりだな。その手には乗らんぞ!」

 これまでも散々セナの口車に乗せられてきたため、この程度の誤魔化しはあっさりと切り捨てる。

 一方、セナは少し残念そうな表情を浮かべつつ、向かいの椅子に腰掛けている男性を巻き込みにかかった。


「疑り深いなぁ。ネルソン、君もなんとか言ってやってよ」

「セナ……もしやそれが君のもう一つの提案なのか」

 セナから声を向けられたことで、ネルソンは眼前の男性が言外に伝えようとしていることを理解する。

 すると、それで間違い無いとばかりに、セナは一つ頷いた。


「帰国する君たちの船に乗って、グイネットに逆侵攻する。いわゆる目には目を歯には歯をというやつだね」

「……つまり私たちに先導役になれと?」

「ああ。そうすれば、君たちも帰国できる。我が国も捕虜の取り扱いに悩まなくて済む。そして何より大陸に橋頭堡を築くことができる」

 指を一本ずつ立てながら、セナはいつもの口調でそう告げる。

 それを受けてネルソンは、思わず大きな溜め息を吐き出した。


「なるほど……君の目はさらに先を見ているわけですか。変わりませんね、セナ。やはり貴方はセナ・マクルートだ」

「さて、受けてくれないかな。君にも、君の部下たちにも、そして何よりグイネットの国民たちにとっても決して悪くはしない」

 そう言い切ると、セナは真っ直ぐにネルソンを見つめる。

 それに対しネルソンは、わずかに視線を逸らした。


「……少し考えさせてくれないか」

「うん、当然だね。ではクローネ、彼をメア王女の元へ案内してくれるかな。きちんとした条件を確認した上で、今回の作戦案を検討して欲しいからね」

 ネルソンの立場を立てながら、セナは自分だけの話ではないことを強調するために、そんな提案を行う。

 だがセナによって命じられる形となったクローネは、憤慨を隠さなかった。


「全く貴様はいつも勝手に話を進める。私はこの件に賛成したわけではないんだぞ」

「クローネどの、申し訳ないが王女様への取り次ぎをお願いできないでしょうか?」

 そう言ってネルソンは、クローネに軽く頭を下げた。

 もちろんセナの提案は言葉通りとは受け取れない可能性がある。しかしながら、それでも彼の気遣いをネルソンは感じ取っていた。だからこそ、彼は敢えてクローネに頭を下げる。


 一方、突然英雄に頭を下げられたクローネには戸惑いと困惑が襲いかかり、彼女はやむなく振り上げた拳を下ろした。


「むむぅ、英雄殿の頼みなら……居候、決して貴様の案を受け入れたわけではないからな!」

 捨て台詞ともいうべきその言葉を残して、クローネはネルソンを連れ部屋から出て行く。

 そうしてセナだけが残されたタイミングで、部屋の奥で待機していたミリナがゆっくりとその姿を現した。


「さて、本当に信用してよろしいのですか?」

「いいんじゃないかな。比較の問題ではあるけどね」

 セナは軽く肩をすくめながら、あっさりした口調で答える。


「弓の神器を扱うが故に、貴方を狙った犯人ではないから……ですか」

「いや、それは間違いさ。彼が絶対に私を刺してないとは思っていないよ」

 わずかに苦笑を浮かべながら、セナはミリナに向かいそう言ってのける。

 ミリナは途端に怪訝そうな表情を浮かべたが、セナはその理由をそのまま口にした。


「別に私のこの薄い胸板を貫くのに、神器を用いる必要はない。短剣でも、いやナイフでさえも十分に可能。つまりそういうことさ」

「……ではなぜあのようなことを?」

 そこまで考えているのならば、ネルソンを信用することにリスクがあることは明らかであった。だからこそ、彼女はその言葉の意味がわからずセナへと問いただす。


「確かに彼も犯人でないとは言い切れない。でも相対的にその可能性は低い。それだけの話だよ」

「他の英雄よりは信用できると?」

「状況さえ整えれば、神器の事を除いても彼は他と代えがたい人材さ。だからこそ甘い餌を用意してグイネットを型にはめることにした。それなりに手間をかけてね」

 軽く肩をすくめながら、セナは苦笑交じりにそう告げる。

 すると、実際にその手間の大部分を押し付けられた当人が、ようやく納得したようにその口を開いた。


「最初に彼を引き込みたいが故に、グイネットが攻め込みやすい環境を用意した……そういうことですか」

「そう、そのためにクーデターなんて絵空事に興じる人たちも用意したのさ。だがその甲斐はあった」

 クーデター組織の構築、工作兵の往来ルートの確立、そして誇張されたダグラス王国のグイネットへの現状報告。


 そのいずれもが完璧であったとは、セナとて思っていない。

 しかしながら結果として、それなりに満足の行く形となったこともまた事実であった。


 一方、そんな彼の手足として奔走してきたミリナは、既にその関心を次へと移す。


「では、次は予定通りグイネットを攻めますか」

「いや、それはどうだろうね?」

 ミリナの問いかけに対し、セナはいたずらっぽく笑う。


「ですが先程、グイネットを攻めると言っておられましたが」

 セナとは対象的に、ミリナはいつもの無表情のまま当然の疑問をぶつける。

 だがそれに対し、セナはすぐに言葉を返すこと無くその視線を落とす。

 そして自らの手番のままとなっていたシャトランジの駒をその手にした。


「確かにグイネットは攻める。ただそれは次の一手ではない。まず叩くのは……」

 そう口にすると、彼は手にしていた戦車を大きく動かし、ネルソン側の王の守りの要となっていた馬を奪う。


「馬……つまり厄介な騎士国を叩く。そういうことですか」

 まじまじと盤面を見ながら、ミリナはそう呟く。


 セナの一手で盤上の戦況はまさに一変していた。

 強く攻めていたはずのネルソンの陣内は丸裸となり、そして彼の王はいつの間にかセナの軍勢の餌となる。


「そう、いきなりグイネットを狙う必要はない。状況を整えるために、彼の国と犬猿の仲にある隣国、ボランズ騎士国を攻める。それが大陸進出の第一歩さ」


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